窓から差し込む朝の光が、紬の部屋の静けさを優しく包み込んでいた。
手に握るスマホの画面はもう見ていない。
胸の奥で何度も繰り返されるのは、これから会う「湊の妹さん」のこと。
まだ名前は知らない。けれど、その存在は確かに紬の心を揺らしていた。
期待と不安が入り混じり、胸のざわめきは抑えきれない。
「会うことで、何かが変わるのかもしれない」
深く息を吸い込み、紬はゆっくりと目を開けた。
怖さもあるけれど、逃げずに向き合おうとする自分の決意がそこにあった。
◇◇◇
扉がノックされたのは、午後の陽が少し傾きはじめた頃だった。
湊が立ち上がり、扉を開けると、そこには落ち着いた表情をした女性――美遥が立っていた。
「久しぶり、兄さん」
湊は少し微笑んで頷いた。「ああ、上がって。ちょうど今、紬も来てる」
靴を脱いで玄関にあがると、美遥の視線が静かに部屋の中を一巡した。
淡い色合いのマグカップが二つ。ソファの端に置かれた毛布。テーブルの端にちょこんと置かれた、細いヘアゴム。
何も言わないまま、その小さな痕跡の一つひとつが、確かに“誰か”の存在を伝えていた。
「はじめまして。美遥といいます。兄さんの……妹です」
「……紬です。はじめまして」
紬は少し緊張した面持ちで頭を下げた。美遥もにこやかに会釈し、テーブルの対面に腰を下ろした。
静かな空気が流れる。けれど、重くはなかった。言葉を選ぶように、誰も急がない沈黙だった。
「兄さんが、誰かと一緒にいるのって……ちょっと不思議な感じがするな」
美遥がふと笑いながら言った。
湊は苦笑しつつ、「自分でもそう思うよ」と返す。
「ずっとひとりでいると思ってたから。……でも、部屋の空気が、前より柔らかい気がした」
美遥の声には、優しさと、ほんのわずかな寂しさが混ざっていた。
紬は静かにその言葉を受け止めながら、美遥の横顔を見つめる。
それはまるで、湊の過去を遠くから静かに眺めているようだった。
湊が何か言いかけて、ふと黙る。
代わりに、笑みを浮かべながら言葉を紡いだ。
「……今は、すごく大切に思ってる人がいるよ。それが、紬だ」
その言葉に、紬は肩を震わせるように目を伏せた。
隠すような照れではなく、静かに胸の奥が熱くなるのを感じていた。
美遥は少しだけ視線を落とし、小さく息を吐いた。
「そっか。……良かった。ちゃんと、そういう相手ができて」
そう言う美遥の声には、はっきりとした祝福の響きがある。けれど、湊にはそれだけではない気持ちが伝わっていた。
「ありがとう」
湊は短くそう言った。今はそれ以上の言葉を持たなかった。
◇◇◇
湊が淹れた温かいお茶をテーブルに置いたとき、美遥が静かに口を開いた。
「……ちょっとだけ、二人で話せるかな?」
その言葉に、湊は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに小さく頷いた。
「わかった。買い物、少し足りなかった気がするし……行ってくる」
そう言って上着を手に取り、部屋を出る。扉の閉まる音が、思ったより静かだった。
残された部屋に、緊張と沈黙が落ちた。
紬は膝の上で手を重ね、背筋をまっすぐにして美遥を見つめた。
美遥はそんな紬をひと目見てから、視線を落とすように微笑んだ。
「……あのね、あなたにどうこう言うつもりじゃないの。でも、私、兄さんと長く一緒にいたから。だからこそ、気になることがあって」
紬は小さく頷いた。
「はい」
「兄さん、変わったと思う。前より柔らかくて、笑顔も多くなってる。きっと、あなたのおかげだよね」
その言葉に、紬は少しだけ目を伏せた。
「……私、何かできてるかなんて、分かりません。でも、湊――湊さんが笑ってくれるのが、ただ嬉しくて」
美遥はその答えに軽く目を細めると、ほんの少しトーンを落として言った。
「ねえ……世間の目って、時に厳しいと思わない?」
不意に向けられた言葉に、紬の背中がすっと強張る。
「兄さんはもう社会人で、あなたはまだ学生。……私は、個人的には応援したいと思ってる。でもね、それを“よく思わない人たち”がいることも事実なんだよ」
その現実を、静かな声で告げる美遥。その目に責めるような色はなく、ただ、紬に向き合おうとする真摯さがあった。
紬は、視線を伏せたまま、唇をかすかに震わせた。
「……私も、考えたことがあります」
ぽつりと漏れた言葉は、ずっと胸の中にしまっていた想いの一片だった。
「……私たちの関係は、周りから見ればきっとおかしく見える。年の差とか、立場とか……言われたら、反論できないかもしれません。でも、それでも……私は、湊が好きで……一緒にいたいと思ってしまってる」
それは、まっすぐで、未熟で、だからこそ揺るぎない想いだった。
美遥はしばらく黙ったまま、紬のその言葉を受け止めていた。そして、やがて小さく頷いた。
「……そっか。あなたのそういうところが、兄さんを変えたのかもね」
穏やかな声だった。
「私のほうが、少し嫉妬してたのかもしれない。……兄さんのこと、昔から知ってるつもりだったから」
紬は驚いたように目を見開く。
「……でも、それももういいやって、思えた。ちゃんとあなたと話せたから」
その微笑みに、紬は胸の奥で何かがほどけていくような安堵を覚えた。
静かに、紬は頭を下げる。
「……ありがとうございます」
「礼なんていらないよ。私は、兄さんのことが好きなだけ。……でも、今の兄さんを支えてくれるのが、あなたなら――私はそれで、いいと思う」
会話が終わる頃には、窓の外の陽射しが少し柔らかくなっていた。
◇◇◇
買い物を終えた湊は、コンビニの袋を手に提げてゆっくりと帰り道を歩いていた。
夕暮れの空気が、わずかに肌にまとわりつく。スーツの袖口は少し湿っていて、昼間の営業先でかいた汗がまだ残っているようだった。
(……何か買い忘れはなかったかな)
歩きながら、わざとそんなふうに考える。
けれど、実際は部屋を空けたくなっただけだ。
あの場に居続けると、自分の言葉が間違ってしまいそうで。
ベンチに腰を下ろすと、少し汗ばんだ背中がワイシャツ越しにひんやりとした空気に触れた。
仕事の帰りにいつも立ち寄る場所だ。特に何があるわけでもないけれど、ここに座ると少し落ち着く。
ポケットからスマホを取り出す。
画面には、美遥からの通知がひとつ。
数日前に届いていたメッセージ。開こうとしては閉じて、読まずにいたままだった。
今さら読んでも、何かが変わるわけじゃない。
そう思っていたのに、指が勝手に動いていた。
画面に映った短い文。
『兄さん、変わったね。良い意味かどうかは、まだちゃんと分かんないけど』
湊は、ふっと笑った。
よく分からない。たぶんそれが正しい。
自分でも、変わったのかどうかなんて、分からないんだから。
でも。
(……前より、誰かのことをちゃんと考えるようにはなったと思う)
一緒に暮らすようになって、紬がよく寝坊することも、食べ物の好き嫌いがちょっと多いことも、ふとした瞬間に見せる強がりも――全部、知っていった。
そのひとつひとつが、自分の中にちゃんと居場所を作っている。
「……らしくないな、俺」
ぼそりと口に出して、また笑った。
言葉で飾るのは、仕事の中だけでいい。
紬の前では、嘘をつきたくない。それだけだった。
湊は立ち上がって、袋を持ち直す。
手の中の重みが、なぜか温かく感じた。
(戻ろう)
まだ話せていないことは、たくさんある。
だけど、それも含めて、もう隠さないって決めた。
「ちゃんと、選んだんだよな。俺が」
そんな呟きだけを残して、湊は静かに歩き出した。