それから数日、僕はまともに母さんの顔を見ることができなかった。
一緒に食卓を囲んでも、箸を動かす手ばかりを見ていた。
目が合うのが怖かった。――いや、本当は、目の奥に“あの母さん”の気配を見てしまいそうで怖かったのだ。
けれど、心の中にはどうしようもなく澱のような感情が積もっていった。
時間が経つほど、むしろ膨れ上がっていく。
「なぜなんだ」
「誰のためにあんなことを」
「本当に……自分の意思で?」
問いが頭の中を埋め尽くして、思考も呼吸もまともにできなくなりそうだった。
本当は、もう学校に戻らないといけない時期だった。
でも、こんな状態で、何事もなかったふりなんてできるわけがなかった。
「家庭の事情」とでも言えばいい――僕は自分に言い訳を重ねて、実家にとどまり続けた。
そして、夜が来た。
その日は父さんが出張で不在だった。
――チャンスは、訪れた。
母さんは、キッチンのシンクで食器を洗っていた。
その背中は、見慣れているはずなのに、今は遠くて、どこかよそよそしかった。
喉がカラカラに乾いていた。
言葉を発しようとした瞬間、体の芯がひどく冷たくなるのを感じた。
「……母さん、話がある」
母さんはピクリと肩を震わせて、振り返った。
驚いた顔だった。でもその目の奥に、何かを“察した”色が浮かんだ。
すぐに、顔が曇った。
リビングに移動した。
僕は震える手でスマホを取り出し、あのアプリを開く。
そして、母さんにそっと差し出した。
「……これ、どういうこと?」
一瞬、時間が止まったように感じた。
沈黙。
母さんの顔から、見る見るうちに血の気が引いていくのがわかった。
その手が小さく震えているのが、僕の視界の端で揺れていた。
「……見たの?」
母さんの声は、細く、かすれていた。
僕は、怒りとも悲しみともつかない声で返した。
「見た。……見たくて見たわけじゃない。けど、見てしまったんだ」
「写真も……メッセージも。全部」
「どうして、そんなことしてたの?」
母さんは、何も言わなかった。
目を伏せたまま、ただ黙っていた。
その沈黙が、僕には何より苦しかった。
母さんが、母さんでなくなってしまう音がしない崩壊――静かな絶望だった。
そして、長い沈黙のあと。
母さんは息を吸い、絞り出すように口を開いた。
「……実は……」
僕は息を呑んだ。
母さんは静かに、少しずつ話し始めた。
「あのマッチングアプリは……男の人とやり取りするとポイントが貰えるの。
そのポイントを貯めると……現金化できるのよ。」
僕は言葉が出なかった。
母さんは続けた。
「最初はね、ほんの遊び半分だったの。
まさかお金になるなんて知らなくて……でも、一度試してみたら……ほんとうにお金になるってわかって。
あなたの学費や下宿費のたしになるなら、って思ったの。
ほんとうに、そうだったのよ。」
僕は母さんの顔を見つめた。
言葉は続いた。
「でもね……だんだん褒められると、つい、嬉しくなってしまって……
気がついたら、大胆な写真まで送るようになってた。
自分でも……止めなきゃって思ってたのに……」
母さんの目からぽろりと涙がこぼれた。
「でも、不倫とか浮気なんて、そんな気持ちは全然なかったの。
誰とも会ったこともないし、会うつもりもなかった。
毎月……だいたい8万円くらいになるの。
それであなたのために、って……本当にそう思ってた。」
母さんは顔を両手で覆った。
「……傷つけてごめんなさい。ほんとうに、ごめんなさい……」
僕はその場に座ったまま、動けなかった。
心の中がぐちゃぐちゃだった。
怒り、悲しみ、困惑……でも、母さんは僕のためにやっていたとも言った。
その善意があったのは確かだった。でも、それでも。
僕はどうすればよかったのか、わからなかった。
母さんは顔を両手で覆い、声を殺して泣いていた。
僕は何も言えなかった。
怒るべきだったのか。責めるべきだったのか。
でも、目の前の母さんは、ただただ弱くて、苦しくて、それでも僕のために必死だった一人の女の人だった。
頭では、そんな言い訳通用しない、って思った。
でも……どうしても、そう思い切れなかった。
胸の奥が張り裂けそうだった。
今まで抑えていた感情が一気に溢れてきた。
僕のためにそんなことまでしないでほしかった。
でも、僕のためにしてくれていたのも事実だった。
「……バカだよ……そんなの……」
声が震えた。
気づいたら、涙がぼろぼろとこぼれていた。
「母さんがそんなこと……僕のためにそんなこと、するわけないだろ……。
俺、そんなの望んでないよ……」
嗚咽が止まらなかった。
母さんが顔を上げた。
その顔も涙でぐしゃぐしゃだった。
「……ごめんね……ほんとうに……ほんとうにごめんね……」
僕はもう我慢できなかった。
気づいたら、母さんに駆け寄っていた。
膝をついて、そのままぎゅっと抱きしめた。
「……もうやめて……やめてよ……母さん……お願いだから……」
母さんは僕の背中に手を回してきた。
二人とも声を上げて泣いていた。
親子なのに。
親子だから。
こんなふうにしかぶつかれなかった。
でも、この瞬間だけは、言葉はいらなかった。
母さんは僕の肩に顔を埋めて、何度も何度も「ごめんね」と繰り返していた。
僕はただ抱きしめ続けた。
涙が止まるまで、ずっと――。
⭐️「なんだ、この展開は」と思ったかもしれませんが、このお話は90%くらいはノンフィクションなのです。
マッチングアプリとか出会い系サイトは男だけが有料なのにはこんな裏があるわけで
女性たちにとってはポイ活にしか過ぎない面もあります。80000円というのは本当に母さんが一月に稼いでいた金額です。
スマホぽちぽちしてて80000ならいい副業ですよね。