※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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true 16話

 商店街を歩く人たちのざわめきと、夕方の風に揺れる旗の音が、まるで遠くの景色みたいにぼんやりと感じられた。

 湊の隣を歩きながら、紬は何度もその手を見つめた。自分の手と繋がれている、しっかりとした体温。

 優しくて、あたたかくて、落ち着くのに。

 ――なのに、なぜか少しだけ寂しかった。

 

「ここのタルト、美味しいんだって。あとで寄ってみようよ」

 

 そう言って笑う湊は、どこから見ても“優しい彼氏”だった。

 店の看板を指さす指先も、向けられる視線も、ぜんぶちゃんと自分に向いている。

 それでも、紬の胸の奥には小さな違和感が残る。まるで指の隙間から、こぼれ落ちてしまいそうなぬくもり。

 

「うん。楽しみ」

 

 笑顔を返す。自然なふりは、もうすっかり上手になってしまった。

 でも、頭の中にはさっきのやり取りが、何度も繰り返しよみがえっていた。

 

 カフェで出されたケーキにフォークを入れながら、ふと、湊が「これ、柚月も好きそうだったな」とぽつりとこぼした瞬間。

 ――お姉ちゃんの名前を出した、その一言だけで。

 胸の奥に、ふっと冷たい風が吹き抜けたような気がした。

 

(気にしちゃいけない。そんなの、ただの思い出話……)

 

 そう言い聞かせるけれど、心は思うようにいかない。

 お姉ちゃんと湊が付き合っていたこと。

 その関係が終わってから、自分が湊と出会ったこと。

 いま、こうして手を繋いでいる自分が、「あとから来た存在」だということ。

 

 それを忘れた日は、一度もなかった。

 

「……紬?」

 

 立ち止まった紬を振り返り、湊が首をかしげた。

 我に返った紬は慌てて首を横に振る。

 

「ごめん、なんでもない。ちょっと考えごとしてただけ」

 

「そっか。無理しないでね」

 

 湊の言葉は、いつだって優しい。

 心配するように見つめる瞳も、その声も、全部やわらかくて、あたたかい。

 

 でも、そのやさしさが、時々こわくなる。

 

 ――わたしは、ちゃんと湊に“いま”を生きてもらえているのかな。

 

 そんなこと、確かめるすべなんてないのに。

 どこかで「まだお姉ちゃんが残っている気がする」なんて、

 自分でも、ひどいと思う。卑怯だと思う。

 

 でも、どうしても不安になってしまう。

 それほどに、湊が――好きだから。

 

 タルトの店の前に立ち止まり、湊がショーケースを覗き込む。

 紬もその隣に立って、もう一度手を握り直す。

 

 その手の温度が、本当に“今の自分”に向けられているものだと、信じるように。

 

 ◇◇◇

 

 夕暮れの商店街は、店じまいの準備に追われる店員たちの声と、どこかもの悲しい空気に包まれていた。

 

「ちょっと、これ持ってて。トイレ行ってくるね」

 

 そう言って、紬は紙袋を湊に預けて足早に建物の中へと消えていく。

 残された湊は、手にした袋の重さを持て余しながら、ベンチに腰を下ろした。

 しばらくして、ポケットの中のスマートフォンが震える。

 

 画面に浮かび上がった名前に、湊はわずかに眉を動かす。

 

 ――柚月。

 

 懐かしい響き。けれど、今はその名前を口にすることさえ憚られる。

 それが、いまの自分の立ち位置なのだと、湊は理解していた。

 

 メッセージの本文は短い。

 

「少し話せる時間、もらえないかな」

 

 読み終えたあとも、指先が画面の上に止まったまま動かなかった。

 何かを返すべきなのか。それとも、黙ってこのままにすべきなのか。

 

 ――いや、違う。ちゃんと向き合わなきゃいけないことだ。

 

 そう思った矢先に、足音が近づいてきた。

 

「お待たせ」

 

 紬が戻ってきた。

 湊は咄嗟にスマートフォンの画面を閉じ、画面を伏せてベンチの横に置く。

 笑顔を向けるその表情に、不自然な硬さが混じっていないか、ほんの一瞬で確認しながら。

 

「ううん、大丈夫。……寒くなってきたね」

 

 紬の手が、湊の手の甲にそっと重なる。

 その手の温もりは変わらない。けれど、どこか不安げな瞳が湊を見つめていた。

 

「うん。そろそろ帰ろうか」

 

「……そうだね」

 

 二人は並んで歩き出す。

 先ほどと同じように手を繋ぎながら、どこかぎこちない沈黙が続いた。

 

 紬は何も聞かなかった。スマートフォンの振動にも、画面を伏せた仕草にも。

 

 でも――気づいていないわけじゃない。

 

 無言の中で、紬は目を伏せる。

 

(……お姉ちゃん、なのかな)

 

 それは確信ではなかった。

 けれど、湊の手から感じた微かな揺らぎが、答えをにじませていた。

 

(わたしじゃなくて、お姉ちゃんのことで……湊の心が、少しだけ遠くに行った気がした)

 

 繋いだ手の温度が、さっきより少しだけ冷たく感じられた。

 

 ◇◇◇

 

 カーテンの隙間から差し込む街灯の明かりが、部屋の壁にぼんやりと滲んでいた。

 静かすぎる夜。湊の部屋には、時計の針が刻む音と、かすかな寝息だけが漂っている。

 

 ベッドに並んで寝ているのに、紬のまぶたは閉じなかった。

 

 いつもなら、湊のそばで眠る安心感が、すぐに意識を連れていってくれるはずだった。

 でも今夜は、何度目を閉じても、胸の奥がざわざわと騒がしくて、眠りが遠い。

 

 隣で眠っている湊の寝顔を、そっと盗み見る。

 眉の形も、まつげの長さも、なにも変わらない。

 だけどその表情からは、いま何を夢見ているのか、わたしにはもうわからなかった。

 

(……お姉ちゃんのこと、考えてたのかな)

 

 ふと、そんな思いがよぎる。

 湊が伏せたスマートフォン、ほんの一瞬見えた名前。

 見間違いかもしれない。違う人かもしれない。

 でも、自分の中ではもう確信に変わりかけていた。

 

(わたしのこと、見てくれてるって……信じてたのに)

 

 喉の奥がきゅっと痛む。

 口に出せば、壊れてしまいそうな気がして、言葉は飲み込んだまま。

 

(お姉ちゃんは、綺麗で、大人で、湊の“はじめて”だった人で――)

 

 そんな存在に、わたしが敵うわけがない。

 そう思ってしまうことが、なにより悔しかった。

 

 でも、比べてしまうのは止められない。

 同じ顔、同じ血のつながり。

 自分が“代わり”なんじゃないかという不安が、夜の静けさの中で形を持っていく。

 

「……っ」

 

 胸の奥が苦しくて、つい唇をかんだそのとき――

 

 隣から、ふいに手が伸びてきた。

 寝返りを打った湊が、無意識のまま、紬の手を握っていた。

 

 やわらかく、けれどしっかりと。

 まるで、大丈夫だと伝えるように。

 まるで、無言のまま、心をなだめるように。

 

「湊……」

 

 返事はない。

 ただ、湊の呼吸はゆっくりと規則正しく、眠りの中にあることを告げていた。

 

 それでも、その手のぬくもりに、紬の胸の奥が少しだけ和らぐ。

 

(信じたい……信じたいよ。わたしのことを、ちゃんと見てくれてるって)

 

 涙がこぼれないように、目をぎゅっと閉じた。

 そのまま、握られた手を握り返す。強く、確かに。

 

(お姉ちゃんのことなんて、忘れて。……わたしだけを、見てよ)

 

 そんな言葉を、声に出す勇気はなかった。

 

 けれど紬は願っていた。

 その手のぬくもりが、自分だけのものだと。

 この手が、どこにも行かないでくれることを――。

 

 ◇◇◇

 

 買い物袋を片手に、自宅のドアを開けた。

 

 リビングには誰もいない。静まり返った空間に、微かに暖房の音だけが鳴っていた。

 

 「……ただいま」

 

 返事はない。

 

 靴を脱ぎ、荷物をキッチンに置いてから、部屋の中を見て回る。風呂場、寝室、和室──どこにも紬の姿はなかった。

 

 けれど、違和感はすぐに見つかる。

 

 ソファのクッションの角度がずれている。ティッシュ箱の位置が微妙にずれていて、湯呑みの茶渋が新しくなっている。つい先ほどまで誰かがいたような、柔らかい気配が、部屋の空気にまだ残っていた。

 

 ふと、視線がテーブルの上に吸い寄せられた。

 

 そこに置かれていたのは、封筒だった。白い無地のもの。名前も宛先も書かれていないが、それが紬のものだとすぐにわかった。

 

 躊躇いながらも手に取り、封を開ける。中には、便箋が一枚だけ入っていた。

 

 ──ごめんなさい。しばらく距離を置きます。

 

 それだけの、短い言葉。

 

 まるで逃げるように消えたのだろうか。いや、違う。紬はそんなふうに突き放す子じゃない。ただ、彼女なりに「答え」を出そうとしていたのだ。何かを見て、聞いて、感じて──その上で、まだここにはいられないと思った。

 

 指先に、便箋の紙の感触が残る。

 

 ソファに腰を下ろし、深く息をついた。胸の奥に鈍い痛みがあった。失望や怒りではなく、もっと静かで、ゆっくりと染みるような痛み。

 

 「……お姉ちゃん、か」

 

 声に出したのは、彼女がかつて呼んだ名前だった。

 

 柚月──紬の姉であり、自分の過去でもある存在。

 

 柚月の面影が、紬の中に見えたことがあった。けれど、それを口に出してはいけない気がして、ずっと黙っていた。そういう自分の曖昧さが、紬を不安にさせていたのかもしれない。

 

 立ち上がり、まだ冷めていない湯呑みを手に取る。

 

 冷えきる前に、気づくべきだったのだ。

 

 彼女の揺らぎに。

 

 彼女の問いに。

 

 彼女の想いに。

 

 窓の外はもうすっかり夜だった。街灯の下、細い雨が降り始めていた。

 

 再び会えるのか。話せるのか。それは、紬の選ぶ道に委ねられていた。

 

 けれど──

 

 湊は静かに自分に言い聞かせる。

 

 「俺は、逃げない」

 

 手の中に残った便箋を、胸元にそっと押し当てた。

 

 それが、彼女の「今」の答えなら。

 

 自分は、自分の「これから」を、彼女に向けて歩き始めよう。

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