夕暮れの柔らかな光が、湊の部屋の窓から差し込んでいた。
その時、チャイムが鳴る。湊が扉を開けると、美遥が立っていた。
彼女の顔には軽やかな笑みが浮かび、まるで偶然立ち寄ったかのような自然な声で言う。
「顔を見に来ただけなんだけど……今大丈夫?」
しかし、その瞳の奥には確かな探る光があった。
湊は一瞬戸惑いながらも、彼女を中に招き入れた。
「どうぞ、上がって」
部屋に入った美遥は、無意識のうちに細かいところに目を向ける。
ソファの端に置かれた小さなヘアゴム。
わずかに開いた洗面所の扉の隙間から漂う、普段とは異なる柔らかな香り。
ベッド脇の床に無造作に落ちていた、淡いピンク色の靴下。
それらの生活の痕跡が、美遥の胸に小さな違和感を灯す。
しばらく部屋を見渡したあと、美遥は静かに声をかけた。
「兄さん、いい関係の人でもできた?」
その問いに、湊は視線を一瞬逸らしながらも、静かに答えた。
「……ああ」
沈黙が二人の間に流れ、部屋の空気がわずかに重くなった。
美遥は紅茶のカップに手を伸ばし、その温もりを感じながら、言葉を続けることはなかった。
互いに見つめ合うことなく、それでも変わり始めた空気をそれぞれ感じていた。
夕暮れの光が徐々に翳り、部屋の中には静けさが満ちていた。
美遥はそっと紅茶のカップを置き、指先でその縁を軽く撫でる。
視線は湊を捉えて離さなかったが、その目の奥には複雑な感情が揺れている。
しばらくの間、言葉は交わされず、空気だけがゆっくりと動いていた。
やがて美遥が口を開く。
「その子は、どんな子なの?」
問いは穏やかでありながら、核心をついていた。
湊は少し考え込み、視線を落としたまま答える。
「真っ直ぐで、時々無理して笑うこともあるけど……
でも、ちゃんと人のことを見てる」
美遥は軽くうなずき、次に尋ねる。
「年下?」
湊は迷いなく肯いた。
「うん、まだ学生だ」
部屋の中に再び沈黙が訪れる。
その静寂の中、美遥はぽつりとつぶやいた。
「難しくない?」
その言葉に、湊は苦笑を浮かべて肩をすくめる。
「簡単なことなんて、ないだろうな」
美遥はカップを手に取り、ほんの少しだけ息を吐く。
「誰かを守ろうとすると、つい一方的になりがちだけど……」
その声は静かで、言葉を選びながら続ける。
「でも、本当に大事なのは、守るだけじゃなくて支え合うことだと思う」
湊は美遥の言葉をしっかりと受け止めるように目を細め、ゆっくりと頷いた。
「そうだな……それが理想だと思う。俺もそうありたい」
美遥は揺るぎない決意を宿した瞳で見つめ返す。
「だから、兄さんのことも、彼女のことも知りたい」
その言葉はただの願いではなく、覚悟を含んでいた。
湊は言葉を返さず、ただ静かにその思いを胸に刻んだ。
◇◇◇
夜の闇が静かに部屋を包み込んでいた。
美遥は湊の言葉を受け止め、軽くうなずいた。
「そう……ありがとう」
彼女の声にはほんの少しの安堵が混じっていたが、その瞳には揺れる感情が隠れている。
しばらくの間、二人の間には言葉がなく、穏やかな沈黙だけが流れた。
美遥は視線を落とし、指先でテーブルの木目をなぞる。
心の内側では、これから待ち受けるであろう出会いに対する期待と不安が入り混じっていた。
湊はそんな彼女の様子を静かに見つめながら、自分もまた複雑な感情に揺れていることを感じていた。
「うまくいくといいな」
湊の小さな呟きが、部屋の静けさに溶け込んでいく。
美遥はそれに応えるように、静かに微笑んだ。
◇◇◇
部屋の灯りが消え、外の街灯の柔らかな光だけが窓から差し込んでいた。
紬はひとり、暗がりの中でスマートフォンの画面をじっと見つめていた。
そこに映るのは、湊からのメッセージ。
「妹が、君に会いたがっている」
文字が静かに目に飛び込んできて、紬の指がわずかに止まった。
胸の奥でじわじわと広がる感情は、言葉にできない不安と戸惑い、そしてどこかで期待してしまう自分だった。
「湊の妹さん……」
小さな声で呟いたその言葉は、震えているようにも聞こえた。
――――――――――――――
あの頃、お姉ちゃんが誰かと付き合い始めてから、どんどん輝いて見えた。
遠い世界の人みたいで、羨ましくて、同時に自分とは違う存在に思えた。
中学生だった私は、ただその背中を見つめているしかなかった。
胸の奥が締めつけられて、どこにも居場所がないような気がしていた。
「届かないんだ」――そう自分に言い聞かせて、心を閉ざしていた。
――――――――――――――
暗闇の中で紬は、震える手でスマートフォンをそっとテーブルに置く。
胸の鼓動が高鳴り、不安に押しつぶされそうになるけれど、同時に少しずつ覚悟が芽生えていくのを感じていた。
ゆっくりと目を開けると、瞳には決意の光が宿っていた。
「でも、逃げたくない」
静かな声で呟く。
「湊の妹さんにも……私のままで会いたい」
言葉にすることで、自分自身に約束するように。
揺れる心を押さえ込みながらも、前を向こうとする覚悟が確かにそこにあった。