午後の光が窓から差し込み、リビングのテーブルの上で白い紙がふわりと揺れた。
風なんてないはずなのに、と紬が思ったのはほんの一瞬。
少し離れたキッチンでコーヒーを入れている湊の背中を、彼女は言葉もなく見つめていた。
さっきから何度も言おうとしては飲み込んでいる。喉の奥に引っかかった言葉が、次第に重たくなっていく。
「……ねえ、湊」
ようやく声に出せたのは、カップに注ぎ終えた音が響いた直後だった。
「ん?」
振り返った湊は、どこか気まずそうに目を伏せてから、ゆっくりと顔を上げた。
「何か、言いたいことがあるのかな?」
その問いかけは優しいけれど、どこか気を使っているのが伝わってきて、紬は胸がちくりと痛んだ。
「昨日の夜……洗面所の棚、見てしまったんだ」
言いにくそうに俯きながら、小さな声で言った。
「化粧水とか、ヘアゴム、それに香水……」
「……あれは、柚月のものだ」
湊が静かに答えた。
「捨てきれなかったんだ」
少し間があって、続ける。
「もう意味はないってわかってるけど、思い出を簡単に消すことはできなくて……」
紬は黙り込んだ。
湊は一瞬躊躇ったように、「……うまく言えてなかったかもしれない」と言った。
「気づいているよ。戸惑っているのが。あなたを裏切りたくないけれど、過去も大切にしたい。難しいよね」
紬は小さく息をつく。
「うん……わかる」
彼の正直な言葉に、心は少し落ち着くけれど、まだ消えない違和感もある。
「でも、なんだか……自分だけ置いていかれているような気がして」
呟くように言った。
湊は黙ったまま、そっとコーヒーのカップを握る。
「……悪かった。置き去りにするつもりはなかったんだ」
そう言いながらも、どこか迷いが残っていることを紬は感じた。
彼の優しさが重くて、でもそれがいまは苦しい。
紬はゆっくり顔を上げて、湊の目を見る。
「……もう少し、時間がほしいのかもしれない」
湊は深く頷いた。
「俺もそう思う」
その瞬間、ふたりの間に静かな理解が流れた。
まだ完全には繋がれていないけれど、それでも繋がろうとしている――そんな気配が胸を満たしていた。
◇◇◇
夕暮れが近づき、空が少しずつ朱色に染まっていく頃。
二人は映画館の暗いロビーを抜け、スクリーン前の座席に腰を下ろしていた。
映画の予告編が終わり、スクリーンに映し出されたのは、過去の恋人を忘れられずに苦しむ男と、その彼女の葛藤を描いたドラマだった。
紬は湊の隣で、無意識に手をぎゅっと握りしめていた。
上映中、物語の展開とともに、胸の奥がざわつく感覚がじわりと広がる。
恋人の過去を引きずる男の姿に、重なるのは自分の心の不安。
映画が終わると、ふたりはゆっくりと立ち上がり、ロビーへと歩き出した。
「映画、どうだった?」
湊が声をかける。少しだけ優しい口調で。
「うん、よかった。……でも、なんだか胸の奥がざわざわして」
紬は目を伏せた。
「元恋人の話が出てきて、少し怖くなったんだ」
「そっか」
湊は黙ってうなずいた。
「映画の男みたいに、俺も過去を引きずってるって思った?」
「ううん、そうじゃない。違うの」
紬は首を振った。
「ただ、自分だけが取り残されてる気がして……」
「そんなこと、思わせてしまって悪かった」
湊はそっと紬の手を握り返す。
「今は大丈夫? もし何かあったら、言ってほしい」
「ありがとう。……少しだけ、不安が消えた気がする」
紬は小さく笑う。
でも、その笑顔の裏にはまだ、不安の影が揺れていた。
手をつなぐ手は少しだけ冷たくて、離れそうで離れないその距離に、二人の心が映し出されているようだった。
◇◇◇
夜の部屋は静かで、テレビの明かりだけがふたりの輪郭をぼんやりと照らしていた。
紬はソファに深く腰かけ、手のひらに小さく力を入れている。湊は少し距離を取りながら隣に座ったままだった。
「ねえ、ちょっと聞いてもいい?」
紬の声は震え、だけど真剣だった。
「……お姉ちゃんと付き合ってた頃、こういう時間、あったの?」
湊はしばらく考え込んでから、ゆっくりと口を開いた。
「似てるところもあったけど、全部じゃなかったと思う」
「……そうなんだ」
紬は言葉を続けるのをためらったが、勇気を振り絞って言った。
「比べてるわけじゃないって、言わないでほしい」
湊は眉をひそめ、やわらかく笑った。
「比べることは、今の君を見てるってことだから」
紬の目が一瞬揺れた。
「それでも……時々、怖くなる」
「怖いよな」
湊はそっと紬の肩に手を置いた。
「俺も、怖い。だからこそ、ちゃんと伝えたいと思ってる」
紬は小さく息を吐き、肩の力が少しだけ抜けた。
「ありがとう」
「一緒にいよう」
紬は微かに涙を浮かべながら、でも笑顔で言った。
「やっぱり湊は、変わった人だね」
湊は肩をすくめて、苦笑いを返す。
「そんなこと言われても、嬉しいのか悲しいのか……」
紬は首を振りながらも、手を伸ばして彼の頬に触れる。
「……傷ついてもいいって思えるのは、いまの私だから」
その言葉は、まるで心の決意を映し出しているようだった。
湊はゆっくりと紬の手を取り、優しく頬を撫でる。
「そう思ってくれるなら、俺は嬉しい。信じてくれてありがとう」
静かな部屋に二人の呼吸だけが響く。
揺れていた紬の心に、ほんの少しだけ重さのある“安心”が灯った。
「これからも一緒にいよう」
湊の言葉は、まるで約束のように響いた。
紬はしっかりと頷き、二人の距離はゆっくりと縮まっていった。