立ち込める湯気越しに、着替えている彼女の後ろ姿を、男はぼんやりと眺めていた。
「私のシャツ着る?」
ラフな服に身を包んだ彼女は徐に振り返り、大きめのシャツを差し出してくる。
「ありがとう。食べ終わったらスーツ着直して戻るから大丈夫だよ」
「おっけい」
シャツをタンスに仕舞うと、湿った髪をふわりと揺らしながらテーブルについた。
「先に食べてていいのに」
「作ってくれた家主より先に食べるのもね」
「ふふ、ありがと」
彼女は小さく笑みを浮かべた。
「じゃあ、いただきまーす」
「いただきます」
二人で手を合わせて軽く頭を下げる。
女はトーストの表面にざりざりとバターを塗り、男はかちゃかちゃと皿に盛られたスクランブルエッグに舌鼓を打つ。
塗り終わると、何も言わず彼の前にバターをことんと起き、男もそれを手に取って表面に塗り始める。
彼女はうきうきとしたような表情でその上からジャムを塗って、再び無言でその瓶を彼に差し出す。男もまたそれに続いた。
サクッ、とトーストに齧り付く音が響く。
「んーー!」
女はなんとも言えない声を発しながら、口元を緩ませテーブルの下の足をぱたぱたと揺らす。
彼女のそんな姿を見ながら、男も同じ音を響かせた。特に声は発さなかったが、香りを堪能するかのように小さくため息をつきながら、幸せそうな表情を浮かべる。
言葉のない食卓に、トーストと皿の音だけが、静かに寄り添っていた。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
揃ってもう一度手を合わせて、空の皿に小さく頭を下げる。
ふう、と二人はほぼ同時に息を漏らしながら、椅子にもたれかかった。
外から鳥たちの戯れる声が聞こえてくる。しばらく二人は、ぽーっと空間を見つめていた。
「帰って寝ようかな」
沈黙を破ったのは男の方だった。
「私も寝よう。お腹いっぱいで眠くなってきちゃった」
「ね。このまま寝ちゃいそうだった」
「ほんと。いい感じに静か」
そういってどちらともなく立ち上がると、それぞれ食器を手に取って流しへと運んでいく。
キッチンの前で肩を並べる二人。ふと身体を向け合うと、まるで示し合わせたかのように、何も言わずにぎゅっと身を寄せ合った。
再び訪れる静かな時間――温もりが触れ合う中、微かに身体を左右に揺らす。それはまるで、音のないダンスのようで、互いの心地よい匂いに包まれながら、二人の世界がやわらかな色彩に満たされていった。
突然、女が彼の顔を見上げ、いまにも瞼が閉じてしまいそうな目をしながら口を開く。
「立ったまま寝ちゃいそう」
男もまた、同じような目をしながら答えた。
「…俺も。さすがにまずい」
そっと身を離すと、名残惜しそうにどちらも小さく肩を落とす。とはいえ二人とも、既に意識が浮いているような感覚になっていた。
ふと、男が彼女の肩越しに見えるシングルベッドにちらと目を向ける。しかし、すぐに向き直ると、「服着てくる」と洗面所へと去ってしまった。
女は立ち尽くしたまま、まどろんだ目でいつも自分が寝ているベッドを見つめる。その視線は、静かに何かを問いかけているようだった。
「今日は迷惑かけてごめん」
玄関先で男がぽつりと漏らす。
「気にしないで。むしろ、その…ありがとう」
そう告げる女の頬は、仄かに朱に染まっていた。
「そんな、こちらこそありがとう。また、連絡してもいい?」
「もちろん。待ってるね」
「よかった。じゃあまた」
「うん、またね」
二人はふわりと顔を綻ばせながら、軽く手を振り合う。
「あ、そうだ!」
ドアノブに手をかけた所で突然彼女が呼び止めた。
「今度おっきいベッド買っておくね?」
突然の一言に男の頭は一瞬フリーズする。しかし、すぐにその言葉の意味を理解して、みるみる顔を耳まで真っ赤にさせていった。
「そ、そこまでしなくていいのに」
「いいんだよ。私がそうしたいんだから」
彼女はふふん、と得意げに笑っていた。その顔はほんのりと朱く染まったまま。
男は観念したかのようにがくりと頭を垂らす。が、またすぐに向き直る。
「じゃあ…また今度、ね」
「うん!また今度」
太陽のように燦々とした笑顔で頷く彼女に男は、敵わないな…と、はにかんだ笑みをみせた。
玄関を出ると、外の喧騒が耳をついた。何気なく、その箱庭のような街を見下ろしてみる。
同じ方向へと流れていく人たち。こんなに空は青く清々しいのに、その人たちの影はなんとなく薄く感じてしまう。
――自分もあの中に、一際影を薄くしながら紛れていたのかな。
そんなことを考え、ふふっと笑みを溢すと、暖かいそよ風に後押しされるように、男は自分の住処へと帰っていった。
彩られた心が、また色褪せてしまわぬよう、密かな願いを抱きながら――。