商店街を歩く人たちのざわめきと、夕方の風に揺れる旗の音が、まるで遠くの景色みたいにぼんやりと感じられた。
湊の隣を歩きながら、紬は何度もその手を見つめた。自分の手と繋がれている、しっかりとした体温。
優しくて、あたたかくて、落ち着くのに。
――なのに、なぜか少しだけ寂しかった。
「ここのタルト、美味しいんだって。あとで寄ってみようよ」
そう言って笑う湊は、どこから見ても“優しい彼氏”だった。
店の看板を指さす指先も、向けられる視線も、ぜんぶちゃんと自分に向いている。
それでも、紬の胸の奥には小さな違和感が残る。まるで指の隙間から、こぼれ落ちてしまいそうなぬくもり。
「うん。楽しみ」
笑顔を返す。自然なふりは、もうすっかり上手になってしまった。
でも、頭の中にはさっきのやり取りが、何度も繰り返しよみがえっていた。
カフェで出されたケーキにフォークを入れながら、ふと、湊が「これ、柚月も好きそうだったな」とぽつりとこぼした瞬間。
――お姉ちゃんの名前を出した、その一言だけで。
胸の奥に、ふっと冷たい風が吹き抜けたような気がした。
(気にしちゃいけない。そんなの、ただの思い出話……)
そう言い聞かせるけれど、心は思うようにいかない。
お姉ちゃんと湊が付き合っていたこと。
その関係が終わってから、自分が湊と出会ったこと。
いま、こうして手を繋いでいる自分が、「あとから来た存在」だということ。
それを忘れた日は、一度もなかった。
「……紬?」
立ち止まった紬を振り返り、湊が首をかしげた。
我に返った紬は慌てて首を横に振る。
「ごめん、なんでもない。ちょっと考えごとしてただけ」
「そっか。無理しないでね」
湊の言葉は、いつだって優しい。
心配するように見つめる瞳も、その声も、全部やわらかくて、あたたかい。
でも、そのやさしさが、時々こわくなる。
――わたしは、ちゃんと湊に“いま”を生きてもらえているのかな。
そんなこと、確かめるすべなんてないのに。
どこかで「まだお姉ちゃんが残っている気がする」なんて、
自分でも、ひどいと思う。卑怯だと思う。
でも、どうしても不安になってしまう。
それほどに、湊が――好きだから。
タルトの店の前に立ち止まり、湊がショーケースを覗き込む。
紬もその隣に立って、もう一度手を握り直す。
その手の温度が、本当に“今の自分”に向けられているものだと、信じるように。
◇◇◇
夕暮れの商店街は、店じまいの準備に追われる店員たちの声と、どこかもの悲しい空気に包まれていた。
「ちょっと、これ持ってて。トイレ行ってくるね」
そう言って、紬は紙袋を湊に預けて足早に建物の中へと消えていく。
残された湊は、手にした袋の重さを持て余しながら、ベンチに腰を下ろした。
しばらくして、ポケットの中のスマートフォンが震える。
画面に浮かび上がった名前に、湊はわずかに眉を動かす。
――柚月。
懐かしい響き。けれど、今はその名前を口にすることさえ憚られる。
それが、いまの自分の立ち位置なのだと、湊は理解していた。
メッセージの本文は短い。
「少し話せる時間、もらえないかな」
読み終えたあとも、指先が画面の上に止まったまま動かなかった。
何かを返すべきなのか。それとも、黙ってこのままにすべきなのか。
――いや、違う。ちゃんと向き合わなきゃいけないことだ。
そう思った矢先に、足音が近づいてきた。
「お待たせ」
紬が戻ってきた。
湊は咄嗟にスマートフォンの画面を閉じ、画面を伏せてベンチの横に置く。
笑顔を向けるその表情に、不自然な硬さが混じっていないか、ほんの一瞬で確認しながら。
「ううん、大丈夫。……寒くなってきたね」
紬の手が、湊の手の甲にそっと重なる。
その手の温もりは変わらない。けれど、どこか不安げな瞳が湊を見つめていた。
「うん。そろそろ帰ろうか」
「……そうだね」
二人は並んで歩き出す。
先ほどと同じように手を繋ぎながら、どこかぎこちない沈黙が続いた。
紬は何も聞かなかった。スマートフォンの振動にも、画面を伏せた仕草にも。
でも――気づいていないわけじゃない。
無言の中で、紬は目を伏せる。
(……お姉ちゃん、なのかな)
それは確信ではなかった。
けれど、湊の手から感じた微かな揺らぎが、答えをにじませていた。
(わたしじゃなくて、お姉ちゃんのことで……湊の心が、少しだけ遠くに行った気がした)
繋いだ手の温度が、さっきより少しだけ冷たく感じられた。
◇◇◇
カーテンの隙間から差し込む街灯の明かりが、部屋の壁にぼんやりと滲んでいた。
静かすぎる夜。湊の部屋には、時計の針が刻む音と、かすかな寝息だけが漂っている。
ベッドに並んで寝ているのに、紬のまぶたは閉じなかった。
いつもなら、湊のそばで眠る安心感が、すぐに意識を連れていってくれるはずだった。
でも今夜は、何度目を閉じても、胸の奥がざわざわと騒がしくて、眠りが遠い。
隣で眠っている湊の寝顔を、そっと盗み見る。
眉の形も、まつげの長さも、なにも変わらない。
だけどその表情からは、いま何を夢見ているのか、わたしにはもうわからなかった。
(……お姉ちゃんのこと、考えてたのかな)
ふと、そんな思いがよぎる。
湊が伏せたスマートフォン、ほんの一瞬見えた名前。
見間違いかもしれない。違う人かもしれない。
でも、自分の中ではもう確信に変わりかけていた。
(わたしのこと、見てくれてるって……信じてたのに)
喉の奥がきゅっと痛む。
口に出せば、壊れてしまいそうな気がして、言葉は飲み込んだまま。
(お姉ちゃんは、綺麗で、大人で、湊の“はじめて”だった人で――)
そんな存在に、わたしが敵うわけがない。
そう思ってしまうことが、なにより悔しかった。
でも、比べてしまうのは止められない。
同じ顔、同じ血のつながり。
自分が“代わり”なんじゃないかという不安が、夜の静けさの中で形を持っていく。
「……っ」
胸の奥が苦しくて、つい唇をかんだそのとき――
隣から、ふいに手が伸びてきた。
寝返りを打った湊が、無意識のまま、紬の手を握っていた。
やわらかく、けれどしっかりと。
まるで、大丈夫だと伝えるように。
まるで、無言のまま、心をなだめるように。
「湊……」
返事はない。
ただ、湊の呼吸はゆっくりと規則正しく、眠りの中にあることを告げていた。
それでも、その手のぬくもりに、紬の胸の奥が少しだけ和らぐ。
(信じたい……信じたいよ。わたしのことを、ちゃんと見てくれてるって)
涙がこぼれないように、目をぎゅっと閉じた。
そのまま、握られた手を握り返す。強く、確かに。
(お姉ちゃんのことなんて、忘れて。……わたしだけを、見てよ)
そんな言葉を、声に出す勇気はなかった。
けれど紬は願っていた。
その手のぬくもりが、自分だけのものだと。
この手が、どこにも行かないでくれることを――。
◇◇◇
買い物袋を片手に、自宅のドアを開けた。
リビングには誰もいない。静まり返った空間に、微かに暖房の音だけが鳴っていた。
「……ただいま」
返事はない。
靴を脱ぎ、荷物をキッチンに置いてから、部屋の中を見て回る。風呂場、寝室、和室──どこにも紬の姿はなかった。
けれど、違和感はすぐに見つかる。
ソファのクッションの角度がずれている。ティッシュ箱の位置が微妙にずれていて、湯呑みの茶渋が新しくなっている。つい先ほどまで誰かがいたような、柔らかい気配が、部屋の空気にまだ残っていた。
ふと、視線がテーブルの上に吸い寄せられた。
そこに置かれていたのは、封筒だった。白い無地のもの。名前も宛先も書かれていないが、それが紬のものだとすぐにわかった。
躊躇いながらも手に取り、封を開ける。中には、便箋が一枚だけ入っていた。
──ごめんなさい。しばらく距離を置きます。
それだけの、短い言葉。
まるで逃げるように消えたのだろうか。いや、違う。紬はそんなふうに突き放す子じゃない。ただ、彼女なりに「答え」を出そうとしていたのだ。何かを見て、聞いて、感じて──その上で、まだここにはいられないと思った。
指先に、便箋の紙の感触が残る。
ソファに腰を下ろし、深く息をついた。胸の奥に鈍い痛みがあった。失望や怒りではなく、もっと静かで、ゆっくりと染みるような痛み。
「……お姉ちゃん、か」
声に出したのは、彼女がかつて呼んだ名前だった。
柚月──紬の姉であり、自分の過去でもある存在。
柚月の面影が、紬の中に見えたことがあった。けれど、それを口に出してはいけない気がして、ずっと黙っていた。そういう自分の曖昧さが、紬を不安にさせていたのかもしれない。
立ち上がり、まだ冷めていない湯呑みを手に取る。
冷えきる前に、気づくべきだったのだ。
彼女の揺らぎに。
彼女の問いに。
彼女の想いに。
窓の外はもうすっかり夜だった。街灯の下、細い雨が降り始めていた。
再び会えるのか。話せるのか。それは、紬の選ぶ道に委ねられていた。
けれど──
湊は静かに自分に言い聞かせる。
「俺は、逃げない」
手の中に残った便箋を、胸元にそっと押し当てた。
それが、彼女の「今」の答えなら。
自分は、自分の「これから」を、彼女に向けて歩き始めよう。