朝の光が、薄くカーテン越しに部屋の中を満たしている。
紬はひとり、自室のベッドで目を覚ました。
昨夜、自分の手で綴った紙の言葉が、まるで胸に重くのしかかるようだ。
──ごめんなさい。しばらく距離を置きます。
紙に書いたあの一文が、頭の中で何度も繰り返される。
離れるのは自分の意思なのに、なぜか胸が締めつけられる。
心の隅にぽっかりと空いた穴が、朝の光と共に大きくなっていく。
窓の外の景色がやけに静かで、まるで時間さえ止まっているように感じられた。
彼のぬくもりがない空間に、身体だけがぽつんと置き去りにされている。
――本当に、これでよかったのだろうか。
同じ時間、別の部屋で。
湊は手紙の便箋をそっと胸に当て、静かに目を閉じていた。
彼女の決断を重く受け止めつつも、焦燥感と不安が胸の中で交錯する。
「紬が、距離を置きたいと言った。受け入れなければ……でも、まだ諦めたくない」
呼吸を整え、彼はそっと立ち上がった。
ふたりは今、離れているけれど。
それぞれの場所で、まだ心は繋がっていると信じて。
◇◇◇
オフィスのデスクに座る湊。
パソコンの画面が淡い光を放つ中、集中しようとするけれど、頭の中はぐるぐると過去のことばかり。
柚月との記憶、そして紬との距離感――どれも整理がつかずに心がざわつく。
そんな時、隣の席にいる後輩の早川が声をかけてきた。
「先輩、最近元気がないみたいですけど、大丈夫ですか?」
礼儀正しい敬語で、真剣な眼差しが湊を見つめている。
湊は一瞬戸惑い、ぎこちなく笑みを返す。
「ありがとう。ちょっと考え事をしていただけだよ」
けれど、その言葉には自分でも嘘が混じっているのがわかった。
一方、学校の教室で紬は友人たちの話に相槌を打ちながらも、心ここにあらずだった。
何気ない会話も頭に入らず、窓の外の落ち葉が風に舞う様子に目を奪われる。
(変わるって、どういうことなんだろう……)
紬の胸には、不安と迷いがじわりと広がっていく。
◇◇◇
夕暮れの冷たい風が、紬の頬をかすめる。
バイト帰りの帰り道、彼女はいつものように公園のベンチに腰を下ろした。
ここは、以前湊と一緒に訪れた場所。静かな時間が二人を包んでいたはずだった。
スマートフォンを取り出す。
連絡を取りたい――けれど、指は画面の上で止まったまま。
送る勇気が出ない。
その時、画面が震え、湊からのメッセージが届く。
「無事に帰れてる?寒くない?」
短い一文。なのに、その言葉が胸に強く響いた。
紬は涙をこらえながら、返信せずに画面を見つめ続ける。
自分を見ていてくれる、確かな存在。
けれど、心のどこかにある不安は拭えなかった。
(私は本当に、見てもらえているの?)
スマホの明かりだけが、紬の揺れる心を照らしていた。
◇◇◇
夜の静かな廊下。紬は深呼吸をしてから、姉・柚月の部屋の前でそっとノックした。
扉がゆっくり開き、現れた柚月は柔らかなライトブラウンのロングカーディガンに、淡いグレーのシンプルなワンピースを合わせていた。足元は素足に黒のルームシューズ。疲れを感じさせない落ち着いた雰囲気が漂う。
「紬、こんな時間にどうしたの?」
紬は少し躊躇いながらも、声を震わせずに切り出した。
「お姉ちゃん……前から、私が何か抱えているのは気づいてた?」
柚月はゆっくりと頷き、優しいまなざしで答えた。
「うん、何かあったのは感じてたよ。でも詳しいことは知らなかった」
紬は胸の中で押し込めていた言葉を絞り出す。
「湊のこと……全部は話せてないけど、距離を置こうと思って手紙も書いた」
柚月の眉がわずかに動き、口を開いた。
「湊って……朝倉湊のこと?」
紬は小さく息を吐き、肯いた。
「そう。お姉ちゃんには全部は言えなくて……でも、少しでもわかってほしかった」
柚月は驚きながらもすぐに穏やかな表情に戻り、紬の手を優しく握った。
「そうだったんだね……紬が辛かったのは知らなかった。話してくれてありがとう」
紬は涙ぐみながらも、少しずつ心が軽くなるのを感じた。
「無理しなくていいよ。いつでもここにいるから、話したくなったら教えてね」
紬は小さく頷き、姉の温もりを胸に刻んだ。
――
場面は切り替わり、窓辺で夜空を見上げる湊。
冷たい夜風が髪を揺らし、街灯の淡い光が彼の横顔を淡く照らす。
胸の中に渦巻く焦りと迷い。
紬と距離を置く決断が、自分の心にどれほどの重みをもたらしているのか、改めて思い知らされる。
「逃げてばかりだった――」
これまでの自分の弱さを認める言葉が、喉の奥から自然と零れた。
けれど今は違う。
もう、現実から目を背けたくはない。
「紬のことも、自分のことも――ちゃんと向き合うんだ」
短く、しかし強く呟く声に、自分でも驚いた。
胸の奥で、小さな炎がゆっくりと燃え上がる。
それは、不安や痛みを伴いながらも、未来へと繋がる希望の光だった。
まだ完全に答えは見えない。
けれど、どんなに険しくても、この道を進むしかない。
「――必ず、もう一度、紬に届く」
決意を新たにし、湊は窓の外に広がる夜空を見上げた。