冬の朝は、どこか世界を遠ざけるように静かだった。
部屋の隅で灯る小さな暖炉の火も、凍えた空気をほんの少しだけ溶かすだけで。
湊は窓の外に広がる灰色の空を見つめながら、胸の奥のざわめきを抑えきれなかった。
紬が実家に戻ってから、何日が過ぎたのだろう。
距離を置くべきだと理解しながらも、彼女の不在が穴のように心を空洞化させている。
スマホの画面を何度も確認するが、紬からの連絡はない。
そんな中で、唐突に届いたメッセージ。
送信者は、柚月。
短い一文。だが、その一言に湊の心は揺れ動いた。
「今日、少し話せますか?」
何かを伝えたいという覚悟が、その文字の端々から伝わってくる。
湊は一瞬ためらったが、すぐに返信を打った。
「はい。時間を作ります。場所はどうしますか?」
返事を送信した指先が震える。
会うことが、こんなにも怖くて、そしてどこか期待している自分に気づく。
◇◇◇
約束のカフェは午後の柔らかな日差しに包まれていた。
店内は穏やかな空気が漂い、外の冷たい冬の風とは対照的に暖かい光が差し込んでいる。
柚月は窓際の席に腰かけ、静かに外を見つめていた。
彼女の装いは落ち着いた色味のニットワンピースにロングコート。
首に巻いた淡いベージュのストールが揺れる。
丁寧に手入れされた爪が、カップを包むように繊細に震えていた。
やがて、扉が開き、湊が姿を現す。
視線が交わり、ぎこちなくも礼を交わす。
柚月が口を開いた。
「突然の連絡、ごめんなさい。でも、話がしたかったの」
湊は静かに頷き、言葉を選びながら答える。
「紬のこと、心配しています。彼女の気持ちがわからなくて、自分でもどうしたらいいのかわからなくて……」
柚月は少し目を伏せ、落ち着いた声で言う。
「紬はまだ、自分の感情を整理している途中。距離を置いたのも、そのためでしょうね」
湊の胸に重くのしかかる言葉。
「それでも、彼女を手放したくない」
柚月は深く頷き、慎重に言葉を選ぶ。
「無理に近づくより、彼女のペースを尊重してあげてほしい」
湊はその言葉を胸に刻み、静かに頷いた。
二人の間に流れる時間は柔らかく、しかし緊張感を含んでいた。
◇◇◇
週末の昼下がり。
湊は自宅の部屋で書類を整理していた。
ふとスマートフォンが震え、通知を見た瞬間、胸の奥にざわめきが走る。
表示されたのは、紬からのメッセージだった。
「……今日、少しだけ会えないかな」
画面の文字を何度も見返す。
最後に顔を合わせたのは、あの夜、突然彼女が部屋を出て行ったときだった。
それから連絡はほとんど取っていない。距離を置いたまま、時間だけが過ぎていった。
悩んだ末、湊は返信した。
「わかった。〇〇公園でいい?」
場所を指定したのは、過去に何度か会っていた静かな公園だった。
人目も少なく、会話をするにはちょうどよい。
◇◇◇
ベンチに腰掛けてしばらく待っていると、紬がゆっくりと歩いてきた。
制服の上に薄手のカーディガンを羽織り、顔にはどこか迷いが浮かんでいる。
目が合っても、彼女はすぐには口を開かなかった。
湊も、どこかどう声をかけていいかわからず、沈黙が流れる。
「……久しぶり」
「うん」
それだけでまた沈黙。風が木々を揺らし、葉の擦れる音がふたりの間を埋める。
「……会いに来てくれて、ありがと」
紬がぽつりと呟く。
「別に……たいしたこと話すわけじゃないんだけど。ただ、ちゃんと話したいなって思っただけで……」
湊は頷いた。
「……俺も、そう思ってた」
それでも、言葉はなかなか続かない。
何から話すべきか、それとも話さないままでいいのか。
お互いに答えを探り合うような、そんな間が続いた。
「……まだ、怒ってる?」
紬の声はかすかに震えていた。
「怒ってないよ」
即答した湊の言葉に、紬は少しだけ目を見開く。
「ただ、びっくりしたんだ。あの夜、急にいなくなって……何も言わずに」
「……うん、ごめん。ちゃんと話さなきゃいけなかったのに、怖くなっちゃって」
紬の視線は地面に落ちている。
その細い肩が、ほんのわずかに震えていた。
湊は何も言わず、ポケットの中で自分の指を握った。
距離を取っていた時間の意味が、ここにある気がした。
◇◇◇
静まり返った部屋に、エアコンの低いうなりだけが響いていた。
ソファの端と端に座ったまま、ふたりともそれ以上言葉を発することなく、微妙な間が続く。先ほどまでの会話が、どこか夢の中の出来事のように思えるほど、現実感がなかった。
紬は、指先でスカートの裾をつまんでいた。制服姿の彼女は、年相応の少女に戻ったようにも見えた。
「……あの時、さ」
ふいに、紬が小さな声で切り出した。視線は俯いたまま、靴下の先をじっと見つめている。
「夜の公園で、わたし、湊に会えて、すごくほっとした。変な言い方かもしれないけど、……泣きたくなるくらい」
湊は、応えられずにいた。
紬は続ける。
「でも、それってずるいことだったよね。……お姉ちゃんのことも、湊の気持ちもちゃんと考えないで、勝手に甘えてた。……わたし、あのままじゃだめだって、思った」
言葉の一つひとつが、自分に対する戒めのように聞こえた。
「それで、連絡もしなかった。……距離を置かなきゃって。ちゃんと自分で、自分の足で立たなきゃって……そう思ってたのに……」
そこまで言って、紬は息を詰めた。
「……でも、今日もまた、こうして来ちゃった」
その言葉に、湊の胸の奥で何かが静かに軋んだ。
間違いだったのかもしれない。けれど、来てくれたことが、嬉しくなかったわけではない。むしろ――。
「来てくれて、よかったよ」
自分でも、なぜそんな言葉が出たのかはわからなかった。けれど、紬の肩がかすかに震えたのを見て、後悔はしなかった。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。目の縁が赤く、涙をこらえているのがわかる。
「……ありがとう」
その言葉に、今度は湊の方が、何も言えなかった。
ただ、隣にいること。ほんの少しでも、彼女の孤独を和らげられること。
それだけで、今日は十分だと思えた。