朝の通勤電車。車窓に映る自分の顔を、湊はじっと見つめていた。
どこにでもいそうな三十代の男の顔。特に印象に残るような特徴はないはずなのに、その映り込みには見覚えがなかった。
いや、それはたしかに自分自身なのだ。けれど、どこか歪んで見える。輪郭が、少しだけ滲んでいる。
昨日の夜の感触が、まだ指先に残っていた。
熱、吐息、紬の細い指が首筋を撫でる感触。声も、温度も、まだ耳の奥にこびりついているようだった。
そのまま仕事に取りかかってみたものの、集中できるはずがなかった。
ディスプレイの文字が目に入ってこない。メールの返事を書いている最中に、ふと別の画面を開いたまま手が止まる。
意識が浮ついている。いや、脳のどこかが空白のまま、動いていない。
「……湊さん、大丈夫ですか?」
後輩の声が、すぐ隣で聞こえた。
小さく微笑むようにして、彼女は湊の手元の書類を覗き込む。
「あ、ここの数字、ずれてます。たぶん入力ミスだと思うんですけど」
「あ……そうか。ごめん、ありがとう」
「いえ、でも最近ちょっと……元気ないですよね。ちゃんと寝てますか?」
湊は返事をしようとして、口を開いた。けれど、言葉が出てこなかった。
何を言えばいいのか、自分でもわからなかった。ただ、首を横に振って、曖昧に笑うしかなかった。
昼休みになっても、胸の奥のざわつきは引かなかった。
自販機で買った缶コーヒーを片手に、湊は休憩室の隅でスマホを取り出す。
画面には、紬からのメッセージがひとつ。
「今夜は、帰ってこられますか?」
──“帰ってこられますか”。
その一文に、湊の指がわずかに震えた。何の断りもなく、まるで当然のように「湊の家」が“帰る場所”になっている。
それは、ほんの数週間前まで存在しなかった関係だ。なのに、もうこの文面に何の違和感も抱かなくなっていた自分がいた。
まるで、彼女が自分の生活の一部になったかのように。
◇◇◇
帰宅したのは、終電の少し前だった。
玄関の灯りはすでについていて、鍵を開けるとすぐに、温かい香りが鼻をかすめた。
「おかえりなさいませ」
キッチンから、紬の声がした。
湊が靴を脱ぐ音にあわせるように、皿の触れ合う音が響いた。ダイニングに足を運ぶと、そこには湯気の立つ料理と、整然と並べられたカトラリー。そして、その隣に静かに佇む紬。
まるで、妻のようだった。
そんなふうに思ってしまった自分に、湊は動揺した。けれど、それを口にする気力も残っていなかった。
「お仕事、お疲れさまでした」
「……ありがとう。作ってくれたんだね」
「はい。湊さん、今夜は帰ってこられる気がしてましたから」
言葉の意味を考える前に、湊は箸を取っていた。
手際よく盛られた肉じゃがを口に運ぶ。けれど、何の味もしなかった。
◇◇◇
その夜も、湊は紬を抱いた。
最初に口づけたのは、彼女のほうだった。
「身体が冷えてしまいました」と微笑みながら、湊の指にそっと自分の手を絡ませてくる。
そのまま布団の中で、彼女は湊の胸に頬を寄せ、足を絡ませ、まるで一体化するように重なってくる。
──この肌の温度は、快楽なのか、支配なのか。
わからない。ただ、抗えない。
静かな喘ぎ声と、濡れた吐息。
指先が這うたび、心臓の奥が痺れる。
だがそのたびに、意識が少しずつ削れていくような感覚に襲われる。
すべてが静かすぎた。
柔らかく、甘く、けれどどこか凍るような静寂が、ふたりの間に広がっている。
果てたあと、紬は湊の肩に額を預けたまま、ぽつりとつぶやいた。
「……湊さんが、どこにも行かないように。私、祈ってるんです」
耳元で響いたその言葉に、背筋がひやりと冷えた。
けれど、紬の手は優しかった。その腕を、湊は振り払うことができなかった。
いや、本当は。
振り払う意思すら、とうに失くしていたのかもしれない。
◇◇◇
翌朝。紬はまだ眠っていた。
湊は静かにベッドを抜け出し、ワイシャツに袖を通す。
出勤の準備を整えて玄関を出ると、青白い朝の光が通りを照らしていた。
電車の窓に映った自分の顔は、昨日と変わらないはずだった。
けれど、湊はふと思った。
──どこで間違ったんだろう。けれど……まだ、戻れるのかもしれない。
そう思ってしまった瞬間、その希望がどこか滑稽に思えた。
もう、輪郭は消えかけていた。
日常も、現実も、自分という存在さえも。
これでいい?
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いいよ。もう十分だよ
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