夜。
部屋の明かりを消して、ベッドに潜り込んでいた。
カーテンの隙間から、かすかに街灯のオレンジが差し込んでいる。
その淡い光の中、僕の手の中にはスマホがあった。
画面の明かりが、まぶしい。
明るさを少し下げて、音も切って、それから――
指が、あの写真のフォルダを開いた。
もう、何度目かもわからない。
やめればいいのに、見なければいいのに。
でも、指は迷いなく、その写真を選んでしまう。
この人は、母さんだ。
そう認識しながらも、
でも同時に、どこかで思っていた。
いや、本当は違うのかもしれない。
――これは、「母さん」じゃない。
台所でエプロンをつけてるあの人じゃない。
僕の成績を気にして、風邪のときにポカリを買ってきてくれた人じゃない。
写真の中にいるのは、
誰かに見せるための下着を身に着けて、鏡の前で微笑む**“ひとりの女性”**だった。
そう気づいた瞬間、胸の奥がざわついた。
何かがこぼれた気がした。
今まで、感じたことのない感情。
どこか、黒くて、あたたかくて、重たいもの。
それを認めたくなくて、
必死に頭の中で打ち消した。
「違う。これはただの写真だ。ふざけて撮っただけだ」
「母さんは、そんな人じゃない」
「これは間違いだ、何かの――」
でも、言い訳はもう、通用しなかった。
写真は確かに存在している。
それを“保存した”のは、他でもない僕自身だった。
どうして、消せなかったんだろう。
どうして、こうして夜中に見ているんだろう。
気持ち悪い。自分が、信じられない。
でも、目が離せなかった。
画面の中の“彼女”は、何も語らないまま、
僕の視線を受け止めて、そこに立ち尽くしていた。
何のために撮ったの?
誰のために、そんなポーズを?
母さん……。
声には出せなかった。
出した瞬間、すべてが壊れてしまいそうだったから。
僕の中で、母さんが「母さん」じゃなくなりはじめていた。
いや、まだ半分は、確かに母さんだった。
でももう半分は――
僕が、まだ名前をつけられない何かに変わりつつあった。
そしてその夜、
僕は一度も眠れなかった。
スマホの画面を見つめながら、
目を閉じたふりをしながら、
心の奥底でずっと、誰にも言えない感情を、抱えていた。
八月の半ば、夏の暑さが少しだけ和らいできた頃。
僕は、下宿先に戻らなければならなかった。
荷物は少しだけだった。
母さんが用意してくれた野菜や惣菜を、小さめの保冷バッグに詰めて。
駅までの道のりは、いつもより少し長く感じた。
車の中では、特別な会話はなかった。
母さんも、父さんも、いつも通りだった。
笑って、気遣って、どこにも“異変”は見えなかった。
――だからこそ、僕は結局、あのことを何も言えなかった。
あの写真のこと。
ブラウザ履歴も、LINEのログも、SNSのDMも、見たかぎりでは“怪しいやりとり”はなかった。
送信の痕跡もない。証拠は、何ひとつ見つからなかった。
きっと、本当にふざけて撮っただけ――
そう思い込もうとしている自分がいた。
「深く考えすぎたんだ」と、自分をなだめるように。
でも――
あの瞬間に胸の奥に残った違和感だけは、どうしても消せなかった。
画面の中で笑っていた“母さん”の裏に、
僕の知らない誰かが、確かにいた気がした。
それが誰なのかはわからない。
でも、あの笑みは、僕に向けられたものじゃない。
それが、ただの思い過ごしであってほしいと願いながら、
僕は電車に乗った。
窓の外には、夏が引きずるように流れていく。
遠ざかっていく家。
戻っていく自分の部屋。
そして、持って帰ってしまった、あの“写真”。
日常は何も変わっていない。
大学の講義、コンビニ飯、眠れない夜。
でも、ほんの少し、風景が違って見える。
そして、なぜか、ふと思った。
次は、秋の連休に帰ろう。
本当なら、わざわざ帰る必要なんてないはずだった。
予定もない。授業もある。友達も呼ぶかもしれない。
でも――それでも、帰ろうと思った。
理由なんて、なかったはずなのに。
いや――違う。
理由のない帰省に、理由ができてしまった。
そう思ったとき、自分の中の何かが、また一つ、静かに軋んだ。