柔らかな光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
ぬくもりの中、まどろみのなかで目を覚ます。目の前には、ゆっくりと上下する湊の胸。安らかな寝息とともに、その胸の鼓動が肌越しに伝わってくる。
夢じゃない――そう思いたくて、そっと指先で湊の腕に触れた。昨夜、重なり合ったこと。抱きしめられたこと。名前を呼ばれて、何度も確かめ合ったこと。そのすべてが、たしかに体に残っているのに、心のどこかがざわついていた。
「……湊」
小さく呼ぶと、湊は目を開けた。まだ眠たそうな顔のまま、ゆっくりと微笑む。
「……おはよう、紬」
その声だけで胸がいっぱいになるのに、どうしてだろう。嬉しいはずなのに、胸の奥で何かがひっかかる。
「……うん。おはよう」
笑顔で返した。少しだけ、声が裏返っていた気がするけれど、湊は気づかなかったようだ。優しく頭を撫でられて、ぎゅっと抱き寄せられる。まるで何もかもを包み込むような温度。
――こんなふうに、何もかもがうまくいくはずだった。あの夜、勇気を出してこの人の家に来た時も、そう思ってた。
でも、幸せに近づくたびに、不安が顔を出す。ちゃんと愛されているのか、信じていいのか――そんなこと、確かめたくなる自分がいやだった。
「今日は、何したい?」
湊が何気なく聞いてくれる。穏やかな朝の、恋人同士の普通の会話。だけど、私は少しだけ迷ってから、こう答えた。
「……ずっと、ここにいたい」
そう言ってしまってから、なんて子どもみたいなことを言ってるんだろうって思った。もっと、大人にならなきゃ。強くならなきゃ。湊の隣にいるには、それくらいできないと。
だけど湊は、そんな私を咎めることもなく、静かに笑った。
「じゃあそうしよう」
私の頭を撫でながら、そう言ってくれる。この人の優しさが、時々こわくなる。私の全部を見透かして、それでも何も言わずに隣にいてくれるから。
そうじゃなくて――もっと、ちゃんと見て。私のことだけを、ちゃんと見ていて。
私はその言葉を、喉の奥に押し込んだまま、湊の胸に顔を埋めた。
今だけでいい。このままでいいから、もう少し、触れていたかった。
◇◇◇
昼下がり。
キッチンには、じゃがいもを刻む音が軽やかに響いていた。
「紬、玉ねぎは切れる?」
「うん、任せて。泣かないやつ買ってくれた?」
「さあ、どうだろ」
ふたりで並んで、カレーを作っている。なんでもない時間が、愛おしい。
こんな風に、当たり前に「二人の日常」が積み重なっていく未来を、私はずっと夢見ていた。
でも――
「……ねえ、これ、見ていいやつ?」
ふと、キッチンのカウンター脇に置かれていた一冊のスケッチブックが目に入った。無造作に置かれていたそれは、メモ帳代わりなのか、何気ない走り書きが何ページかに残されていた。
湊が「それ? 昔のだと思う」と軽く答える。
私は「そっか」と言ってページをめくる。
中には、ぼんやりとした鉛筆の線。風景のスケッチや、誰かとの会話の断片のようなメモ。
そして――ページの端に、見慣れた名前が書かれていた。
柚月
見た瞬間、指先が止まった。
何かを盗み見ているような気がして、そっとページを閉じる。心の奥に、小さな波紋が広がっていく。
「……ごめん、なんでもない」
笑顔を作って、玉ねぎを刻み始める。包丁がまな板に当たるたび、その音がやけに大きく響いた。
――わかってる。湊にだって、過去がある。
当たり前のこと。誰かを好きになって、誰かと一緒に時間を過ごして、そのあとに今がある。
でも、どうしてだろう。
たったそれだけのことで、こんなにも胸が痛くなるなんて。
「私じゃなかった時間」を、確かにそこに見てしまった気がして。
湊の家にいるはずなのに、少しずつ足元がぐらついていく。
手元を止めないように、平気なふりをする。だけど、心は静かに冷たくなっていった。
まるで、誰にも気づかれずに沈んでいくように。
◇◇◇
夜、テレビの音が小さく流れるリビング。
私と湊は並んで座っていた。湊の肩にもたれかかるこの姿勢は、あたたかくて、安心できて……でも、ふいに心が波打つ。
「ねえ、湊」
「ん?」
「……昔の恋人って、どんな人だったの?」
自分の声が、少しだけ震えていた気がした。聞くつもりなんてなかったのに。
なのに口をついて出たその質問を、私はもう引っ込めることができなかった。
湊は少しだけ黙ってから、静かに答えた。
「大事な人だったよ。すごく、真っ直ぐで、俺のことを思ってくれてた」
やわらかい声だった。
責めるでも、誤魔化すでもない。ちゃんと、過去を大切にしてきた人の声だった。
私は「そっか」とだけ返す。
本当は、聞かなきゃよかったのかもしれない。
でも、聞いてしまった私は、もう前の私には戻れない。
胸の奥に、小さな棘が刺さっている。私は、“その人”にはなれない。どれだけ好きでも、同じ時間を過ごしたことがない。
「……わたしのことは?」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。湊は少し驚いたようにこちらを見た。
「紬のこと?」
私は黙ってうなずいた。
「好きだよ。今、一緒にいられて嬉しいって思ってる」
優しい言葉。ちゃんと伝えてくれたのに、どうしてだろう。
涙が出そうになるのを、ぎゅっとこらえた。
「じゃあ……私が、もしお姉ちゃんと似てても、それでも?」
湊は少し目を伏せてから、「似てても、違っても、関係ない」と静かに言った。
それが、正しい答えだってことはわかってる。
でも私は、その“正しさ”に追いつけなかった。
逃げるように湊の唇に口づける。
重ねた唇の温度は変わらないのに、心の奥が空っぽになっていく気がした。
「……してないよ、無理なんかしてない」
言い訳のような言葉が、自分の口から出ていくのを感じながら、私はまた湊の胸に顔をうずめた。
◇◇◇
湯気が立ちこめるバスルーム。
鏡は曇っていて、自分の顔ははっきり映らない。なのに、ぼんやりと浮かんで見える輪郭は、どこか他人のもののようだった。
シャワーを止め、タオルで髪を拭きながら鏡の前に立つ。
「……わたし、なにしてるんだろ」
ぽつりとつぶやいた言葉が、湿った空気に溶けて消えていった。
好きな人と、やっと一緒に過ごせて。やっと抱きしめてもらえて、名前を呼んでもらえて、こんなに幸せなはずなのに。
――なのに、心はずっと静かに沈んでいく。
あのノートの中にあった“柚月”の文字。湊の声に浮かんだ、過去の優しさ。
全部、嫉妬してしまう。勝手に比較して、自分で自分を小さくしてる。
お姉ちゃんみたいになりたいわけじゃない。
でも、湊の中で一番になりたい。誰かの代わりじゃなくて、ちゃんと“私”として、見ていてほしい。
「わたし、湊の全部を知らないまま、好きって言ってる。……それでいいの? それで、幸せになれるの?」
問いかけた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
胸の奥に残ったままの不安を、タオルで拭き取ることはできない。
でも、見なかったことにはできなかった。
もう一度、鏡に目をやる。少しだけ曇りがとれて、自分の瞳がはっきり映る。
「……ねえ、湊。わたし、全部“ほんとう”になりたいよ」
好きになってもらえるように。忘れられないように。ちゃんと、“私”を見つけてもらえるように。
誰かと比べなくても、ここにいていいって、胸を張れるようになりたい。
祈るように、呟いたその言葉は、自分の心の奥に向けた決意みたいに響いていた。