※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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true 15話

 夜の静けさが部屋を満たしていた。

 時計の秒針がやけに耳につく。カチ、カチ、と。リズムのような、拒絶のような、呼吸のような音。

 

 薄く開けたカーテンの隙間から、街灯の明かりが差し込み、壁の一部をぼんやりと照らしている。明かりは静かに瞬きながら、部屋の中の「ひとり」を際立たせる。

 

 スマホはベッドの端に置いたまま。通知はない。さっきまで湊と一緒にいたのに、帰ってきた瞬間から急に現実に戻されたような気がした。

 息が、少し苦しい。

 湊の匂いが、服にわずかに残っていて、それが余計に心をざわつかせる。

 

(あの人と一緒にいると、いろんなことがまるで夢みたいに思えるのに……)

 

 紬は膝を抱えて、ベッドの上にうずくまった。

 照明は点けていない。ただ、部屋の奥で常夜灯だけが、申し訳程度にその存在を示している。

 

 ぼんやりと、昔のことを思い出す。

 母がまだ家にいた頃。姉がまだ、笑って話しかけてくれていた頃。

 楽しかった記憶も、苦しかった記憶も、どこか色褪せていて、うまく輪郭を捉えられない。ただ、心のどこかが冷たくなる感覚だけが、はっきりと蘇ってくる。

 

(どうして、私は……)

 

 無意識に、唇を噛んでいた。

 自分がどこで間違ったのか、どうしてこうなってしまったのか。

 その答えを探すたび、いつも過去に戻ってしまう。誰かに怒られた言葉、黙って見て見ぬふりをされた瞬間、気づいてもらえなかった沈黙の数々。

 それらが、じわじわと心を蝕んでいた。

 

(ほんとは、もっと……ちゃんとした人間だったらよかったのに)

 

 強く抱えた膝が、指先の力で少し震える。

 ふと、湊の顔が脳裏に浮かぶ。

 優しかった声。頭を撫でてくれた手。夜道で迷っていたとき、ただ隣にいてくれたあのぬくもり。

 あれは夢じゃない。確かに、あのとき救われた。

 

(あの人は……私の全部を知ったら、どう思うんだろう)

 

 喉の奥がつまった。

 何か言葉にしたかったけど、声にならなかった。

 不安が、またじわじわと戻ってくる。せっかく手にしかけた温度が、指の隙間から逃げていくように。

 

 だけど。

 

 それでも――。

 

 紬はそっと、自分の胸のあたりを押さえた。

 ここにまだ、ほんのわずかでも残っている湊の存在が、消えてしまわないように。

 

(……怖いけど、ちゃんと向き合いたい)

 

 誰に言うでもない、心の中の声。

 暗闇の中で、それは確かに小さく灯った。

 

 ◇◇◇

 

 スマホが、わずかに震えた。

 

 テーブルの上に置いたままのそれに目をやると、画面には懐かしい名前が浮かんでいた。数年ぶりに目にするその名前に、胸の奥がじわりと冷える。

 

 「……」

 

 今、紬はキッチンで何かをしている。湯が沸く音と、食器を揃える音が重なる。それらが妙に遠く感じられた。

 

 『久しぶり。今って、少しだけ話せる?』

 

 届いたメッセージの短さは、逆にその重さを際立たせる。何を話したいのかは、書かれていない。でも、わかってしまう。

 あの人がこんなふうに連絡を寄越すのは、決まって「何かを終わらせたいとき」だった。

 

 画面を伏せるようにしてスマホを裏返した。けれど、心の中で揺れた波は簡単には鎮まらない。

 この数日、紬との距離は確かに近づいていた。無理をしているように見えていた彼女が、ようやく少し笑ってくれるようになってきた。それがどれだけ嬉しかったか。

 

 ――なのに、今さら、なんだって。

 

 足元から静かに冷たいものが這い上がってくるようだった。過去を断ち切ったつもりでいた。なのに、まだ残っていた。切り取られた写真のように、輪郭だけがくっきりと残っている。

 

「湊、お茶でいい? それともココアがいい?」

 

 声がして、はっとする。紬が振り返って、湯気の立つマグカップを両手で持っていた。今の自分の顔が、どんな表情になっているのか、怖くてわからなかった。

 

「……ココアで」

 

 なるべく普段通りの声を出したつもりだったが、紬の視線がわずかに揺れた。彼女はすぐには何も言わなかった。ただ、マグカップをテーブルに置き、その横にそっと身を沈めた。

 

 このあたたかさを、裏切りたくなかった。

 

 でも、スマホの画面の向こうで、もう一つの過去が静かに呼吸している。

 

 何を選ぶのか。どうするのか。

 今はまだ、その答えが出せなかった。

 

 ◇◇◇

 

 日が落ちるのが、すっかり早くなっていた。

 カーテンの隙間から漏れる橙色の光が、部屋の空気をぼんやり染める。

 

 湊はソファに座ったまま、スマホを伏せた。画面の光はもう消えている。通知は一つだけ。だがその一つが、胸の奥にざらりとした小さな棘を残していた。

 

「……湊?」

 

 紬の声が背後から届く。

 キッチンの方でお湯を沸かしていたらしい。湯気の匂いと、温かい飲み物の香りがふわりと鼻先をくすぐった。

 

 振り向くと、紬がマグカップを二つ抱えて、そろそろと歩いてきていた。

 指先が少し赤い。寒さと、たぶん湯気のせいだろう。

 

「ありがと」

 湊はそう言って受け取る。マグカップの熱がじわりと掌に伝わってきた。

 

 静かな時間だった。テレビはついていない。窓の外では風が枯葉を転がしている。どこか、決壊の直前にあるような、繊細な均衡。

 

「湊、なんか元気ない?」

 

 紬が、ぽつりと口を開いた。

 湊は一瞬だけ目を伏せる。

 その言葉が、どこか怖かった。彼女はいつだって、湊のちいさな揺れに敏感すぎるくらい気づく。

 

「……そう見えた?」

 

「うん。さっきから、ちょっとだけ、遠い感じしたから」

 

 やわらかい声だった。責めるような色はない。ただ、ただ、湊を心配する響き。

 その真っ直ぐさに、どこか申し訳なさが押し寄せる。

 

「仕事のこと、ちょっと思い出してただけ」

 

 湊はそう誤魔化すように言った。

 紬はそれ以上は聞いてこない。けれど湊にはわかる。彼女はたぶん、嘘だと気づいている。けれど、踏み込まずにいてくれているのだ。

 

 この穏やかな時間を壊したくない。

 だが、その「壊したくなさ」が、かえって小さな嘘を重ねさせていく。

 

 湊はマグカップを口に運びながら、自分の胸の奥で、なにかが少しずつ硬くなっていくのを感じていた。

 

 ◇◇◇

 

 湊がシャワーを浴びている間、紬はソファで毛布にくるまりながらスマホをいじっていた。けれど、指はほとんど動かず、画面はすぐ暗くなる。

 

 聞こえるのはシャワーの音と、窓の外で風がカーテンを揺らす音。室内は温かいはずなのに、指先が冷えていくようだった。

 

 ――なんだろう、この感じ。

 

 湊がどこかに心を置いてきたような、そんな印象があった。言葉にはしない。でも、その沈黙が逆に何かを物語っているようで、胸がざわつく。

 

 少し前までなら、それを不安だと認めるのが怖かった。問い詰めて嫌われたらどうしよう。相手にされなくなったらどうしよう。そう思って黙っていた。

 

 でも今は――少しだけ違う。

 

 湊のことが好きだ。好きで、一緒にいたいと思っている。だからこそ、彼の表情の揺れに気づくし、それに目をそらさずにいたいと思う。

 

 湊がシャワーを終え、リビングに戻ってきた。髪をタオルで拭きながら、いつも通りの顔をしている。けれど、その“いつも通り”が今日は少しだけ、遠い。

 

「……湊」

 

 名前を呼ぶと、彼は一瞬驚いたように眉を上げた。

 

「ん?」

 

「なんか、元気ない?」

 

 静かな問いかけに、湊は動きを止めた。タオルの端が指の間で握られたまま、目線だけが揺れる。

 

「……いや、大丈夫だよ」

 

 そう答える声はやさしくて、けれどほんの少し、嘘が混じっているように感じた。

 

「そっか……でも、無理しないでね」

 

 それ以上は何も言わない。問い詰めたりもしない。ただ、そのまま手を伸ばして、湊の手を握った。

 

 湊の目が一瞬、大きく見開かれる。そして、その手をゆっくりと握り返してくれた。

 指先のぬくもりが、静かに紬の心に沁み込んでくる。

 

 風の音が止んだ。リビングの静けさの中で、二人の距離は少しだけ縮まったように感じられた。

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