久しぶりの帰省は、思っていた以上に心地よかった。
父さんも母さんも、僕の帰りを本当に喜んでくれていた。
母さんは相変わらず料理に張り切って、唐揚げが少し焦げたことを「久しぶりだから緊張しちゃった」なんて笑っていた。
父さんも、いつもより口数が多かった気がする。
それは、ただの平和な夏の一日になるはずだった。
――あれは、本当にただの出来心だった。
母さんのスマホが、リビングのソファにぽつんと置かれていた。
画面が明るくて、通知が一つ光っていた。
「充電減ってるな」とか「これ、落としたら割れるかも」とか、どうでもいい理由を自分の中でこじつけて、僕はそのスマホに手を伸ばした。
母さんは、風呂に入っていた。
いつもならパスコードがかかっている。なのに、そのときに限ってロックは解除されていた。
まるで、誰かに見てほしかったかのように。
何を探していたわけでもなかった。
本当に。ただ、どんなアプリを使っているのかとか、どんなLINEのやり取りをしているのか、些細な好奇心だった。
あるだろう? そういうの。
たとえば父親の引き出しをなんとなく開けてみたくなる衝動とか、昔のアルバムをこっそり覗いてみたくなるような、あれに近い。
でも、アルバムを開いてしまった。
最初に出てきたのは、料理の写真だった。
少し焦げた唐揚げ、今夜のやつだ。
その次は、近所の野良猫。
空の写真、買い物のレシート、友達とのプリクラ――
そして、あの一枚に、行き着いた。
母さんが、下着姿で、鏡の前に立っていた。
現実の音が、突然消えた。
写真の中で、母さんはまっすぐカメラを見ていた。
笑っていた。
ナチュラルメイクで、肌はきれいだった。
その下着は、生活のためじゃない。明らかに、誰かに見せるためのものだった。
心臓が急にうるさくなった。
スマホを持つ手がわずかに震えた。
汗が、足の裏からじわじわとにじみ出ていた。
「母さんが“女”である」という事実が、あまりにも異質だった。
いや、違う。考えないようにしてきただけだったのかもしれない。
でも、この目で見てしまった。知ってしまった。もう戻れなかった。
僕はスマホをそっと閉じて、何もなかったかのようにソファに置き直した。
何も知らない顔をして、自分の部屋に戻った。
ドアを閉めて、ひたすら目を閉じた。
しばらくして、風呂上がりの母さんが声をかけてきた。
「あんた、ごはんチンして食べなさいよ〜」
その声は、昔と何も変わっていなかった。
でも、僕の中の“母さん”は、もう、あの頃と同じじゃなくなっていた。
見なければよかった。
本当に、それだけだった。
あの一枚の写真を見てしまってから、何を食べたかも思い出せない。
時間が止まったような気がしていた。
けれど、不思議なもので、しばらくすると心は勝手に理由を探し始める。
――きっと、ふざけて撮っただけ。
たぶん、たった一枚だけ。
そう言い聞かせることで、かろうじて呼吸を続けていた。
でも、落ち着いたと思ったのは錯覚だった。
ふと、あることを思い出してしまった。
そういえば、最近母さん、あの古いノートパソコンをよく触ってた――。
胸の奥が、ざわついた。
まさか、まさかとは思うけど。
もし、あの写真を誰かに送ってたとしたら?
あれが一枚だけじゃなかったとしたら?
立ち上がっていた。もう止められなかった。
リビングの隅に置かれたノートパソコン。薄いグレーの、少しくたびれたやつ。
電源を入れると、ファンが静かに回り始めた。
昔、使わせてもらったときにはロックがかかっていたはずなのに、その日はすんなりとデスクトップが現れた。
……なんで?
心臓の音が、鼓膜の裏側で跳ねている。
画面の中のアイコンが、どこかよそよそしく見えた。
マウスを握る指が少しだけ汗ばんで、クリック一つがやけに重たかった。
「マイピクチャ」フォルダ。
中にはいくつかのサブフォルダがあった。
「2018」
→「家族旅行」
懐かしい写真たちが並んでいた。
父さんの少しふざけた顔、僕がソフトクリームを落としそうになってる瞬間、母さんの笑顔。
どれも、ちゃんと「家族」のかたちをしていた。
だけど、その中にひとつだけ、浮いて見えるファイルがあった。
「0219.jpg」
無機質なその名前は、他のどのファイルとも雰囲気が違っていた。
旅行の写真なのに、2月19日? いや、旅行は夏だったはずだ。
家族の誰の名前でもない。イベント名でもない。
ただの数字。
だけど、その数字に、どうしようもない“意味”が潜んでいるような気がした。
カーソルがその上で止まる。
数秒間、ためらった。
開いたところで、何が出てくるのかなんて、正直、もうわかっていた。
それでも――引き返すことは、もうできなかった。
ダブルクリック。
ローディング中のくるくるが、やけに長く感じる。
そして、
画面に映し出されたのは――
なんで、こんなものが、母さんのPCに……?
言葉が、出なかった。
頭の中で誰かが怒鳴っていた。「見るな」と。「閉じろ」と。
でも僕は、画面から目を離せなかった。