空気が冷たく澄んでいた。吐く息が白くなるたびに、季節の移ろいを身体が覚えていく。
午後の講義が終わった帰り道、紬は駅前のベンチに腰を下ろしていた。アウターのポケットに手を突っ込んでいても、指先はじんじんと痺れている。それでも、スマートフォンを握ったまま、通知の鳴らない画面をじっと見つめていた。
ここ数日、湊からの連絡は減っていた。理由は、きっとわかっている。あの日、自分のわがままで彼を困らせてしまったから。
「……ううん。違うよ」
ぽつりと呟いた声が、冷たい風に溶けていく。湊は、困っていたわけじゃない。彼はちゃんと、自分の気持ちを守ろうとしてくれた。自分が少しでも無理をしていないか、そういう目をしていた。
けれど、それが余計に胸に刺さってしまった。
どうしても、自分の存在が「重い」もののように思えてしまう。触れたら壊れてしまいそうな関係に、紬の方が勝手に傷ついて、勝手に距離を測ってしまっている。
「……好き、なのに」
涙は出ない。泣くほどの痛みじゃない。ただ、ぽっかりと心の中に穴が開いたような、あのときの感触がずっと残っているだけだ。
そのまま数分、スマホを握りしめたまま動けずにいた。ようやく画面に視線を落とすと、通知が一件だけ届いていた。
──「今日、時間ある?」
名前を見た瞬間、指先がピクリと動いた。まるで身体の奥のどこかに、小さな火が灯ったみたいだった。
それでも、すぐには返信できなかった。
心が追いつかないまま、現実が少しだけ先を走っていく。紬はゆっくりと目を閉じ、深呼吸をひとつ。
寒空の下、遠くの踏切がカンカンと鳴る音が聞こえていた。
◇◇◇
午後のオフィスは、いつもより少し静かだった。
湊はデスクに座り、パソコンの画面をぼんやりと眺めていた。
仕事の合間の雑談に紛れて、同僚がふと口にした過去の恋人の話題が耳に入る。
「おまえ、前に付き合ってたあの人、まだ気にしてるの?」
「いや、もう完全に吹っ切れたって言ってたけどな」
その会話は軽い冗談のようだったが、湊の胸にさざ波を立てた。
一瞬、顔色が変わるのを自分でも感じた。
記憶の奥底に、誰かの笑顔がちらつく。
あの日々の光景、言葉、傷跡。
それはもう過去のことだと分かっている。けれど、心の片隅にまだ収まっている痛みは、完全に消え去ることはなかった。
「もう終わった話だ」
自分にそう言い聞かせるけれど、胸の奥に残った棘は消えなかった。
会話が終わり、周囲がいつもの忙しさに戻ると、湊は軽く深呼吸をした。
モニターの向こうに、まだ誰も気づいていない孤独がぽつんと座っている気がした。
◇◇◇
帰宅した部屋は、少しひんやりとしていた。
紬はキッチンで食事の準備をしながら、どこか落ち着かない様子で何度も手を止めては考え込んでいた。
湊の帰る音が廊下から聞こえ、紬はふっと顔を上げる。
「おかえり」と小さな声で告げると、湊は肩の荷を降ろしたように息を吐いた。
食卓を囲んでから、紬が勇気を振り絞って尋ねる。
「……湊、今、幸せ?」
湊は驚いたように目を見開き、少しの間黙ったあと、静かに答えた。
「……うん、幸せだよ」
その言葉に紬は微笑む。けれどすぐに視線を落とし、また問いかける。
「じゃあ、もし昔の人が戻ってきたら、どうする?」
その質問に湊の顔が一瞬曇る。
答えを探すように唇を噛んだあと、やっと口を開いた。
「そんなこと、ないよ」
紬はその返事に、わずかにうなずく。
「……この部屋に、私だけがいたらいいのに」
その声は軽い冗談のようでいて、同時にどこか切実な響きを含んでいた。
湊は黙って紬の手を握り返す。
静かな夜の中、二人の間に言葉は少なかったが、その温もりがなによりも確かなものだった。
◇◇◇
テレビの灯りがゆらゆらと揺れている。
画面はついているが、ふたりの視線は合わないまま、ただ同じ空間を共有していた。
紬はそっと湊の肩に頭を預ける。
彼の体温がじんわりと伝わってくる。
「湊が好き。ずっと一緒にいたいって思うの、変かな……?」
その言葉は、小さな吐息とともに零れ落ちた。
湊は紬の手をぎゅっと握り返す。
「俺も、そう思ってるよ」
言葉は短くても、その温もりは深く胸に沁みていく。
ほんの少しの安堵と、それと同じくらいの不安が心の隅で揺れていた。
けれど、確かに今、ここにはふたりだけの温度があった。
紬は目を閉じて、そっと微笑んだ。
夜は静かに更けていく。