夜の静けさが部屋を満たしていた。
時計の秒針がやけに耳につく。カチ、カチ、と。リズムのような、拒絶のような、呼吸のような音。
薄く開けたカーテンの隙間から、街灯の明かりが差し込み、壁の一部をぼんやりと照らしている。明かりは静かに瞬きながら、部屋の中の「ひとり」を際立たせる。
スマホはベッドの端に置いたまま。通知はない。さっきまで湊と一緒にいたのに、帰ってきた瞬間から急に現実に戻されたような気がした。
息が、少し苦しい。
湊の匂いが、服にわずかに残っていて、それが余計に心をざわつかせる。
(あの人と一緒にいると、いろんなことがまるで夢みたいに思えるのに……)
紬は膝を抱えて、ベッドの上にうずくまった。
照明は点けていない。ただ、部屋の奥で常夜灯だけが、申し訳程度にその存在を示している。
ぼんやりと、昔のことを思い出す。
母がまだ家にいた頃。姉がまだ、笑って話しかけてくれていた頃。
楽しかった記憶も、苦しかった記憶も、どこか色褪せていて、うまく輪郭を捉えられない。ただ、心のどこかが冷たくなる感覚だけが、はっきりと蘇ってくる。
(どうして、私は……)
無意識に、唇を噛んでいた。
自分がどこで間違ったのか、どうしてこうなってしまったのか。
その答えを探すたび、いつも過去に戻ってしまう。誰かに怒られた言葉、黙って見て見ぬふりをされた瞬間、気づいてもらえなかった沈黙の数々。
それらが、じわじわと心を蝕んでいた。
(ほんとは、もっと……ちゃんとした人間だったらよかったのに)
強く抱えた膝が、指先の力で少し震える。
ふと、湊の顔が脳裏に浮かぶ。
優しかった声。頭を撫でてくれた手。夜道で迷っていたとき、ただ隣にいてくれたあのぬくもり。
あれは夢じゃない。確かに、あのとき救われた。
(あの人は……私の全部を知ったら、どう思うんだろう)
喉の奥がつまった。
何か言葉にしたかったけど、声にならなかった。
不安が、またじわじわと戻ってくる。せっかく手にしかけた温度が、指の隙間から逃げていくように。
だけど。
それでも――。
紬はそっと、自分の胸のあたりを押さえた。
ここにまだ、ほんのわずかでも残っている湊の存在が、消えてしまわないように。
(……怖いけど、ちゃんと向き合いたい)
誰に言うでもない、心の中の声。
暗闇の中で、それは確かに小さく灯った。
◇◇◇
スマホが、わずかに震えた。
テーブルの上に置いたままのそれに目をやると、画面には懐かしい名前が浮かんでいた。数年ぶりに目にするその名前に、胸の奥がじわりと冷える。
「……」
今、紬はキッチンで何かをしている。湯が沸く音と、食器を揃える音が重なる。それらが妙に遠く感じられた。
『久しぶり。今って、少しだけ話せる?』
届いたメッセージの短さは、逆にその重さを際立たせる。何を話したいのかは、書かれていない。でも、わかってしまう。
あの人がこんなふうに連絡を寄越すのは、決まって「何かを終わらせたいとき」だった。
画面を伏せるようにしてスマホを裏返した。けれど、心の中で揺れた波は簡単には鎮まらない。
この数日、紬との距離は確かに近づいていた。無理をしているように見えていた彼女が、ようやく少し笑ってくれるようになってきた。それがどれだけ嬉しかったか。
――なのに、今さら、なんだって。
足元から静かに冷たいものが這い上がってくるようだった。過去を断ち切ったつもりでいた。なのに、まだ残っていた。切り取られた写真のように、輪郭だけがくっきりと残っている。
「湊、お茶でいい? それともココアがいい?」
声がして、はっとする。紬が振り返って、湯気の立つマグカップを両手で持っていた。今の自分の顔が、どんな表情になっているのか、怖くてわからなかった。
「……ココアで」
なるべく普段通りの声を出したつもりだったが、紬の視線がわずかに揺れた。彼女はすぐには何も言わなかった。ただ、マグカップをテーブルに置き、その横にそっと身を沈めた。
このあたたかさを、裏切りたくなかった。
でも、スマホの画面の向こうで、もう一つの過去が静かに呼吸している。
何を選ぶのか。どうするのか。
今はまだ、その答えが出せなかった。
◇◇◇
日が落ちるのが、すっかり早くなっていた。
カーテンの隙間から漏れる橙色の光が、部屋の空気をぼんやり染める。
湊はソファに座ったまま、スマホを伏せた。画面の光はもう消えている。通知は一つだけ。だがその一つが、胸の奥にざらりとした小さな棘を残していた。
「……湊?」
紬の声が背後から届く。
キッチンの方でお湯を沸かしていたらしい。湯気の匂いと、温かい飲み物の香りがふわりと鼻先をくすぐった。
振り向くと、紬がマグカップを二つ抱えて、そろそろと歩いてきていた。
指先が少し赤い。寒さと、たぶん湯気のせいだろう。
「ありがと」
湊はそう言って受け取る。マグカップの熱がじわりと掌に伝わってきた。
静かな時間だった。テレビはついていない。窓の外では風が枯葉を転がしている。どこか、決壊の直前にあるような、繊細な均衡。
「湊、なんか元気ない?」
紬が、ぽつりと口を開いた。
湊は一瞬だけ目を伏せる。
その言葉が、どこか怖かった。彼女はいつだって、湊のちいさな揺れに敏感すぎるくらい気づく。
「……そう見えた?」
「うん。さっきから、ちょっとだけ、遠い感じしたから」
やわらかい声だった。責めるような色はない。ただ、ただ、湊を心配する響き。
その真っ直ぐさに、どこか申し訳なさが押し寄せる。
「仕事のこと、ちょっと思い出してただけ」
湊はそう誤魔化すように言った。
紬はそれ以上は聞いてこない。けれど湊にはわかる。彼女はたぶん、嘘だと気づいている。けれど、踏み込まずにいてくれているのだ。
この穏やかな時間を壊したくない。
だが、その「壊したくなさ」が、かえって小さな嘘を重ねさせていく。
湊はマグカップを口に運びながら、自分の胸の奥で、なにかが少しずつ硬くなっていくのを感じていた。
◇◇◇
湊がシャワーを浴びている間、紬はソファで毛布にくるまりながらスマホをいじっていた。けれど、指はほとんど動かず、画面はすぐ暗くなる。
聞こえるのはシャワーの音と、窓の外で風がカーテンを揺らす音。室内は温かいはずなのに、指先が冷えていくようだった。
――なんだろう、この感じ。
湊がどこかに心を置いてきたような、そんな印象があった。言葉にはしない。でも、その沈黙が逆に何かを物語っているようで、胸がざわつく。
少し前までなら、それを不安だと認めるのが怖かった。問い詰めて嫌われたらどうしよう。相手にされなくなったらどうしよう。そう思って黙っていた。
でも今は――少しだけ違う。
湊のことが好きだ。好きで、一緒にいたいと思っている。だからこそ、彼の表情の揺れに気づくし、それに目をそらさずにいたいと思う。
湊がシャワーを終え、リビングに戻ってきた。髪をタオルで拭きながら、いつも通りの顔をしている。けれど、その“いつも通り”が今日は少しだけ、遠い。
「……湊」
名前を呼ぶと、彼は一瞬驚いたように眉を上げた。
「ん?」
「なんか、元気ない?」
静かな問いかけに、湊は動きを止めた。タオルの端が指の間で握られたまま、目線だけが揺れる。
「……いや、大丈夫だよ」
そう答える声はやさしくて、けれどほんの少し、嘘が混じっているように感じた。
「そっか……でも、無理しないでね」
それ以上は何も言わない。問い詰めたりもしない。ただ、そのまま手を伸ばして、湊の手を握った。
湊の目が一瞬、大きく見開かれる。そして、その手をゆっくりと握り返してくれた。
指先のぬくもりが、静かに紬の心に沁み込んでくる。
風の音が止んだ。リビングの静けさの中で、二人の距離は少しだけ縮まったように感じられた。