※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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true 21話

 午後の光が窓から差し込み、リビングのテーブルの上で白い紙がふわりと揺れた。

 風なんてないはずなのに、と紬が思ったのはほんの一瞬。

 

 少し離れたキッチンでコーヒーを入れている湊の背中を、彼女は言葉もなく見つめていた。

 さっきから何度も言おうとしては飲み込んでいる。喉の奥に引っかかった言葉が、次第に重たくなっていく。

 

「……ねえ、湊」

 

 ようやく声に出せたのは、カップに注ぎ終えた音が響いた直後だった。

 

「ん?」

 

 振り返った湊は、どこか気まずそうに目を伏せてから、ゆっくりと顔を上げた。

 

「何か、言いたいことがあるのかな?」

 

 その問いかけは優しいけれど、どこか気を使っているのが伝わってきて、紬は胸がちくりと痛んだ。

 

「昨日の夜……洗面所の棚、見てしまったんだ」

 

 言いにくそうに俯きながら、小さな声で言った。

 

「化粧水とか、ヘアゴム、それに香水……」

 

「……あれは、柚月のものだ」

 

 湊が静かに答えた。

 

「捨てきれなかったんだ」

 

 少し間があって、続ける。

 

「もう意味はないってわかってるけど、思い出を簡単に消すことはできなくて……」

 

 紬は黙り込んだ。

 

 湊は一瞬躊躇ったように、「……うまく言えてなかったかもしれない」と言った。

 

「気づいているよ。戸惑っているのが。あなたを裏切りたくないけれど、過去も大切にしたい。難しいよね」

 

 紬は小さく息をつく。

 

「うん……わかる」

 

 彼の正直な言葉に、心は少し落ち着くけれど、まだ消えない違和感もある。

 

「でも、なんだか……自分だけ置いていかれているような気がして」

 

 呟くように言った。

 

 湊は黙ったまま、そっとコーヒーのカップを握る。

 

「……悪かった。置き去りにするつもりはなかったんだ」

 

 そう言いながらも、どこか迷いが残っていることを紬は感じた。

 

 彼の優しさが重くて、でもそれがいまは苦しい。

 

 紬はゆっくり顔を上げて、湊の目を見る。

 

「……もう少し、時間がほしいのかもしれない」

 

 湊は深く頷いた。

 

「俺もそう思う」

 

 その瞬間、ふたりの間に静かな理解が流れた。

 

 まだ完全には繋がれていないけれど、それでも繋がろうとしている――そんな気配が胸を満たしていた。

 

 ◇◇◇

 

 夕暮れが近づき、空が少しずつ朱色に染まっていく頃。

 二人は映画館の暗いロビーを抜け、スクリーン前の座席に腰を下ろしていた。

 

 映画の予告編が終わり、スクリーンに映し出されたのは、過去の恋人を忘れられずに苦しむ男と、その彼女の葛藤を描いたドラマだった。

 

 紬は湊の隣で、無意識に手をぎゅっと握りしめていた。

 

 上映中、物語の展開とともに、胸の奥がざわつく感覚がじわりと広がる。

 

 恋人の過去を引きずる男の姿に、重なるのは自分の心の不安。

 

 映画が終わると、ふたりはゆっくりと立ち上がり、ロビーへと歩き出した。

 

「映画、どうだった?」

 

 湊が声をかける。少しだけ優しい口調で。

 

「うん、よかった。……でも、なんだか胸の奥がざわざわして」

 

 紬は目を伏せた。

 

「元恋人の話が出てきて、少し怖くなったんだ」

 

「そっか」

 

 湊は黙ってうなずいた。

 

「映画の男みたいに、俺も過去を引きずってるって思った?」

 

「ううん、そうじゃない。違うの」

 

 紬は首を振った。

 

「ただ、自分だけが取り残されてる気がして……」

 

「そんなこと、思わせてしまって悪かった」

 

 湊はそっと紬の手を握り返す。

 

「今は大丈夫? もし何かあったら、言ってほしい」

 

「ありがとう。……少しだけ、不安が消えた気がする」

 

 紬は小さく笑う。

 

 でも、その笑顔の裏にはまだ、不安の影が揺れていた。

 

 手をつなぐ手は少しだけ冷たくて、離れそうで離れないその距離に、二人の心が映し出されているようだった。

 

 ◇◇◇

 

 夜の部屋は静かで、テレビの明かりだけがふたりの輪郭をぼんやりと照らしていた。

 

 紬はソファに深く腰かけ、手のひらに小さく力を入れている。湊は少し距離を取りながら隣に座ったままだった。

 

「ねえ、ちょっと聞いてもいい?」

 

 紬の声は震え、だけど真剣だった。

 

「……お姉ちゃんと付き合ってた頃、こういう時間、あったの?」

 

 湊はしばらく考え込んでから、ゆっくりと口を開いた。

 

「似てるところもあったけど、全部じゃなかったと思う」

 

「……そうなんだ」

 

 紬は言葉を続けるのをためらったが、勇気を振り絞って言った。

 

「比べてるわけじゃないって、言わないでほしい」

 

 湊は眉をひそめ、やわらかく笑った。

 

「比べることは、今の君を見てるってことだから」

 

 紬の目が一瞬揺れた。

 

「それでも……時々、怖くなる」

 

「怖いよな」

 

 湊はそっと紬の肩に手を置いた。

 

「俺も、怖い。だからこそ、ちゃんと伝えたいと思ってる」

 

 紬は小さく息を吐き、肩の力が少しだけ抜けた。

 

「ありがとう」

 

「一緒にいよう」

 

 紬は微かに涙を浮かべながら、でも笑顔で言った。

 

「やっぱり湊は、変わった人だね」

 

 湊は肩をすくめて、苦笑いを返す。

 

「そんなこと言われても、嬉しいのか悲しいのか……」

 

 紬は首を振りながらも、手を伸ばして彼の頬に触れる。

 

「……傷ついてもいいって思えるのは、いまの私だから」

 

 その言葉は、まるで心の決意を映し出しているようだった。

 

 湊はゆっくりと紬の手を取り、優しく頬を撫でる。

 

「そう思ってくれるなら、俺は嬉しい。信じてくれてありがとう」

 

 静かな部屋に二人の呼吸だけが響く。

 

 揺れていた紬の心に、ほんの少しだけ重さのある“安心”が灯った。

 

「これからも一緒にいよう」

 

 湊の言葉は、まるで約束のように響いた。

 

 紬はしっかりと頷き、二人の距離はゆっくりと縮まっていった。

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