朝の光が、薄く白いカーテンを通して部屋の隅々までそっと届いていた。紬のまぶたの裏に映るのは、見慣れた木目調の天井。何度もこの部屋で目を覚ましたはずなのに、今日の朝はどこかいつもと違っているような気がした。
柔らかな布団の匂い、湊が昨夜使ったままの枕の形。目の前には、小さな水滴が残る窓ガラス。外の空気がまだひんやりと冷たく、部屋の中の温かさがいっそう際立っている。
キッチンから聞こえる湊の足音が、控えめで静かに響く。湊がコーヒーカップを置く音がぽつりと落ちる。湊の声が穏やかに部屋に満ちた。
「ごはん、できたよ」
その声に紬は自然と顔を向けた。ほんの少しだけ緊張を含んだ表情で、小さく微笑みながら答える。
「ありがとう」
けれど、どこか声が震えていて、いつものはっきりした明るさはなかった。
胸の奥、静かな場所にふと重い影が落ちる。
「……わたし、ほんとにここにいていいのかな」
安心するはずの場所が、今は少しだけ、こわく感じられた。
それは形のない不安で、指先で触れられそうで、でも触れられない何かだった。
紬は、わずかに震える手を握りしめる。外の街の音はまだ遠くて、部屋の空気は柔らかく包んでくれるはずなのに。
それでも、まだここにいることに、迷いが消えることはなかった。
食卓に置かれたトーストの端を指で軽く押しつぶしながら、紬はスマホの画面を見つめていた。未読のメッセージがいくつも重なっている。母親からのものだ。返さなければとわかっていても、その指はなかなか動かなかった。
湊が隣で、静かにコーヒーを啜る音だけが響く。
「帰らなきゃいけないんだろうな」と、紬は心の中でつぶやく。
でも、心のどこかで、「もう少しだけ、ここにいたい」とも思ってしまう。
湊がぽつりと尋ねる。
「家のこと、大丈夫?」
その声に紬は一瞬、目を伏せた。
「うん、大丈夫……だよ」
でもその声はほんの少し震えていた。
スマホを置き、手をテーブルの上で組み直す。
「ここは……落ち着くんだ。湊のそばにいると、なぜか怖くない」
本当のことを言えば、ここにいる自分が少しずつ弱くなっている気がして、それが怖かった。
湊は黙って紬の横顔を見つめていた。彼の視線が優しく、それでいて何かを察しているように感じた。
「無理しなくていい。でも、逃げすぎるのもよくないよ」
その言葉は重くて、紬の胸に静かに響いた。
紬は深く息をつき、目の前のコーヒーカップに視線を落とした。
まだ答えは見つからない。
ただ、今はここにいることを選んだ自分を、少しだけ肯定したいと思った。
◇◇◇
夕暮れ時、大学からの帰り道。美遥はひとりで歩きながら、ふと湊の家の方向に目を向けた。
ベランダに干された洗濯物が風に揺れている。その中に、いつもとは違うフード付きのパーカーや小さな衣類が混じっていることに気づく。
胸の奥に、言葉にはできないざわつきが広がった。
スマホを取り出し、湊との最近のメッセージを何気なく見返す。やりとりは続いているものの、どこか距離を感じる文章。
「……あの子、紬ちゃんだったよね」
思い出すのは、ほんのかすかな記憶と、自分でも説明できない違和感だった。
「私、あの子のこと、きっとまだよく知らないんだ。だから……ちょっとだけ、こわい」
そう自分に言い聞かせるように呟く。
美遥は深く息をつき、空を見上げた。
「でも、兄さんが選んだ子なら――ちゃんと信じたい」
その言葉には揺るぎない決意と、わずかな戸惑いが混じっていた。
彼女の心は複雑だった。
大切な兄の幸せを願う一方で、知らないものへの不安と、まだ触れていない何かに対する慎重さ。
それらが入り混じり、静かな葛藤となって胸に渦巻いていた。
◇◇◇
深夜の静けさが部屋を包み込む。紬はそっとインターホンのボタンを押した。曖昧な声で「忘れ物……したかも」と告げるが、その言葉の裏に隠れた本当の気持ちは、ただここにいたいという渇望だった。
湊は少しの間迷いながらも、何も言わずにドアを開ける。紬が入ってくるのを静かに見守った。
二人は無言のまま、並んでソファに腰を下ろす。テレビも音楽も消えた、重く澄んだ時間が流れていた。
紬がふと呟く。
「湊、わたしのこと……ちゃんと見てる?」
答えが返ってくることを待っていたわけではなかった。ただ、その言葉を口にすることで、自分の不安を確かめたかったのだ。
湊は言葉を返さず、そっと紬の頭を撫でる。そのぬくもりに紬は少しだけ安堵した。
だが胸の奥のざわつきは消えなかった。
「この気持ち……なんか、こわいな」
その言葉が小さく部屋の中にこだました。
夜は静かに更けていく。