翌日は、皇女殿下は来なかった。失敗だったかなと考えた。しかしどうしようもない。
その翌日も、彼女が来ることはなかった。
姿を見なくなって五日目には、気がつくと一日が終わっていた。僕は、彼女の来訪を期待しなくなっていた。はっきりいえば、来るかも知れないことを忘れていた。そのまま一週間経ち、翌週も半ばになった時、扉が開いた。ぼんやりと紅茶を飲んでいた僕は、驚いて顔を上げた。彼女は、僕を見ると苦笑した。
「寂しかったか?」
僕は視線を逸らしてしまった。正直、全く寂しさを感じなかったからだ。はじめは彼女を待っていたはずなのだが、その理由も、僕が下手だったからじゃないかという悩みからだ。
「少しは寂しそうな顔をして見せてくれ」
「ジェーンは寂しかった?」
僕は、話を変えた。すると彼女が虚を突かれたような顔をした。そしておろおろと視線を揺らしはじめ、その内に顔を背けた。横顔の頬と、耳が、わずかに赤い。
「何度か貴方の顔を思い出して、会いたいと思った。会いたかった」
「そういってもらえると嬉しいね」
これは嘘じゃない。だが、会いたいのならば、会いに来てくれれば良かったのに。そうするほどは、会いたくなかったのだろうか。顔を出せないほど忙しかった、遠方に出かけていた、様々な理由が考えられる。だけど僕には、それを知る術が、彼女の口から直接聞く以外にはないのだった。そして彼女が本当のことしか言わないとは限らない。情報と隔絶された生活なのだと改めて考えさせられた。しかし、別に知らなくても良いじゃないかと思ってしまった。知っても知らなくても、僕にはどうにかしようと言う気もなければ、することも出来ないのだから、無関係に等しい。
彼女が僕に歩み寄ってきた。唇が近づいてきたので、僕は素直にキスをした。相変わらず、彼女のキスは上手かった。それから寝室へと向かい、僕達は体を重ねた。最初は指で再び解すことになったが、すぐに解れたので良かった。さらにその次の日も彼女はやってきた。その後の十日間ほどは、彼女は毎日やってきた。短時間のこともあれば、行為後もずっと部屋にいることもあった。次第に快楽になれていく皇女殿下は、色気を増していった気がする。元々色気のある人だったが、今は艶っぽくなった。凛としていたのだが、今は女性的な表情で儚げな事も多々ある。それは僕が何度も彼女に会っているから、新たな一面を知っただけなのかもしれないが、僕は何となく性行為のせいで変わったような気がする。なぜならば、姉が結婚した直後、やはりこのような変化を辿ったからだ。その時兄が、女はやると変わる奴がいる、といっていたのだ。その変化が悪いものだとは、僕は思わない。そうして再び、彼女は来なくなった。二週間くらい間が空いた。それからは、来たり来なかったりが不意打ちになった。連続で来たり、数日空いたり、バラバラだった。特定の曜日に来るというわけでもない。曜日ごとに時間の長さが違うわけでもない。僕には何の判断材料ももたらされなかった。それで僕が困ったことは一度もないけど。しいていうなら、僕は彼女が隣にいる時、眠くても寝たことがないのだけれど、それがちょっと困るというか何とも言えないのだ。別に寝て構わないのだろうが、僕は二人で眠ることにどうしても慣れられないのだ。逆に皇女殿下は、日によっては眠っていくようになった。そう言う日は、僕が朝の四時半頃、彼女を起こしている。彼女は、何喰わぬ顔で自分の部屋に戻らなければならないからだ。僕の存在は秘密なのである。そんなこんなで二ヶ月が経った。
既に僕は、彼女が妊娠していることを知っている。魔力の気配で、胎児がいることが分かるのだ。お腹の中の赤ちゃんの魔力は、やっぱり僕によく似ていた。つまり兄や父、祖父とも似ている。きっと大叔父にも似ている。サザーカインツ家の男の子は、大体こういう魔力の気配なのだ。皇女殿下は、妊娠に気づいていない様子だが、僕はまだ話していない。胎児に影響が出るかも知れないと考えて、最近は愛撫しかしていない。だがこれまでにもそういう日はあったので、彼女は不思議に思っていないようだ。子供は、十月十日で生まれる。現実の二ヶ月が経過した段階で、三ヶ月と数えるらしい。だから来年の一月の終わりから二月の半ばまでに生まれるのだろう。僕は、何事もなければ、十九歳でお父さんになるのだ。ちなみに皇女殿下は僕の一つ年下だから、十八歳でお母さんになるのだ。ウェザークラフト王国で言えば、男性にしてはかなり早く女性にしてはごく平均的な年齢だ。帝国ではどうなのだろう。そこまでは、僕は知らない。そうして再び彼女は来なくなった。僕は、以前とは違い、彼女が来るのを待っている。子供のことが気になるのだ。無事に体内で育っているのか、それとも、もういないのだろうかと考えるのだ。元気だと良いのだが、悪い想像もしてしまう。僕は子供が出来たと知らされて喜ぶ権利がないのではと思うこともある。例えば子供が既に亡くなっている時や、他の人が父親として指名された場合だ。堕胎薬や物理的な腹部への衝撃、病気では決して流産しないが、流石に医術器具で直接的に内部から外部へと堕胎させられれば、死んでしまう。すごくそれが心配なのだが、反面、おかしな心配もある。僕は、自分の子供を愛せるのだろうかと不安なのだ。僕はちゃんと子供のことを好きになり、可愛がったり優しく慈しんだり出来るのだろうか。僕の家族はみんな優しかったが、僕にそう言うことが出来るのだろうか。だから僕は、何故自分が子供のことを心配しているのかよく分からない。勿論単純に赤ちゃんが死んでしまうという事実は、客観的に考えて悲しいことだというのはある。だが打算的に、家族の望みとして血を残す観点から心配している気もするのだ。皇女殿下は妊娠についてどう考えているのだろう。僕の子供を産むことについて、どう思っているのだろう。純粋に跡継ぎの出生を喜ぶのだろうか。それとも他の有力な相手との婚姻の弊害になることを悩むだろうか。養子に出す可能性だってある。そもそも彼女は、まだ他の正式な夫を迎えていないのだろうか。僕には全然分からない。だから彼女に会って、赤ちゃんの現在の状況を知り、彼女の反応も見たいのだ。しかし皇女殿下はここに来ない。一人きりの僕は、誰と話すこともなく、日がな一日そればかり考えているのだ。他に何もやることがないが、これまでの人生を振り返ると、考える事柄が出来ただけ進歩なのかも知れない。
その内に、聖夜も過ぎて、新年を迎えた。一人きりの年末年始は初めてだった。
皇女殿下がやってきたのは、一月の終わりに近い頃だった。僕は彼女のゆったりとしたドレスと、ふくらんでいる腹部を見て、気づくと安堵の息を吐いていた。彼女は最初、何も言わずじっと僕を見ていた。その眼差しはどこか冷たい。僕は嫌われているのかも知れないが、何が理由なのかは見当もつかない。
「子供が出来た」
「うん」
「驚かないな」
やはり彼女の声は冷ややかだった。怒っているわけではないが、確実に憤りは抱えている。少しの蔑みもあるようだ。僕は、彼女のそんな視線を正面から受け止めた。
「私は実を言えば避妊薬を服用していたんだ」
僕は無言で彼女の言葉を聞いていた。
「なのに妊娠した。偶発的な事故で子供が出来たとは思っていない」
偶発的な事故というのは、避妊が失敗したとは思えないという意味だろう。しかし僕との間に子供が出来るというのは、事故だったのか。なんだか大変申し訳ない。
「貴方は私に薬を盛って妊娠を促すほど子供を欲していたのか? 帝国の国父として力を持ちたかったのか?」
別にそう言うつもりではない。しかし悲しそうでもあり、今度は怒りもみせている彼女は、果たして僕の言葉を聞いてくれるのだろうか。いつか僕の首を絞めた親友の顔が過ぎった。そっくりだ。その表情を見ていたら、僕は言葉が何も出てこなかった。実際血を残す必要はあったのだ。
「否定しないんだな。悪いが、私は貴方の思い通りにさせる気はない」
皇女殿下は、僕の思い通りというのを、どんな状況として想像しているのだろう。僕は別に何も思わないから、何かの通りには出来ない。だが、別に誤解されていても構わない気もする。なにせ子供は元気そうだ。彼女は妊娠が分かっても、堕胎しなかったから現在があるのだ。堕胎不可能になってから気づいたのだとすれば、何とも言えないが、来なくなった日を逆算して考えれば、そんなことはないような気がする。第一、月のものが来なくなれば、悟るだろうから。もしかしたら、子供は皇位継承権が剥奪されたり、皇族籍ではなくなるかもしれないが、生後すぐに彼女の手で殺されることは無いような気がする。なぜならば、殺すには惜しい魔力を持っているからだ。暗殺や病気、事故以外では死なないのではないだろうか。
僕はこれからどうなるのだろうか。一番可能性が高いのは、ここにこのまま幽閉されて、誰とも一生会わず、死ぬという可能性だ。つまり今後僕は、二度と他者に会うことはなくなる。彼女とこうして顔を合わせたっきり、後は無しだ。死ぬまでどのくらいの期間がかかるのかは分からないが、そんなに遠い未来ではないだろう。二番目に高い可能性は、殺される可能性だ。こちらには、彼女にとって大きな利点がある。僕を正式な夫では無くすることができるからだ。しかし公的には違法だ。皇族同士の殺人は、入り婿が対象でも禁止なのだ。他にはどんな可能性があるだろうか。死ぬとしたら、なるべく楽なのが良いな。キースのことを思い出す。今もし彼がここにいたら、腕輪を外し、全力で触ってもらいたい。僕は諦めてどんな死に方でも喜べるだろう。
「何とか言ったらどうだ?」
確かに一言くらい何か発言してみようか。何せこれが最後の機会なのだろうから。そう思って口を開き、僕は固まった。声が出てこないのだ。呼吸音しかしない。焦って思わず喉を押さえた。そして目を見開いた。この感覚には覚えがある。僕は喋れなくなってしまったのだ。あーあ。一瞬、長く話していなかったせいかと思ったが、絶対に違う。動揺しないと言えば嘘だった。全身を寒気に襲われて胸が苦しくなる。きつく目を伏せて、僕は俯いた。しかし……仕方がない。もっともどうせ話す機会など無くなるのだから、構わないか。それに今回は、僕のことを癒してくれるような友人もいないから、もう一生声が戻らない事を覚悟しなければならない。そう考えれば、話す機会が無くなったことは幸運なのかも知れない。僕は目を開けて、顔を上げた。そして思わず苦笑した。残念ながら、もう僕には、何か言葉をかけることは出来ないのだ。いつか奇跡的に子供と会うことが出来ても、なにもしてあげられないだろう。
僕の反応に彼女は眉を顰めた。怪訝そうに僕を見ている。
「……ネル?」
久しぶりに名前を呼ばれた。僕は一瞬、自分の名前を忘れていた。
そういえば、僕は考えたことがある。子供の名前は何になるのかと。男の子なのか女の子なのかも、何度か考えた。なんだかそんなことを考えていた自分のことが馬鹿みたいに思えてきて、泣きたくなったが、僕は涙が出ないたちなのだ。変わりに気持ちが悪くなってきた。吐き気がするが、そういえばここのところ、何にも食べていなかった。最近、自分の服が緩くなってしまった。筋肉も落ちたのが分かる。僕は何にもしていないから当然だけど。胸がすごく痛む。ものすごく辛くて、すごく悲しい。目眩がする。視界がグラグラするのだ。僕は立っているのが辛くなってきた。もう笑顔を作る気力がない。皇女殿下には、僕が彼女の言葉に絶望して、表情を無くしたように見えているのだろうか。そういうわけではないのだが。僕はいつから声が出なくなっていたのか分からないから、もしかしたらやっぱり彼女の言葉に、無意識に衝撃を受けているのかも知れないし、それを否定は出来ない。僕は長々と目を伏せた。ゆっくりとまばたきをしているふりだ。気分の悪さをそれで振り払おうと思ったのだ。
「……少し痩せたか?」
彼女が探るような声音になった。そんなの見れば分かるんじゃないかと思うんだけどな。そう思った次の瞬間には、僕は倒れていた。いつか特務塔で倒れた時のように、頭を床に打っていた。だけどここの絨毯は柔らかいから、怪我はしていないと思う。僕はおもいっきり咳き込んだ。なにかがせり上がってくる。口を押さえたが、止められなかった。僕は掌を見て、思わず眉間に皺を寄せた。真っ赤に染まっていたからだ。僕は吐血したのだ。それを確認してから、僕は何度も何度も咳き込んだ。血が止まらない。なんだろうこれ。治癒魔術がおいついていないらしい。ならば比較的悪い状態なのだろう。僕は病気のようだ。気づくと彼女が僕を抱き起こしていた。肩を持ってくれている。驚愕したように目を見開いているのが分かった。唇も動いている。だが、僕は強い耳鳴りに襲われていて何も聞き取れなかった。しかも目眩も続いているから、視界も少し歪んでいるというか、廻っているというか、兎に角おかしい。その内に、目の前がチカチカしてきた。暗闇と赤緑の砂嵐に襲われる。そして僕はまた血を吐いた。思いの外早く死にそうだ。僕はそのまま意識を失ったらしい。