外は静かに冷えていた。
閉め切った窓のガラス越しに、淡くくもった光が差し込んでいる。
秋が終わりかけている。街の木々はすっかり色を失い、風の音にはもう冬の足音が混じっていた。
エアコンの音が小さく唸りを上げ、部屋の空気だけが不自然なぬくもりを保っていた。
その中心で、紬は湊の隣に座り、毛布にくるまりながらスナック菓子をつまんでいた。
「……ん、美味しい」
口に出してみたけれど、味なんて正直よくわからなかった。
ただ、こうして何かを食べながら、何気ない顔で湊の隣にいるということ自体が、妙に現実味を欠いていた。
テレビでは、芸人たちが寒さに震えるロケ映像を流していた。
笑い声のSEが響くたび、画面の外の時間がその場に取り残されていくような気がした。
紬の意識は、テレビの内容にはほとんど向いていなかった。
目の端に、視線を引くものがあった。
棚の上。丁寧に巻かれたネクタイと、その隣に置かれた数冊の本。そして――古びた写真立て。
中の写真は伏せられていた。けれど、その立てかけられた角度に、どこか“他人の手”が加わったような痕跡があった。
なんでもない日常の中に、ふいに差し込まれる“誰かの痕跡”。それが、心の奥を静かにざわつかせる。
自分でも気づかないうちに、紬はそちらに手を伸ばしかけていた。
「気になる?」
不意に声がして、肩がぴくりと跳ねた。
湊がこちらを見ていた。優しい笑みだった。
けれどその笑顔の奥に、何かを悟ったような薄い影が差している気がして、思わず言葉に詰まった。
「……ううん、なんでもない」
ぎこちない笑顔でごまかしながら、スナック菓子の袋を静かに閉じる。
だけど――本当は、気になっていた。
この部屋の空気には、湊の時間が染み込んでいる。
紬が知らない日々や、見たことのない笑い声や、ふたりきりじゃなかった記憶の匂いが、ふとした拍子に顔を覗かせる。
それはきっと、当たり前のことなのだ。
湊には湊の過去があって、そこに誰かがいたとしても、責められることじゃない。
……そう思っている。頭では。
でも心の奥底では、「代わり」じゃないかという恐怖が、ゆっくりと芽吹いている。
それを言葉にする勇気は、まだ持てなかった。
「……湊」
不意に名前を呼んだ。自然に、声が出ていた。
湊は少しだけ目を細めて、こちらを見た。
その穏やかな眼差しの中に、自分が映っている気がして、紬は小さく息を吸った。
――もう少しだけ、この時間に甘えてもいいよね。
◇◇◇
夕方の空は、薄くけぶった雲に覆われていた。
日が沈むのが早くなったせいで、時計の針はまだ五時を指していたのに、街はもう夜の気配をまといはじめている。
湊の部屋を出て、二人で歩いていると、吐く息が白くなった。
紬は首元のマフラーをぎゅっと巻き直す。
歩道の街路樹はほとんど葉を落としていて、乾いた枝が風に揺れていた。
ふたりで黙って歩く時間は、嫌いじゃない。
でも今日は、足音ばかりがやけに大きく感じた。
ベンチのある広場に差しかかると、紬は湊の手を引いてそこに座った。
風除けのない場所だったけれど、不思議と寒さは気にならなかった。むしろ、湊がすぐ隣にいることで、指先まであたたかくなっている気がした。
だからこそ、言いたくなってしまった。
「……ねえ、湊」
名前を呼ぶと、湊が横顔のまま少しだけ視線を寄越す。
「誰かのこと、まだ引きずってる?」
風の音が、一瞬だけ止まったように感じた。
自分でも、どうしてこんなことを聞いてしまったのかわからなかった。
たぶん――さっき部屋で見かけたあの写真立て。
それが、頭から離れなかった。
湊は黙った。
返事がこない時間が、紬の胸の奥をきゅうと締めつけた。
でもすぐに、湊は言った。
「忘れてはいないよ。でも、それで君を曖昧に見たりはしない」
その言葉に、嘘は感じなかった。
けれど――それでも、心の中にある“答えの出ない不安”までは、消えてくれなかった。
「そっか……」
声が震えそうになるのをごまかすように、紬は自分の指先を見つめた。
しばらくの沈黙のあと、湊が静かに言葉を重ねる。
「君は、俺にとって今ここにいる人だよ。……それだけじゃ、不安か?」
紬は答えなかった。
答えたら、泣いてしまいそうだったから。
その代わり、そっと身を寄せる。
「……好きになるの、こわい」
「嫌われるのも、忘れられるのも、置いていかれるのも……全部」
ようやく絞り出せたその声は、まるで風に紛れてしまいそうなほどかすれていた。
「でも、湊の隣にいると、少しだけ平気になれる気がする」
その言葉に、湊は何も言わず、ただ腕を伸ばして紬をそっと抱き寄せた。
抱きしめられていると、世界の輪郭がぼやける気がした。
寒さも、孤独も、全部遠ざかっていくような気がした。
――この人のことを、もっと信じたい。
けれど、心の奥ではまだ、小さな棘が疼いていた。
◇◇◇
夜の静けさが、部屋全体を包みこんでいた。
エアコンの風が一定のリズムで吐き出されていて、その音がかえって孤独を遠ざけてくれているように感じた。
湊の部屋で過ごす夜も、もう何度目かになる。
けれど、毎回どこか緊張してしまうのは、自分の居場所じゃないという意識が抜けきらないせいかもしれない。
シャワーを浴びて出てくると、湊がタオルを差し出してくれた。
受け取ると、ふわりと彼の香りがした。石鹸と、洗い立ての衣類の香り――そして、湊自身の匂い。
湊のシャツを借りて、肩をすくめながら袖を通す。
サイズは当然大きくて、裾は太ももまで届いた。
肌の上を布が撫でるたび、自分が“彼のもの”に包まれているような感覚がして、なんとも言えない気持ちになる。
リビングに戻ると、湊がソファの端に腰をかけていた。
目が合い、彼はゆるく笑った。
「似合ってる」
その一言に、紬は照れくさそうに目をそらした。
「……湊のシャツだし」
「だから、似合ってるって言ってるんだよ」
言葉の端にある優しさが、うれしくて、ちょっとだけこわい。
優しくされるたび、欲が増えていく。もっと触れてほしい、もっと見てほしい、もっと――ずっと一緒にいてほしい。
けれど今日は、自分から線を引きたかった。
ベッドに入る前、紬はぽつりと口にした。
「……今日は、手出さないでね」
湊は一瞬だけ目を見開いたあと、ふっと肩の力を抜いて微笑んだ。
「……がまんしてるって、知ってた?」
その冗談めいた言葉に、紬は思わず吹き出してしまう。
「うん、知ってた。でも、そういう湊が好き」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
言葉を交わしているだけなのに、胸の奥がぽっと熱くなる。
ベッドに入ると、湊が毛布の上からそっと腕を回してくる。
紬はその腕にすっぽりと収まりながら、静かに目を閉じた。
鼓動が近い。
あたたかさも、呼吸のリズムも、全部すぐそばにある。
それだけで、どうしようもなく安心できる。
――だけど、心のどこかではまだ、自分の影に怯えている。
信じたい。ちゃんと信じたい。
けれどそのためには、自分の過去や、傷や、こわさごと、この人に預けていかなきゃいけない。
すぐにはできないけど――きっと、いつか。
◇◇◇
部屋の明かりは落とされていた。
ベッドサイドに置かれた小さな照明だけが、ほのかに輪郭を照らしている。
湊の寝息はまだ聞こえない。彼は目を閉じていたけれど、完全には眠っていないのかもしれない。
紬は彼の胸元に頭を乗せたまま、そっと目を開けた。
湊の鼓動が、すぐ耳元でとくん、とくんと響いている。
優しくて、一定で、まるで何もかもを肯定してくれるような音。
――ねえ、湊。
声に出せないその名前を、心の中で何度も呼んだ。
もし、ここから先にもっと深く踏み込んだら。
この人の過去も、孤独も、全部抱えられるようになったら。
私はもっと強くなれるんだろうか。
でも、いまはまだ――
(こわいよ)
心の中で呟いたその言葉が、胸の奥に沈んでいく。
でも、今夜は逃げなかった。逃げたいと思わなかった。
湊の手が、無意識のうちにぴくりと動いて、紬の指先に触れた。
――自然と、指を絡めた。
ぎゅっと強く握るのではなく、ただ、触れているだけ。
でも、それだけでじゅうぶんだった。
(……こわいけど、好きになってしまった)
(好きになっても、いいの?)
答えはまだわからない。
でも今は、こうして隣にいられることだけで、少しだけ前に進めた気がした。
目を閉じたまま、紬は小さく息を吐いた。
そして、眠るふりをした湊の鼓動に身を委ねながら、そっと目を閉じる。
冬の始まりの夜は、静かに深まっていった。