翌朝、キッチンからカチャカチャと食器の音が聞こえてきた。
母さんは起きて、朝ごはんを作っているらしい。
僕はベッドの上でしばらく迷っていた。
行くべきか。
顔を合わせられるのか。
でも逃げたら、このままになってしまう気がして、ゆっくりと部屋を出た。
ダイニングに入ると、母さんはテーブルに朝食を並べているところだった。
僕の顔を見て、一瞬だけ手が止まった。
でも、すぐに何でもないふりをして言った。
「……おはよう」
声が少しだけかすれていた。
僕も、ぎこちなく返した。
「……おはよう」
その一言だけで、母さんはほっとしたように微笑んだ。
僕はその顔を見て、胸がきゅっと締めつけられた。
テーブルにつき、無言のまま箸を取る。
母さんは僕の皿に卵焼きをひとつ、そっとよそった。
その仕草がなんでもない日常のようで、
僕は不意に目頭が熱くなった。
でも泣きたくはなかった。
「……母さん」
声が自然と出た。
母さんは箸を止めて、僕を見た。
「……俺さ……別に……母さんが全部正しくなきゃいけないとは思ってない。
でも……無理は……しないでほしい。」
母さんの目に涙がにじんだ。
「……うん……ありがとう。ちゃんと考えるね。」
僕はそれ以上、何も言わなかった。
ただ黙って朝食を食べた。
卵焼きは、少し甘かった。
そして・・・
それから、数ヶ月が経った。
僕は冬物のコートを着て、実家の最寄駅に降り立った。
久しぶりの帰省だった。
正直、少し怖かった。でもそれ以上に、会いたい気持ちが勝っていた。
玄関の扉を開けると、母さんが出迎えてくれた。
「おかえり。寒かったでしょう?」
その声は変わっていなかった。
でも、どこか少し、柔らかくなったような気もした。
僕は靴を脱ぎながら、母さんの横顔をちらりと見た。
あの一件のあと、母さんはアプリを削除したと言っていた。
僕は信じることにした。
完全に消えたわけではないかもしれない。
でも、それでもいい。
僕も母さんも、完璧ではない。
きっとまた、間違えるかもしれない。
でも、そのたびに向き合えばいい。
リビングに入ると、テーブルの上にはささやかな料理が並んでいた。
僕の好物のグラタンもある。
母さんは笑って言った。
「ちょっと頑張って作ったの。……下手なりにね。」
僕はふっと笑った。
「……ありがとう。食べるよ。」
二人で食卓についた。
テレビの音がかすかに流れている。
以前のような気まずさは、もうなかった。
いや、完全に消えたわけじゃない。
でも、それはもう、僕たちの間に共通の「記憶」として静かに存在しているだけだった。
僕はふと、母さんの方を見た。
母さんもこちらを見て、にこっと笑った。
その笑顔を見て、僕は思った。
「ああ、母さんは母さんなんだ。
弱さも、間違いも、全部ひっくるめて、それでも僕の母さんなんだ。」
もう、抱きしめることはできないかもしれない。
でも、こうして同じ食卓を囲むことで、少しずつ歩き直せばいい。
僕は箸を進めた。
少し甘めの卵焼きが、やっぱり変わらない味だった。
エピローグ
あの冬の日の食卓から、また季節が巡ろうとしている。
今も、ときどき思い出す。
あの写真のことも、母さんの涙も、僕のどうしようもない混乱も。
でも、今はこう思う。
誰だって完璧じゃない。
だからこそ、一緒にいようと思うんだ。
許せるわけじゃなくて、受け止めていくために。
母さんはきっと、これからも母さんで、ひとりの女でもあるんだろう。
僕もそれを少しだけ、理解できるようになった。
また明日から、それぞれの日々が続いていく。
でもきっと、少しだけ前よりも自然に笑える。
そう思いながら、僕は駅へ向かう帰り道を歩いていた。
空は高く澄んで、冬の光が静かに街を包んでいた。