朝の光はまだ優しく、街は静かな湿り気を纏っていた。
制服のシャツに袖を通すのも、今日が最後になる。そう思っただけで、胸の奥に静かな熱が灯る。
鏡の前で、紬はネクタイを手にしながら自分の姿を見つめた。
肩にも届かないほどに切り揃えた髪。まだ少し見慣れないそれは、どこか背中を押してくれるようだった。
少しだけ深呼吸して、ネクタイを結びながら、小さくつぶやく。
「……うん、大丈夫」
鏡の中の自分に頷いてみせる。
あの頃のわたしとは、もう違う。
そして――今日、わたしは卒業する。
冬が過ぎ、春が来て。
何度も立ち止まったし、逃げたくなったこともあった。
でも、そのたびに思い出した。あなたの声。あなたの言葉。
“無理しなくていい。でも、自分とちゃんと向き合ってみなよ”
時間が経っても、その言葉はずっと胸の中に残っていた。
まるで小さな灯のように、静かにわたしを照らしていた。
外へ出ると、冷んやりとした春の風が頬を撫でる。
通学路の途中、道端の桜の蕾がわずかに色づいているのに気づいて、足を止めた。
まだ咲いてはいない。でも、もうすぐ、確かに咲く。
季節はちゃんと前へ進んでいる。
わたしも、同じように。
校門が見えてくると、自然と歩く速度が上がっていた。
今日をちゃんと終わらせて、そのあとで。
わたしは、あなたに会いにいく。
◇◇◇
体育館の中は、いつもより少し肌寒かった。
静まり返った空間に、名前を呼ばれるたびに響く返事と、証書を渡す音だけが続いていく。
呼ばれる順番が近づくにつれ、背筋が自然と伸びていた。
卒業証書を受け取り、一礼をしてから席に戻るまでの間、ほんの数秒。
けれどその短い時間が、不思議なほど長く感じられた。
終わりが近づくにつれて、あたたかいものと寂しさが入り混じる。
終礼が終わり、式が解散になると、空気が一気にやわらぐ。
クラスメイトの笑い声、カメラのシャッター音、誰かの涙。
それぞれが、それぞれの別れを抱いていた。
「紬ー! 写真撮ろ!」
呼び止められて振り向くと、何人かの友人たちが手を振っていた。
少し戸惑いながらも、その輪に入って笑顔をつくる。
――楽しい、と思った。素直に。
卒業式なんて形だけだと思っていた。
でも、ここにいるみんなの姿を見て、ちゃんと終わることにも意味があるんだと感じていた。
「……髪、切ったのすごい似合ってるね」
「大人っぽい!」
そんな声に、紬は「ありがとう」と照れながら笑った。
リップもほんの少しだけ、今日はしてきた。
湊に会うつもりで、選んだ色だった。
――今日をちゃんと終わらせて、そのあとで。
校門の外。写真を撮り終え、皆と別れたあと、紬はひとり歩き出す。
胸の内にあるのは、未練ではなく、確かめたい想いだった。
ふと思い出す。あの人の部屋で、初めて泣いた日のこと。
心がバラバラだった頃の自分。
それでも、あの日からすべてが少しずつ変わっていった。
携帯を取り出して、登録された名前を見つめる。
指が震えそうになるのを抑えて、深呼吸する。
「……ちゃんと、自分で選びたい」
そう呟いて、通話ではなく、歩き出した。
言葉じゃなくて、顔を見て伝えたいから。
足取りはまっすぐだった。
その先にある扉へ向かって――。
◇◇◇
湊の家の前に立ったのは、どれくらいぶりだっただろう。
最後に訪ねたのは冬の終わりだったか――けれどそのときとは違う、確かな静けさが今はあった。
インターホンの前で、紬は深呼吸をひとつ。
ポケットの中で指先が緊張していたけれど、引き返すつもりはなかった。
押したボタンの音と、呼び出しの電子音。
数秒後、玄関のドアがカチャリと開いた。
湊が、そこにいた。
変わらないようで、どこか少しだけ雰囲気が変わった気がした。
でも、すぐにわかる。
この人は、ずっと自分が会いたかった人だと。
紬は一歩踏み出し、前髪を軽く揺らして、視線を合わせる。
「……ひさしぶり。……似合ってない、かな?」
肩までかからない、軽やかなショートカット。
これまでと違う自分を、どこか不安そうに晒しながら、それでもまっすぐ湊を見ていた。
湊は、少しだけ驚いたように目を見開いて、それからゆっくりと表情を和らげた。
「……いいや。似合ってる。少しビックリしただけ」
その言葉に、紬の表情がふわっと緩む。
安心したように、でも少しだけ照れたように、目元を細めて微笑んだ。
「そっか。……よかった」
湊が軽く玄関に手を添える。
「入る?」
「うん」と頷いて、紬は一歩、懐かしい空気の中へ踏み込む。
靴を脱ぎながら、自然と目が室内を見渡す。家具の配置も、光の入り方も、どこか見覚えがある。でも――
「……なんか、ちょっと変わったね」
「少し模様替えしたんだ。春だしな、気分転換」
「へぇ……なんか、大人っぽくなった気がする。前より」
「紬もだよ。――髪だけじゃなくて、なんとなく、全部」
その言葉に、また少しだけ照れながら紬は「ありがと」と呟いた。
ぎこちなさはある。距離もほんの少し残っている。
けれど、それを埋めるための時間は、もう怖くなかった。
ふたりの間に、穏やかな春の気配が流れていた。
◇◇◇
湊の部屋の窓から差し込む、柔らかな午後の光。
カーテンがゆらりと揺れ、時間の流れがゆっくりと感じられた。
ふたりはソファに並んで座り、言葉は多くなかった。
それでも、重なった手のぬくもりが、静かに伝わる。
紬は少しだけ顔を上げ、湊の目を見つめた。
「ねえ、わたし……変わったかな?」
湊はゆっくりと微笑み、答える。
「変わった。だけど、それはいいことだと思う。前より、自分らしくなった」
紬の胸の中に、ぽっと灯がともる。
不安もあったけれど、その言葉で少し軽くなった気がした。
「これからも、色々あると思うけど……わたし、あなたとなら、怖くない」
湊の手がぎゅっと紬の手を包み込む。
「俺もだ。これからも、支え合っていこう」
ゆっくりと近づき、ふたりは小さなキスを交わした。
それは静かで、確かな約束のように感じられた。
時間が過ぎて、夜の帳が降りてきても。
ふたりの間に流れるのは、穏やかで暖かな未来への希望だった。
「甘くて、こわい。
それはきっと、わたしが知った、ほんとの自分の一部。
でも、だからこそ、誰かと一緒に歩いていける。
怖がらずに、あなたと。」