※この作品はR-18です。

母の写真   作:松田義和

2 / 10
第ニ章 見てしまったもの

久しぶりの帰省は、思っていた以上に心地よかった。

父さんも母さんも、僕の帰りを本当に喜んでくれていた。

母さんは相変わらず料理に張り切って、唐揚げが少し焦げたことを「久しぶりだから緊張しちゃった」なんて笑っていた。

父さんも、いつもより口数が多かった気がする。

それは、ただの平和な夏の一日になるはずだった。

 

――あれは、本当にただの出来心だった。

 

母さんのスマホが、リビングのソファにぽつんと置かれていた。

画面が明るくて、通知が一つ光っていた。

「充電減ってるな」とか「これ、落としたら割れるかも」とか、どうでもいい理由を自分の中でこじつけて、僕はそのスマホに手を伸ばした。

 

母さんは、風呂に入っていた。

いつもならパスコードがかかっている。なのに、そのときに限ってロックは解除されていた。

まるで、誰かに見てほしかったかのように。

 

何を探していたわけでもなかった。

本当に。ただ、どんなアプリを使っているのかとか、どんなLINEのやり取りをしているのか、些細な好奇心だった。

あるだろう? そういうの。

たとえば父親の引き出しをなんとなく開けてみたくなる衝動とか、昔のアルバムをこっそり覗いてみたくなるような、あれに近い。

 

でも、アルバムを開いてしまった。

最初に出てきたのは、料理の写真だった。

少し焦げた唐揚げ、今夜のやつだ。

その次は、近所の野良猫。

空の写真、買い物のレシート、友達とのプリクラ――

 

そして、あの一枚に、行き着いた。

 

母さんが、下着姿で、鏡の前に立っていた。

 

現実の音が、突然消えた。

写真の中で、母さんはまっすぐカメラを見ていた。

笑っていた。

ナチュラルメイクで、肌はきれいだった。

その下着は、生活のためじゃない。明らかに、誰かに見せるためのものだった。

 

心臓が急にうるさくなった。

スマホを持つ手がわずかに震えた。

汗が、足の裏からじわじわとにじみ出ていた。

 

「母さんが“女”である」という事実が、あまりにも異質だった。

いや、違う。考えないようにしてきただけだったのかもしれない。

でも、この目で見てしまった。知ってしまった。もう戻れなかった。

 

僕はスマホをそっと閉じて、何もなかったかのようにソファに置き直した。

何も知らない顔をして、自分の部屋に戻った。

ドアを閉めて、ひたすら目を閉じた。

 

しばらくして、風呂上がりの母さんが声をかけてきた。

 

「あんた、ごはんチンして食べなさいよ〜」

 

その声は、昔と何も変わっていなかった。

でも、僕の中の“母さん”は、もう、あの頃と同じじゃなくなっていた。

 

見なければよかった。

本当に、それだけだった。

 

 

あの一枚の写真を見てしまってから、何を食べたかも思い出せない。

時間が止まったような気がしていた。

けれど、不思議なもので、しばらくすると心は勝手に理由を探し始める。

――きっと、ふざけて撮っただけ。

たぶん、たった一枚だけ。

そう言い聞かせることで、かろうじて呼吸を続けていた。

 

でも、落ち着いたと思ったのは錯覚だった。

ふと、あることを思い出してしまった。

 

そういえば、最近母さん、あの古いノートパソコンをよく触ってた――。

 

胸の奥が、ざわついた。

まさか、まさかとは思うけど。

もし、あの写真を誰かに送ってたとしたら?

あれが一枚だけじゃなかったとしたら?

 

立ち上がっていた。もう止められなかった。

リビングの隅に置かれたノートパソコン。薄いグレーの、少しくたびれたやつ。

電源を入れると、ファンが静かに回り始めた。

昔、使わせてもらったときにはロックがかかっていたはずなのに、その日はすんなりとデスクトップが現れた。

 

……なんで?

 

心臓の音が、鼓膜の裏側で跳ねている。

画面の中のアイコンが、どこかよそよそしく見えた。

マウスを握る指が少しだけ汗ばんで、クリック一つがやけに重たかった。

 

「マイピクチャ」フォルダ。

中にはいくつかのサブフォルダがあった。

 

「2018」

→「家族旅行」

 

懐かしい写真たちが並んでいた。

父さんの少しふざけた顔、僕がソフトクリームを落としそうになってる瞬間、母さんの笑顔。

どれも、ちゃんと「家族」のかたちをしていた。

 

だけど、その中にひとつだけ、浮いて見えるファイルがあった。

 

「0219.jpg」

 

無機質なその名前は、他のどのファイルとも雰囲気が違っていた。

旅行の写真なのに、2月19日? いや、旅行は夏だったはずだ。

家族の誰の名前でもない。イベント名でもない。

 

ただの数字。

だけど、その数字に、どうしようもない“意味”が潜んでいるような気がした。

 

カーソルがその上で止まる。

数秒間、ためらった。

開いたところで、何が出てくるのかなんて、正直、もうわかっていた。

それでも――引き返すことは、もうできなかった。

 

ダブルクリック。

ローディング中のくるくるが、やけに長く感じる。

 

そして、

画面に映し出されたのは――

 

なんで、こんなものが、母さんのPCに……?

 

言葉が、出なかった。

頭の中で誰かが怒鳴っていた。「見るな」と。「閉じろ」と。

でも僕は、画面から目を離せなかった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。