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結局、ハルに少し遅れる旨をメッセージで伝え、僕は彼女の誘いに乗ることにした。
ハルに関するきな臭い噂――なにか特別な情報を握っているかのような口ぶりだったので、その好奇心には逆らえなかった。
それに、もしかしたらその噂というのは、僕にとって他人事では済まないかもしれない。要するに、彼氏の存在が知らずうちに知れ渡っているかもしれないという可能性だ。
それを考えると、やはり放置するわけにはいかなかった。
「お酒飲めないなら――あそこのファストフード店にでも入りましょ」
そう言って彼女は、駅前の大通りに面するファストフード店を指差した。
「わかりました」
――店内は、制服姿の学生を中心にかなり賑わっていた。
注文待ちの列に並ぶと、彼女は得意げに口を開く。
「あんたはなに食べる? 無理に誘っちゃったし、私が奢ってあげるわよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて……ウーロン茶をお願いします」
「なに食べるかって聞いたんだけど。それで足りんの?」
「いえ、飲み物だけで結構です。夜ご飯は、帰ってから彼女と一緒に食べるので」
「惚気ちゃって。まあいいわ、あんたの彼女に恨まれるのも御免だし、ウーロン茶ね」
「お願いします」
ふと、同棲しているのがハルだとバレたら、この人はどんな反応をするのだろうと気になった。いや、口が裂けても言えないけれども。
「――――」
注文を終え、僕たちは窓際のテーブル席に向かい合って腰を下ろす。プラスチックトレイの上には、彼女が頼んだポテトとハンバーガー、そしてお互いの飲み物が置かれていた。
「うい」と、ウーロン茶を渡され、受け取った僕はストローを刺してちびちびと先端を吸う。
乾いた喉を潤してから、僕はさっそく本題に切り込んだ。
「それで、ハルの噂というのは……?」
たぶん、僕の声には不安が滲んでいたと思う。
休止中したとはいえ、ハルは多くのファンを持つ存在だ。僕との関係が公になれば、どんな影響が及ぶか想像もつかない。
ストローでコーラを一口啜ると、彼女はまるで値踏みするかのように僕の顔をじっと見つめた。
「あんた、先月ハルが休止宣言したことは知ってるわよね? アリーナライブの最後に、突然発表したやつ」
「ええ。僕は現地にいましたし」
「もちろん私もいたわよ!」
「いちいち張り合わないでくださいよ……」
ハンバーガーの包みを解きながら、彼女は「さておき」と話を戻した。
「本当はあの引退宣言のあとも、ハルはたくさんの仕事を抱えてたらしいのよ。それも、かなり大きなプロジェクトをいくつもね。有名アーティストとのコラボとか、海外進出の話まであったらしいわよ」
初耳だ。ハルがそんな重要な仕事を抱えていたなんて。
「でもハルは、関係者にほとんど話を通さず、あの日突然、一方的に引退宣言をしちゃったみたい。だから、業界じゃちょっとした騒ぎになってるのよ」
「…………」
「一体なにがあったんだって、みんな首を傾げてる。なにか、よっぽどのっぴきならない事情があったんじゃないかってね」
「…………」
返す言葉を失う。
関係者に話を通さず?
ハルがそんな無責任なことをするだろうか。江崎さんだっているし、娘の信用が堕ちる真似をわざわざ容認するとは思えない。
あるいは、この人の言うように、僕の知らないところで本当にのっぴきならない『なにか』があったのだろうか。
「色んな噂が飛び交ってるわよ。詐欺に遭って莫大な借金を背負わされたとか、それで海外に身売りされたとか」
「そんなこと……!」
思わず立ち上がり、声を荒げてしまう。何事かと、辺りのお客さんから一斉に視線を向けられる。
「落ち着きなさいって。あくまでただの噂だし、私だってそんなの信じてない」
「すみません……」
肩を縮めながら座り直し、気を落ち着かせるようにウーロン茶を啜る。
「まあそんな感じで、あることないこと言われてるわけよ。ハルの純粋さを知ってる私からしたら、本当に腹立たしい限りだけど」
「同感です」
「ただ、そういう悪い噂は論外として、実は妊娠しちゃったとかは、私の見立てだとありそうなのよねぇ……」
ストローを口に含み、彼女は窓からの景色をこともなげに一瞥する。窓の外には夜の往来が広がっていた。
「あんたはどう思う?」
「どうって……」
「ハルを誰よりも早くから応援してきたあんたなら、なにか特別な情報を掴んでるんじゃないかと思ってね」
話を聞く立場のはずなのに、いつの間にか尋問されているような気分になった。後ろめたいことがあるだけに、探られるような視線が針のように突き刺さる。
ハルの休止理由は僕も気になるところだ。一応もしかして、という疑念程度の可能性は頭に浮かんでいるけど、その理由は自意識過剰な気もするし、なによりこの人相手に言えるようなことじゃない。
不審がられないよう、せいぜい僕は平静を装って言った。
「僕にはなにも……会員ナンバーが1番だったってだけで、ハルにとって僕は、大勢いるファンの中のひとりに過ぎませんし……」
嘘は苦手だ。上手く誤魔化せただろうか。
「ふーん……、そう。まっ、そりゃそうよね」
ふっと息を吐き出すと、彼女は背もたれに体を預けた。少しだけ残念そうな声色でこう続ける。
「あんたならもしかして、私の知らないなにかを握ってるんじゃないかって期待したんだけど……普通に一般人だもんね」
親切心とか言っていたけど、この人は僕から情報を引き出そうとしていたのかもしれない。
とりあえず、ハルとの同棲は悟られずに済んだらしい。ただ、それとは別に新しい疑問が湧く。
どうしてこの人が、ハルの身辺情報を知っているのか、だ。
「……ところで、どうしてあなたが業界の内部事情みたいな話を知ってるんですか? いちファンっていうなら、僕だけじゃなくてあなたも同じでしょうし」
タイアップとか海外進出とか具体的な話をしていたし、口から出任せを言っているわけではなさそうだ。
疑問をぶつけると、彼女は虚を突かれたような顔をした。しかしすぐに、なにかを誇示するような不敵な表情に戻る。
「ふふーん。私はあんたと違って、消費するばかりのオタクじゃないってことよ」
「どういう意味ですか?」
どこかのメディア関係者とかなのかな。それとも、ファンクラブの中に有識者がいて、その人と深く繋がっているとか?
僕は基本的にソロでハルを応援していたから、そういったファン同士の繋がりには疎い。
「私には私なりの情報網があるってことよ。これを見なさい!」
自慢げな声と共にテーブルに差し出されたのは彼女のスマホだ。見ろというので遠慮なく画面を覗くと、そこにはSNSアカウントが表示されていた。
フォロワー数は約1万人。名前はKYO子@歌い手。
「誰ですかこれ?」
「私のSNSよ!」
「え!?」
1万人――それは僕のような一般人にとっては途轍もない数字だ。ハルほどではないにしても、これはもう立派なインフルエンサーの領域なのではないか。
「驚いた? 改めて、初めましてと言っておこうかしらね。私は歌い手のKYO子!」
「びっくりしました……まさか活動者だったなんて……」
「ハルに憧れてこの世界に入ったのよ。私もあの子みたいに、誰かの特別になりたくてね」
「へえ……」
改めてハルの影響力の強さを思い知らされる。ハルの存在は、誰かの人生を大きく変えるほどの力を持っている。
きっとこのKYO子さんのように、ハルに影響を受けて新たな一歩を踏み出した人は大勢いるに違いない。そして僕自身も、ハルに出会って人生を変えてもらったそのうちのひとりだった。
「だから、友達や取引先の人から業界の裏話がちょいちょい耳に入ってくるわけよ」
なるほど、そうしてハルの噂に話が繋がるわけか。
「世の中の人間がみんな、私たちみたいにハルを純粋に好いてるわけじゃないのよね……妬み嫉みが転じて悪意に変わることもあるし、実際に私は何度もそれを見聞きしてきた」
KYO子さんの表情に陰りが宿る。魅せる側に立ってこそわかる意見なんだろう。
見る側と見られる側。僕のような表面上しか知り得ない人間にとっては、あちら側に立っている人の内面を推し量ることは難しい。とりわけ人は体裁を取り繕う生き物だから。
しかし、どうしてあの人ばっかり――という嫉妬があろうことは容易に想像できる。
「仕方ないことなんでしょうね。誰からも好かれるなんて土台無理な話ですし」
「別に心の中で思うだけなら勝手だけどさ、それを現実に持ち出すやつは害でしかないわよ。だから私はハルの悪評を聞かされるたびに否定してる! あの子はそんな子じゃないってね!」
握り拳を作り、KYO子さんは明るいトーンで力説する。
「いつかハルとコラボして、直接お礼を言うのが私の夢なんだ。ハルのおかげで私は救われたんだって、ハルがいなかったら今の私は絶対になかったって、ちゃんと伝えたい」
KYO子さんの目が遠くを見つめるように熱を帯びる。ここまで屈託なく意思を表明できるのは、彼女の長所と呼んでいい部分だろう。
馬が合わなさそうだと思っていたけど、ハルへの気持ちは本物らしい。僕は少しだけ親近感を覚えていた。
「叶うといいですね、その夢」
「なんか嫌味ったらしい言い方ね」
「本心ですって」
本当に。
「けどまっ、ハルとコラボするならせめて10万人ぐらいはフォロワー欲しいわよね……うーん、道は長い……」
「ハルは数字でコラボする相手を決めたりしないと思いますけど」
「知ってるわよそんなこと。ただ私が嫌なのよ。推しと会うときはなるべく自分を良く見せたい!」
それもそうか。好きな人に少しでも良く思われたい、それは男女問わず共通の感情だろう。
店内の喧騒は相変わらずで、学生たちの笑い声が背後から途切れることなく聞こえてくる。
「――さてと。あんまり引き留めるのも悪いし、この辺でお開きにしましょうか」
そう言って、KYO子さんは鞄から名刺サイズのカードを取り出した。テーブルの上に滑らせるように置かれたそれには、SNSのハンドルネームとメールアドレスが印刷されている。
「なにかあったら連絡しなさい」
「はあ?」
思わず間の抜けた声が漏れる。仮になにかあったとして、この人を頼りにすることがあるのだろうか。
「縁は大切にしないと。将来なにが役に立つかわからないんだから」
カードの端をちょんと弾くKYO子さん。必要になる未来が見えないけど、受け取らないのも失礼に当たると思い、僕はそっと名刺を手に取った。
「ありがとうございます」
「せいぜい彼女を大事にしなさいよ。じゃあね、もやし君」
軽口を吐くと、KYO子さんは食べかけのポテトを手に席を立ち、颯爽と店内をあとにしていく。その後ろ姿を、見えなくなるまでぼんやりと眺める。
「なんだったんだ、あの人……」
……嵐のような人だと、つくづく僕は思った。