※この作品はR-18です。

甘くて、こわい君だった   作:Marks_Lee

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第8話

朝の通勤電車。車窓に映る自分の顔を、湊はじっと見つめていた。

どこにでもいそうな三十代の男の顔。特に印象に残るような特徴はないはずなのに、その映り込みには見覚えがなかった。

いや、それはたしかに自分自身なのだ。けれど、どこか歪んで見える。輪郭が、少しだけ滲んでいる。

 

昨日の夜の感触が、まだ指先に残っていた。

熱、吐息、紬の細い指が首筋を撫でる感触。声も、温度も、まだ耳の奥にこびりついているようだった。

 

そのまま仕事に取りかかってみたものの、集中できるはずがなかった。

ディスプレイの文字が目に入ってこない。メールの返事を書いている最中に、ふと別の画面を開いたまま手が止まる。

意識が浮ついている。いや、脳のどこかが空白のまま、動いていない。

 

「……湊さん、大丈夫ですか?」

 

後輩の声が、すぐ隣で聞こえた。

小さく微笑むようにして、彼女は湊の手元の書類を覗き込む。

 

「あ、ここの数字、ずれてます。たぶん入力ミスだと思うんですけど」

 

「あ……そうか。ごめん、ありがとう」

 

「いえ、でも最近ちょっと……元気ないですよね。ちゃんと寝てますか?」

 

湊は返事をしようとして、口を開いた。けれど、言葉が出てこなかった。

何を言えばいいのか、自分でもわからなかった。ただ、首を横に振って、曖昧に笑うしかなかった。

 

昼休みになっても、胸の奥のざわつきは引かなかった。

自販機で買った缶コーヒーを片手に、湊は休憩室の隅でスマホを取り出す。

 

画面には、紬からのメッセージがひとつ。

「今夜は、帰ってこられますか?」

 

──“帰ってこられますか”。

その一文に、湊の指がわずかに震えた。何の断りもなく、まるで当然のように「湊の家」が“帰る場所”になっている。

それは、ほんの数週間前まで存在しなかった関係だ。なのに、もうこの文面に何の違和感も抱かなくなっていた自分がいた。

 

まるで、彼女が自分の生活の一部になったかのように。

 

◇◇◇

 

帰宅したのは、終電の少し前だった。

玄関の灯りはすでについていて、鍵を開けるとすぐに、温かい香りが鼻をかすめた。

 

「おかえりなさいませ」

 

キッチンから、紬の声がした。

湊が靴を脱ぐ音にあわせるように、皿の触れ合う音が響いた。ダイニングに足を運ぶと、そこには湯気の立つ料理と、整然と並べられたカトラリー。そして、その隣に静かに佇む紬。

 

まるで、妻のようだった。

そんなふうに思ってしまった自分に、湊は動揺した。けれど、それを口にする気力も残っていなかった。

 

「お仕事、お疲れさまでした」

 

「……ありがとう。作ってくれたんだね」

 

「はい。湊さん、今夜は帰ってこられる気がしてましたから」

 

言葉の意味を考える前に、湊は箸を取っていた。

手際よく盛られた肉じゃがを口に運ぶ。けれど、何の味もしなかった。

 

◇◇◇

 

その夜も、湊は紬を抱いた。

 

最初に口づけたのは、彼女のほうだった。

「身体が冷えてしまいました」と微笑みながら、湊の指にそっと自分の手を絡ませてくる。

そのまま布団の中で、彼女は湊の胸に頬を寄せ、足を絡ませ、まるで一体化するように重なってくる。

 

──この肌の温度は、快楽なのか、支配なのか。

 

わからない。ただ、抗えない。

 

静かな喘ぎ声と、濡れた吐息。

指先が這うたび、心臓の奥が痺れる。

だがそのたびに、意識が少しずつ削れていくような感覚に襲われる。

 

すべてが静かすぎた。

柔らかく、甘く、けれどどこか凍るような静寂が、ふたりの間に広がっている。

 

果てたあと、紬は湊の肩に額を預けたまま、ぽつりとつぶやいた。

 

「……湊さんが、どこにも行かないように。私、祈ってるんです」

 

耳元で響いたその言葉に、背筋がひやりと冷えた。

けれど、紬の手は優しかった。その腕を、湊は振り払うことができなかった。

 

いや、本当は。

振り払う意思すら、とうに失くしていたのかもしれない。

 

◇◇◇

 

翌朝。紬はまだ眠っていた。

 

湊は静かにベッドを抜け出し、ワイシャツに袖を通す。

出勤の準備を整えて玄関を出ると、青白い朝の光が通りを照らしていた。

 

電車の窓に映った自分の顔は、昨日と変わらないはずだった。

けれど、湊はふと思った。

 

──どこで間違ったんだろう。けれど……まだ、戻れるのかもしれない。

 

そう思ってしまった瞬間、その希望がどこか滑稽に思えた。

 

もう、輪郭は消えかけていた。

日常も、現実も、自分という存在さえも。

これでいい?

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