◯学生のボク、図書室の司書さんに「セックス」という言葉の意味をカラダで教えてもらう 作:昼間寝音
──あ。こんにちは。
柔らかく透き通った声が、図書室の静寂を破る。
司書の彼女は、カウンターの向こうの椅子に座り、眼鏡越しに優しく笑っていた。
「今日も本を借りに来たんですか?」
ボクは、無言でうなずく。
「この学校、図書室は大きいのに、あんまり本を借りに来る生徒さんがいないから、私、毎日楽しみにしてるんですよ。
放課後、君がこうやって新しい本を借りに来るの」
少し頬を染めながら語る彼女の声に、ボクの胸がじんわりと熱くなる。
「本はいいですよねえ❤ 現実の世界じゃ体験できない、色んな人生を歩める。
それに、文章の中でなら、何をしても誰にも咎められない。うふふふっ……❤」
彼女は、ふと遠くを見るように目を細める。
ボクは息を飲んだ。彼女のその表情が、どこか艶めかしく、何かが始まりそうな予感を漂わせていたから。
「はっ。ごめんなさい。えーと、それで、今日はどんな本を借りに来たんですか?」
我に返ったように咳払いしながら、彼女が言う。
ボクはランドセルから一冊の本を取り出し、机に置いた。重たい音が、二人の間に落ちる。
「えっ、これ……。あ、君にはちょっとこの本、難しいんじゃないかなーって、お姉さんは思うっていうか……」
彼女が顔を赤らめて早口になる。
「あの、ね。たしかにこの本は文学的価値があって、その……。えーと……」
言い淀んでから、一呼吸おいて落ち着いた声音になる。
「私も色んな意味で人生を豊かにしてもらった本、だけど。それは大学生も後半になってから、だったから。
君にはまだちょっと、早すぎる気が、する、なぁ……」
ボクは、その言葉に何かをこらえきれなくなっていた。
「あっ、えっ!? なんで泣くの!? ご、ごめんなさい!
私、何かまずいこと言っちゃいましたか!?」
涙がこぼれた。読んでも理解できなかった本。
ボクは、それが悔しくて、惨めで、恥ずかしくてたまらなかったのだ。
「というかまずいのは、こんなハードな性描写のある小説が置いてある学校の方ですよ……」
呟く彼女の言葉の意味は分からなかったけれど、その声は、熱を帯びた耳に微かに心地よく届いた。
「なんで、泣いちゃったのか、お姉さんに教えてくれる?」
ボクは、ぽつりぽつりと説明した。
すでにその本は読んだこと。けれど意味が分からなかったこと。
ボクなりに読み込んだのに、感情や身体の感覚が理解できなかったこと。
「……そっか、たしかに君はこの学校の中では一番の読書家さんだと思うけど、この本に書いてあることは流石にわからないよね。……そっか」
優しい声が、頭の上から降ってくるようだった。
「じゃあ……。お姉さんが、少しだけ、教えてあげても、いいですよ? この本に書いてあること」
彼女は、声をひそめるように言った。ふざけているわけではない。本気の声だった。
「うん。その代わり、約束してください。私が教えたこと、絶対に誰にも言わないで、内緒にするって。
もし秘密がバレちゃったら、私はこの学校にいられなくなっちゃいますからね。この本に書いてあることは、そういうことなんですよ」
ボクは、こくりと頷いた。
大好きな司書さんがこの学校からいなくなるなんて、想像しただけで、苦しくなった。
それでも、そんな大事な秘密のことを教えてくれるなんて、やっぱり司書さんは優しい人だと思って、胸がドキドキした。
「それでもいいなら、小指、だして❤」
彼女の細くしなやかな小指が、ボクの前に差し出される。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本、のーます。ゆびきった❤」
指と指が絡み合い、やわらかな体温が伝わってくる。
「よーし。いい子いい子。ふふっ。可愛い❤」
彼女は、微笑みながら言った。その表情に、ボクの鼓動が跳ねる。
「じゃあ、この図書室も静かだけど……誰かに見つかっちゃうかもしれないですね。
そうだ。書庫に、行きましょうか。あそこなら、私以外入らないし」
彼女はゆっくりと立ち上がり、ボクに手招きした。
この学校で一番静かな図書室の、さらに静かな、奥へ。禁断の扉が、開かれようとしていた。
書庫の扉が静かに閉まると、空気が変わった。
もう夏休みも間近だというのに、ひんやりとした静寂が辺りを包んでいる。
「……こっちですよ。もっと奥に来て」
司書さんが囁くように言う。
彼女の後ろ姿を追って、ボクは静かに歩を進めた。
書棚の影に隠れたその奥は、まるでこの世界から切り離された異世界のようだった。
「この辺りは、普段誰も来ませんから……ね」
足音が止まり、ボクらは完全に閉じた空間の中に立った。
「……ねえ、君は、“恋”って、したことありますか? 本の中じゃなくて……現実で」
唐突な問いに、ボクは言葉を失った。
彼女はその沈黙すらも肯定するように、やわらかく微笑んだ。
「……ふふ。やっぱり、まだなんだ。でも、それでいいんですよ。
今はまだ知らないものがあって、その分、これから感じられることがたくさんある」
その言葉の直後、耳元にふっと温かな吐息がかかった。
「……っ」
ボクの肩がわずかに震えたのを、彼女は見逃さなかった。
「ふふっ。びっくりしました? ……でも、その顔、ちょっとだけ期待してるようにも見えます。
“気持ちよさ”っていうのはね……静かなほど、深くなるものなんですよ」
彼女の声が、低く、甘くなっていく。
「たとえば、こうやって……誰にも聞こえないくらいの声で、耳元で囁かれると……ぞくって、しませんか?」
その直後、耳の内側に響く囁き声。
『君のこと、もっと知りたいんです』
一言が、体の芯を震わせる。ボクの喉が、勝手に小さく鳴った。
「……こういうふうに、少しずつ、近づいていくんですよ」
彼女の気配が、ほんの少し距離を詰めた。
肌と肌が触れ合ってはいないのに、ボクの背筋には電気が走る。
「急がなくていいんですよ。今日は、その“はじめの一歩”を、ゆっくり一緒に、踏み出しましょうね」
ボクは無意識にうなずいていた。
それが何を意味するか、正確には分かっていなかったはずなのに。
「……ねえ、目を閉じて。……そう、そのまま、深呼吸してみてください」
彼女の声に導かれ、ボクは静かに目を閉じる。
その瞬間、肩にそっと触れられた。ふわりと、彼女の手が乗る。
軽い、けれど、体温だけははっきりと伝わってくる。
「君が、今、どんな気持ちなのか……言わなくても、わかりますよ。
不安と……期待。知らないことを、知ろうとするときの、あの震えるような感覚」
耳の奥に囁かれるようなその声は、鼓膜から脳髄を這い上がっていく。
「……ふふ。可愛い」
ボクは何も言えなかった。息を吸うたび、鼻腔に司書さんの香りが満ちていく。
「でもね、まだ触れません。今はまだ……“想像”だけを味わってもらいたいんです」
その言葉と同時に、彼女の唇が再び耳元へと近づいた。
気配でわかる。今度は、本当に近い。
「……たとえば、このまま私が君の首筋に『キス』したら。どうなっちゃうと思いますか?」
喉の奥で息が詰まった。
想像するなと言われても無理だった。彼女の唇が、自分の首筋に触れたときの感触を……。
「想像しました? ……んふふ、そんな顔して」
耳元で甘く笑われる。
彼女には、ボクの心の動きがすべて見えているのだ。
「じゃあ……“この本に書いてあったこと”、少しずつ、思い出してみましょう」
彼女の声は、まるで呪文のようだった。
「“疼くような熱”“思考がとろけるような感覚”……それが、どんなことか……ちゃんと、考えてみましたか?」
ボクの喉が乾く。
考えれば考えるほど──
「考えれば考えるほど、胸の奥が、熱くなってくるでしょう? でも、それは……間違っていませんよ」
彼女の声が一段と低くなる。
「それが、性的な興奮。……君の身体が、大人の男になろうとしてる証なんです」
耳にふっと息がかかった。
「ふふ……ねえ。私に触れてみたいですか? それとも……私に触れられたい、ですか?」
言葉にならない。選べない。
どちらも欲しくて、どちらも怖くて──
「……どちらにしても、ね。教えてあげますよ。君が、まだ知らない“身体の意味”を、ね」
彼女の声が、頭の奥に染みこんでいく。
ボクはもう、逃げられなかった。いや、逃げたいなんて思っていなかった。