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翌朝。ぼんやりとした視界に、見慣れない天井が映る。
新生活が始まって初めての朝……なんだか、泊まりの旅行で目を覚ましたときのような非日常感を覚えつつ、僕はよろよろと体を起こした。
「何時だろ……」
今日は大学もバイトも休みだから一日中だってゴロゴロしていられる。ただ、体内時計というのはちょっとやそっとじゃ狂わないらしく、枕元のスマホを見やると時刻は『6:30』を示していた。
「――あれ?」
と、そこで気づく。僕の隣にも、寝室の中にも、ハルの姿が見当たらない。
リビングにいるのだろうか。そう思い、僕はベッドから立ち上がり、大きく伸びをした。関節をポキポキと鳴らしながら寝室をあとにして、リビングまでの通路を歩く。
その途中で、「なんでぇっ……」という涙声が耳に入る。そして同時に、
「うっ……」
鼻を突くほどの異臭が僕を襲った。焦げたような、苦い匂いだ。
駆け足でリビングに向かうと、私服にエプロンをつけたハルが、真新しいキッチンの床にへたり込んでいた。
「ハル?」
声をかけながらハルの傍らに歩み寄る。
IHコンロの上には新品のフライパンが置かれ、その上には焼け焦げたハムエッグが無残に黒ずんでいた。異臭の正体はこれか。
「あっ。おはよう、ショウタくん。もしかして起こしちゃった?」
「普通に目が覚めただけだよ。それよりどうしたのさ、朝から」
「ショウタくんに朝ご飯作ってあげようと思って……近くのコンビニで卵とハムとパン買ってきたんだけど……」
床にへたり込んだまま、ハルは人差し指の先端を上に向ける。
「黄身が全然固まらなくて、ずっと焼いてたら他が全部焦げちゃって……」
ハムと白身はほとんどが炭化し、黄身だけが原型を残した歪な状態だ。見たところ油も引かれていなかった。
完璧超人に見えるハルだけど、料理に関しては意外とポンコツらしい。
「こんなことなら、出来合いの物買えば良かったよ……」
その場から立ち上がるも、ハルは依然としてしょんぼりしていた。
たしかに一般的には失敗作と称される品だと思う。ただそれは、僕のためを思ってハルが作ってくれた物で、だったら、僕にとっては至高の一品に違いなかった。
IHコンロの前に近づき、調理に使っていたであろう割り箸を手に取る。
「ショウタくん……?」
焦げていようとも、僕のために作ってくれた物なら喜んで食べるのが義理というもの。
焦げたハムエッグを、僕は丸ごと口に含む。
「ちょ!? いいよ! 無理して食べなくて!」
ハルが慌てて腕に寄りかかってくるけど、すでに咀嚼済みだった。塩コショウも加えられていないため、ほとんど苦味しかない。
ただまあ……ハルの気持ちが詰まっていると思えば、不思議と悪くない味に感じられた。それを飲み込んだあと、僕は笑顔で告げる。
「ご馳走様。ありがとね、ハル」
ハルを元気づけようと頭をそっと撫でる――って、僕はなにしてるんだ!?
付き合ってるとはいえハルは年上だ。年下の僕にこんなことされたら嫌がるんじゃ……と、一瞬焦ったけど、それは杞憂だった。
「んふふぅ……」
まるで猫がすり寄るように頭を振って、ハルは心地良さそうに目を細めている。
「ショウタくん、優しいね」
「これぐらい普通だよ。ただ気持ちは嬉しいけど、料理は僕にやらせてよ。料理っていうか、家事全般は僕に任せて欲しいな」
「いいの? ショウタくん、大学とバイトで忙しいでしょ?」
「大丈夫。ていうか、生活費を負担してもらってるんだから、それぐらいはして当然だよ」
「そう?」
「うん。だから任せて」
「助かるなぁ。実は私、家事とかすごい苦手で……」
ハルは恥ずかしそうに頬を掻く。
「江崎さんに――お母さんによく怒られてそうだね」
「しょっちゅうだよ。でもまあ、同棲始めちゃえばこっちのもの!」
胸元を押しつけるように、ハルは僕との距離を詰めた。
「お金は私が、家事はショウタくんが。うんうん、本格的に共同生活みたいで気分上がるね!」
「僕からしてみれば、かなりおんぶにだっこだけどね……本当にお金大丈夫? ハルと一緒なら、僕はこんな高い場所じゃなくてもいいんだけど」
「お金は使わないと紙のままなんだよ? ショウタくんと色んなことするためのお金、子供ができたとき用のお金、老後のお金――それ差し引いても、ぜーんぜん余るんだもん」
指折り数えながらハルはそう語る。一体いくら貯金があるのだろう。いや、わざわざ聞いたりしないけども。
「だから気にしない気にしなーい」
「わわっ……」
朝からボディタッチとスキンシップが激しくて、ちょっと面映ゆくなってしまう。ただ、それを嬉しく思う自分がいるのもまた事実だった。
ハルと一緒なら、僕は充実した毎日を送れるような気がする。
「とりあえず、今日の朝は出来合いの物を食べよっか。それか一緒に喫茶店とか?」
「デート! あっ、でも……」
何気なく提案すると、ハルは一瞬舞い上がって、しかしすぐに俯いてしまった。
「ごめんね、一緒に外を歩けるのはもうちょい先になりそうかも……引退したばかりだから、ショウタくんのことはバレないようにしろってお母さんがうるさくて……」
「ああ……」
それはその通りだ。ハルは別にガチ恋営業なんてしてはいなかったけど、ハルにその気はなくてもファンが一方的に想いを募らせることはある。
引退して間もないし、僕の存在は――つまり、彼氏の存在はかなり慎重に扱うべきだろう。人気とか影響力が落ちるという話ではなく、もっと切実な問題として、ハルの身が危険に晒されるかもしれない。
「そうだね。ごめん、僕が迂闊だったよ」
「謝らなくていいよ! 私側の問題なんだから……いつか絶対デートしようね」
ハルの瞳が悲しげに揺れる。
この窮屈さを歯痒く思うことはあるけれど、ハルと同じ時間を共有できるだけで僕は十分幸せだ。いつか堂々とデートする日を楽しみにしつつ、今はこの幸せを享受しよう。
暗い雰囲気を断ち切るように、僕は笑顔を作った。
「よし! じゃあ、僕が朝ご飯買ってくるよ」
「ごめんね……」
「ハル」
しょげているハルの肩に手を置いて、真っ直ぐその目を見つめる。
「ハルの方こそ謝らないでよ。一緒にいられるだけで、本当に夢が叶ったぐらい幸せなんだから」
「ショウタくん……!」
感極まったようにハルの目に光が戻り、途端、勢い良く抱き着かれる。うわっ、と声が出そうになるのを堪えて、僕はその衝撃を受け止めた。
「大好き!」
ハルの背中にそっと腕を回し、優しく内側に抱き寄せる。
そうして僕たちの同棲生活は幕を開けた。