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駅前の雑踏を歩きながら、僕はひとり先ほどの出来事を反芻していた。ハルの悪い噂、それが思考の隅にこびりついて離れない。
詐欺、身売り、妊娠――僕の知る限り、そのどれもが単なる出鱈目に過ぎないけれど、では事実がなんなのかと聞かれると、僕はその答えを持ち合わせていない。
「――――」
取り留めのない思考を繰り返していると、知らずうちにマンションのエントランスまで辿り着いていた。
答えのわからないことを考えても仕方ない。KYO子さんから聞いた話は忘れよう。ハルにこの不安を悟られるわけにはいかないから。
事情はわからないけど、なんにせよ、休止にまつわることはすべて終わった話なのだ。僕が詮索をして、万が一にもその噂がハルの耳に入ってしまえば、余計な不安を抱かせることになってしまう。
ハルに傷ついて欲しくはない。どんな事情があるにせよ、ハルが選択した結果が今なのだから、僕はそれを尊重しようと思う。
エントランスを抜けて、エレベーターで上に向かう。
時刻はすでに19時だ。ハルがお腹を空かせて待っている。目的の階に到着したら足早に廊下を進み、僕はカードキーで鍵を開けて中に入る。
「ただいまー」
玄関で声を張り上げると、リビングの方から忙しない足音が鳴って、
「ショウタくん! おかえりっ!」
扉の開閉と同時に、満面の笑みを浮かべたハルが駆け足で玄関に来た。そして、まるで大型犬が飼い主にじゃれつくみたいに勢い良く抱き着かれる。その衝撃で、持っていた鞄が手から滑り落ちた。
「わわっ! ハ……、ハル、そんなに飛びかかられたら危ないって!」
「気にしない気にしない! 今日も一日お疲れ様!」
本当に犬みたいで、尻尾をブンブン振っているのが目に浮かぶようだった。
「バイト休みなのに、今日はちょっと遅かったね」
「駅前で知り合いに会ってさ。それで話が長引いちゃって」
「知り合い? もしかして、女の子……?」
僕の胸に顔を埋めていたハルが、おそるおそるといった感じで上目遣いになる。少しだけ寄せられた眉が、僕には不安げに見えた。
「あー、うん……そうだけど、昔会っただけの知り合いだよ」
「ふーん……なんだか妬けちゃうな」
「そういうのじゃないって」
「本当?」
「本当。ハル以外の女の子なんて眼中ないよ」
「――――」
数秒ほど、真意を推し量るようにハルは僕の目を見つめると、
「ならいいけど! それよりご飯だね! もうお腹ペコペコ!」
いつもの太陽みたいな笑顔に表情を戻した。この切り替えの早さもハルらしい。
「ご飯♪ ご飯♪ ショウタくんのごっ飯〜♪」
僕の腕をぐいぐいと引きながら、楽しげな鼻歌を奏でるハル。僕も導かれるままに、リビングへと足を運ぶ。
「今晩の献立は? まあ、ショウタ君が作るご飯ならなんでも美味しいと思うけど」
「今日は肉じゃが作ろうかなって」
「肉じゃが! 私の大好物だよ!」
その場でぴょんぴょんと飛び跳ねてハルは喜びを体現する。無邪気な姿に、僕の口元も自然と緩んでいた。
「美味しいもんね、肉じゃが」
「私も作るの手伝うよ!」
「あぁ……」
得意げに胸を張るハルに、僕はなんて返そうか言葉に迷う。
これまでも何度かお手伝いをしてもらった。ただ、ハルはそのことごとくで失敗していた。火加減を見てもらっていたらお湯が吹きこぼれたり、味付けを任せたらとんでもない濃口になったり――おっちょこちょいなところもチャーミングではあるけど、料理は基本的に僕が担当した方がいい。
しかし、せっかくの申し出を拒絶するのはバツが悪い。
「そうだね。それじゃあ、ハルには野菜の皮を剥いてもらおうかな」
当たり障りのない工程をお願いする。包丁じゃなくてピーラーなら失敗することもないだろう。
「了解! 任せて」
荷物をリビングに置いて、ハルとキッチンに並ぶ。
手を洗い、冷蔵庫から食材を取り出して、皮剥きが必要な野菜をハルに渡す。
「お願いね」
「うん!」
ハルが作業している間に、僕はお米を研いで炊飯の準備を整える。スイッチを入れれば、あとは炊き上がりを待つだけ。
冷凍してあるお肉をレンジで解凍して、僕は再びハルの横に立つ。
「おっ、いい感じにできてるね。さすがハル」
「これぐらい楽勝だよ!」
まな板の上には、綺麗に皮が剥けた人参が乗っていた。この調子ならじゃがいもの方も問題ないだろう。
人参を乱切りにして、ボウルの中に入れる。ハルから僕へ、僕からボウルへ、分担作業で下準備を進めていく。そうしてあっという間に野菜を切り終える。
「ハルはお皿用意しといて。あとは僕がやっとくから」
「いいの?」
「うん。手伝ってくれてありがとね」
ここから先は僕の仕事だ。あんまり手伝われても、諸々のお金を負担してもらっている手前、罪悪感が勝ってしまう。
「はーい!」
ハルもそれを理解してくれているのか、変に意地になることもなくリビングに戻っていった。
じゃがいも、玉ねぎ、最後に牛肉を切り終わったら、鍋の中に油を引く。肉にさっと火を通したあと、野菜を投入して全体を炒めていく。
ひと通り火が通ったら水を入れ、沸騰したところで醤油、みりん、砂糖、料理酒を加える。あとはグツグツ煮込んで適度にアクを取るだけだ。
「いい匂ーい!」
カウンターから顔を覗かせて、クンクンと子犬のように鼻を鳴らすハル。醬油みりん料理酒の組み合わせは和風の定番だし、日本人でこの匂いが嫌いな人はまずいないだろう。
「味見は任せて!」
「はいはい。じゃがいもが煮えたらね」
苦笑交じりに応じて、僕は次の料理に移る。
朝作った味噌汁がまだ残っていたので、汁物はそれでいいとして。あとはサラダと、なにかもう一品欲しいところだ。
冷蔵庫の中を物色するとこんにゃくが目についたので、余った人参と合わせてきんぴらでも作ろうと思う。
――炊飯器が炊き上がりを知らせる頃には、夕飯のメニューが食卓に並んでいた。肉じゃがにきんぴら、味噌汁にサラダ。
「美味しそう~! 早く食べよ!」
僕がなにを作ってもハルは喜んでくれる。これだから、ご飯を作るのが楽しみで仕方ない。
「ご飯よそうね」
満たされた気分を味わいながら、炊き立ての白米を茶碗に入れる。お互い向かい合って椅子に座り、同時に手を合わせる。
「「いただきます!」」
最近では食事の挨拶も、自然と重なるようになっていた。
ハルの箸が真っ先にお肉に伸びる。僕はその様子を窺いながら味噌汁を一口。うん、いい味だ。
「ん~! 美味しい!」
ハルはご満悦の様子で、お肉を食べるとすぐに白米を口に運ぶ。
「やっぱりショウタくんのご飯は最高だね! いつも作ってくれてありがと!」
「ハルが喜んでくれるなら一生だって作るよ」
「一生!」
自然とこぼれた単語を、ハルは歓喜しながら拾った。
「今のはプロポーズってことでいいのかな!?」
「ちょっと飛躍し過ぎじゃない……?」
「私はいつでも準備できてるからね♡ プロポーズを受ける準備♡」
そうなのか……。
プロポーズとなるとまずは結婚指輪だろうけど……うーむ、現状の懐事情では購入するのは難しい。結婚式も挙げたいし、課題は山積みだ。こればかりはさすがにハルのお金を当てにするわけにはいかない。
「結構待たせることになっちゃうかも……ちゃんと就職できたらそのときにはね」
「ショウタくんは大学1年生だから……、何事もなければあと3年ぐらいか。待ち遠しいなぁ……」
遠い目で虚空を見つめると、ハルは視線の先を僕へと移した。
「ショウタくんに嫌われないよう頑張るねっ」
「いやいや、それはこっちの台詞だよ……」
僕がハルを嫌いになることは絶対にあり得ないけど、ハルが僕に愛想を尽かす可能性は十分にあり得る。
今の状況は奇跡に等しい。こんな夢のような生活が果たして4年も続くのだろうか……。
そんな、ちょっとした不安を抱いていると、目の前にじゃがいもが差し出された。
「ショウタくん! これ、あーんしてあげる!」
「え?」
突然の提案に僕は少し面食らう。
「いや、さすがに恥ずかしいっていうか」
「誰も見てないよ?」
「でも」
「いいのいいの! 恋人同士なんだから! はい、あーん!」
その勢いに押され、僕は照れながら口を開く。人前だったら絶対にできないけど、ふたりきりの食卓ならまあ……。
「……あーん」
出汁の風味と穀物の甘味。自分で作った物ながら、ハルに食べさせてもらうとまた格別だ。
じゃがいもを咀嚼していると、僕の顔をじっと見つめてハルは言った。
「私は絶対、ショウタくんを嫌いになったりしないよ。それだけは絶対の絶対、本当だから」
さっきの話の続きだろうか。それを伝えたくて「あーん」を決行したのなら可愛らしいことこの上ない。
ただ――今まで明るさ一辺倒だった笑みが、その瞬間だけ儚さを帯びた微笑に変わったのが少し気になった。
「ハル?」
「さっ、ご飯ご飯!」
なんだろうと思って呼びかけたときには、ハルはいつもの笑顔に戻っていた。