がばりと体を起こす。
さっきまで自分がなにをしていたかわからない。
……いや、それどころか、私は誰だ?
手のひらを見る。透き通るように白く、美しい手だ。
不思議と、これが自分のものとは思えない。
自分は地面に横たわっていたようだ。
周りを見渡すと、うっそうと生い茂る森が広がっている。
それからたくさんの死体も。
もう一度自分の手を見た。相変わらず真っ白な手だ。
血にはまみれていない。ここにいる人間を虐殺したのは、自分ではなさそうだ。
体のどこも痛くない。
なぜ自分だけ無事なのだろう?
痛覚がないだけで、怪我はしているのか?
なんとなしに頭に触ると、異物があった。
ぎょっとしてすぐに手を放す。
なんだこれ? 髪以外のなにかが、頭の上にある。
自分の姿を確認できるもの――鏡はなさそうだ。
水場を探そう。私は鼻をすんすん鳴らし、水のにおいがする方へ歩き始めた。
歩きながら不思議に思う。
水のにおいなんて、普通わかるものだろうか。
それも、自分が起きた場所は死体まみれだった。
未だ腐臭はしないが、血のにおいが満ちている。
水のにおい、と思うこれは本当にそうなのだろうか。
獣道にすらなっていない、草木を無理矢理かきわけて、最短距離でたどりついたのは、川だった。
覗きこむと、それは透き通った綺麗な水だった。
喉の渇きを自覚する。だが、生水というのは迂闊に飲むと腹を壊すという。
なぜこんなことは覚えているんだろう、と不思議だったが、水面に映った自分の姿に、その疑問は吹き飛んだ。
白い髪をした女だ。幼げに見える。
瞳は大きく、瞳孔はピンク色で、かわいらしい。
頭の上には、大きな耳が生えていた。うさぎのような形だ。
自分の頭の上に手を伸ばす。水面の少女も同じ動きをした。
手にふわふわとしたものが触れる。触れられた感触もある。
これは自分の耳らしい。
そんなわけなくないか? という疑問が沸き上がる。
自分が何者かも覚えていないのに、なぜだか、自分にはこんなもの生えていなかった、という確信だけがあった。
うーん?
首を傾けると、水面の少女も同じく傾いた。
きょとんとした表情をしている。かわいい。
とにかく、これが自分らしい。
あまり納得できないのはなぜだろう。違う、という感覚がある。
だとして、どうすればいいんだろう。
とりあえず喉が渇いた。両手で川の水をすくう。
「飲んだら腹壊すよ?」
「ぴゃっ」
突然の声に驚いて、飲もうとして口元に運んでいた水を胸元にこぼしてしまった。
服がびしょびしょだ。そういえば自分って服着てたんだなあ。
しばらく呆然と濡れた服を見てしまったが、そんなことをしている場合ではない。
人だ。生きている人に声をかけられている。
「ごめんごめん、驚かせちゃった?」
「だ、ど、どちらさまですか?」
「通りすがりの行商人です、どうも」
三十路はすぎているだろう男性だ。
麦色の髪は日焼けでところどころ色が抜けたように淡く、後ろで軽く結んでいるようだ。
口元にはうっすらと髭が生えている。
私は慌てて立ち上がり、大声で懇願した。
「私迷子なのですが! なにかこう、人里のような場所に連れて行っていただくことは可能でしょうか!」
「迷子か~。そりゃ災難だったね。こっから歩いて街に行くまで、9日くらいかかるんじゃない?」
「……あのう、私にできることならなんでもします。助けていただけないでしょうか」
自力で人里にたどり着くのは不可能そうだ。
まっすぐ行って9日なのであれば、迷いながらではもっとかかるだろう。
その間、食べ物や飲み物は? 野生の獣などに襲われるのでは?
いや、そもそもあの死体の山があるのだ。あれの犯人が今すぐ襲い掛かってくるかもしれない。
琥珀色の目を細めた行商人は、私をじっと見た。
「ふ~ん。なんでも?」
「はい! 死にたくないです! でもできることもあんまりないです! やる気はあります!」
「あっはっは! いいねえ、正直者は好きだよ。おいで」
「お世話になります! お願いします!」
差し出された手を握ると、硬かった。
働き者の手ってやつだろうか。私の手は白く、柔らかく、きれいだった。
働いてねえやつの手ってことだろうか。記憶を失う前の私、ニートだったんかな。
「おじさんはコーザ。きみは?」
「好きに呼んでください!」
「お、警戒心があっていいねえ。じゃあラピちゃん」
「センスありますね、コーザさん!」
ラピ。かわいい響きだ。
ラビットかつハッピー、ラッキーかつピースフルな感じがして気に入った。
特に考えた時間もなく、すぐにこんないい名前を出せるとは、かなりの教養人と見た。
体力もある。
険しい道だというのに、コーザさんは私の手を引っ張ってすたすたと歩いて行く。
ついていくのはなかなか大変だ。しかし、私の体も体力があるようで、息は切れなかった。
それをいいことに、コーザさんに話しかける。
「行商人ってなにする仕事なんですか?」
「他の場所だったらもっと高く売れるものを買って、別の場所で売るって感じかな?」
「おお、わかりやすい! コーザさんは頭が良いんですね!」
「あっはっは、いやいや、褒め上手だねえ」
「あんまり荷物を持っているようには見えませんが、これから買いに行くところですか?」
「魔法のバッグを持ってるから、荷物はそこにまとめてあるんだよ」
「へえ~!」
コーザさんは四角い形のカバンを背負っている。
おそらく革製で、横にしたA4が入りそうなくらいの――ん? A4ってなんだ?
思い出せない。コーザさんなら知っているだろうか。
私が質問をする前に、コーザさんがふと振り向いた。
「きみは……ってちょっと!?」
「はい、なんですか!」
「怪我! 血!」
「ああ、はい! ごめんなさい、血が臭かったですか?」
ここは森の中だ。血の臭いにつられて、危ない獣が寄ってきちゃったりするのかもしれない。
考えが及んでいないことが申し訳なくて謝るが、コーザさんは慌てたままだった。
「そうじゃなくて、さっきまでそんなにボロボロじゃなかったよね!?」
「はい、コーザさんについて行くのが大変だったので、枝とかでいっぱい切っちゃいました!」
私は足や腕に切り傷をいっぱいつくっていた。たぶん顔にも傷がある気がする。
うっそうとした森の、あんまり道じゃない道を通っているので、茂みにある鋭い葉の先や、枝なんかでザクザク切れてしまった。
私が着ているのはシャツと、スラックスのようなズボンだったが、どっちも半袖、半ズボンだった。
元気な小学生?
ともかく腕と足がそれなりに露出していたので、傷がつきやすかったのだろう。
森や山に行くときはきちんとアウトドアの装備にしような! 私なんでこんな軽装なんですか!
なぜ先頭を行っているコーザさんが無傷なのかわからない。
長袖長ズボン、というかコート羽織ってるけど、それにしたってまったく危なげなくすたすた歩いていた。
コツとかあるんだろうか。聞いたら教えてくれるんだろうか。
「ちょっ! 言いなよ!?」
「申し訳ないので!」
「おじさんそんなに冷酷じゃないよお!?」
コーザさんひとりであれば、あのスピードで森を抜けられるのだ。
それで9日。私は善意で拾われただけだ。旅程を遅らせるのは心苦しい。
というか、お荷物として途中で捨てられてしまうかもしれない。
しかし、コーザさんは私の想定よりもずっとやさしかった。
近くの倒木に私を座らせると、カバンから取り出した布を水筒で湿らせて、私の傷に当てる。
「ちょっと染みるよ、ごめんね」
血と汚れを落としてから、傷に緑色の軟膏を塗ってくれた。
なんだか爽やかな香りがする。ハーブやスパイスのようなにおいだ。不思議と嫌じゃない。
「コーザさんはやさしいですね。いいんですか、水も薬も貴重なのでは? こんなの舐めとけば治りますよきっと」
「だからそんなに冷酷じゃないって」
「いい人に見つけてもらえてよかったです!」
顔の傷は自分では舐められないので助かった。
処置の終わったコーザさんは、呆れた顔をしていた。
「世間知らずのお嬢さんだなあ。ラピちゃんはいいとこの出なの?」
「わかりません! 世間を知らないというのは正しいです、見る目がありますねコーザさん!」
「そんでやっぱり褒め上手だなあ」
褒め上手なのはコーザさんの方だ。
私は人を褒めるのが上手いのか~と、まんまとにやにやしてしまった。
コーザさんは空を見上げた。つられて空を見ると、オレンジ色だった。
夕日だろう。そろそろ日が沈む。
「今日はこの辺で野宿しよっか」
「はい! やることありますか?」
「落ちてる木の枝拾ってきてくれる?」
「はい!」
背中に「また傷作らないようにね~」と声をかけられ、私は元気に「はい!」と答えた。
おぼろげな知識では、落ちている木の枝は乾燥していて火が付きやすい。
焚火をつくるのだろう。私は落ちている木の枝をどんどん拾って行った。
途中、地面を見すぎて何度か木にぶつかりそうになったが、なんとか無事だった。
腕一杯に枝を抱えて戻ると、コーザさんはすっかりキャンプの準備を終えていた。
なんて頼れる旅人なんだ、マジで出会えてよかった。命の恩人、感謝永遠に。
私が抱えてきた木の枝を見て、コーザさんは言った。
「多いなあ……」
「ごめんなさい、どのくらい必要なのかわからなくて!」
「獣人は力持ちだねえ」
「そうなんですか? じゃあ重いもの代わりに持ちますよ! 魔法のカバンは重くないですか?」
「魔法のカバンだからね、魔法で軽いんだよ」
「へえ~!」
魔法って、すげ~。
何も覚えていないはずなのに、魔法なんてもんあるわけないだろ、という謎の常識が私の頭の中にはある。
だが、コーザさんは親切だし、こんなところで嘘をつく必要はないだろう。
嘘だったとしたら、面倒な私の質問を躱すためのジョークであるはずだ。
ひとまず素直に信じておいた。
そのカバンってどのくらいの値段なんだろう、いつか私にも買えるだろうか。
焚火に火をつけ、コーザさんからもらったパンをかじる。うまうま。
「明日はもっと歩くよ。しっかり寝て回復しておいてね」
「はい!」
コーザさんは近くの木を背もたれにして、毛布にくるまった。
私も毛布を貸してもらったので、肩から羽織る。
すっかり日は落ちて、それなりに風もあるが、不思議と寒くはない。
この体は相当丈夫らしい。
私の知らない技術を使って、なにがしかの安全を守っているのかもしれないが、それを聞く前にコーザさんは寝てしまった。
ならば、私は徹夜して、コーザさんの安全を守ろう。少なくとも火の番くらいはできる。
獣が襲ってきたとして戦える気はしないが、危険を知らせてコーザさんを起こすことくらいならできるだろう。
ふんす、と気合を入れ、私は立ち上がった。
座っていたらうっかり寝てしまうかもしれないからだ。
毛布は置いておく、寒くないので。
コーザさんの周りを、ゆっくり、ぐるぐると回る。
歩いていた方が起きていられそうだからだ。
私にはうさぎの耳がある。
たぶん、人より耳が良いはずだ。たぶん。
それからきっと鼻もいいはずだ。あれだけ死体に囲まれていても、水のにおいがわかった。
ならば獣が近づいてきたら、そのにおいでわかるはずだ。
目はあんまり良くないかもしれない。
少なくとも、特別夜目が利くというほどではないようだ。
だから耳をぴくぴく動かして、鼻をすんすんと鳴らしながら、周りをぐるぐる回った。
目だけは暇だったので、寝ているコーザさんを見る。
いつのまにか身じろぎをしたのか、毛布が肩から落ちていた。
私はそっと近づいて、コーザさんの毛布を引き上げた。
その拍子に、うっかりコーザさんが首にかけていたネックレスのチェーンに触れてしまう。
こんなのつけてたっけ、ちゃんと見てなかったな。
「ぴゃっ!」
瞬間、手首を掴まれた。驚いて変な声を出してしまったが、コーザさんは既に起きていた。
「やっぱりオレには見る目がないよ。今回は本当にいいこだと思ったんだけどな」
コーザさんはあっという間に私の体を回転させ、体の下に敷いた。
片手で私の手をまとめて掴むと、空いた手で私の顎をくいと持ちあげた。
「どこの所属?」
「しょ、しょぞく?」
何を聞かれているのかわからない。それは私が記憶を失っているからだろうか。
月の明かりが逆光で、コーザさんの表情はあまり見えない。
「痛みには鈍そうだったね。快楽の方はどうかな?」
「ひゃああ!?」
うさぎの耳に息を吹きかけられて、体が跳ねる。
なん……今のはなんだ!? 未知の感覚に動揺する。
「あっはっは。すんごい弱そう。それも演技?」
「いえそんなことできるほど器用では!」
「じゃ、我慢比べね」
顎から手がはなされると、うさぎの耳に指を突っ込まれ「ぴゃっ!?」と素っ頓狂な声を上げる。
「な、なんの我慢比べを!? もう降参してもいいですか!? 負けました!」
「あっはっは。潔いねえ、おじさんそういう子の方が好きだよ~」
「好いていただいて光栄です! 手をはなしていただいても!?」
「だ~め」
人差し指と親指の腹で、うさぎの耳をすりすり触られると、たまらない気持ちになった。
ぞわぞわする。内臓を直接触られているみたいな。嫌だけど嫌じゃないみたいな。
知らない感覚に目を白黒させていると、コーザさんは質問を続けた。
「何の用事でオレに近づいたのかな?」
「え!? コーザさんから近づいてきたのでは!?」
「ん~、それはそうだけど、声かけたくなるような感じを出してたのはきみでしょ?」
「え~!? そんなの、ナンパされた方が悪いみたいな暴論では!?」
「おお、意外と舌戦には強いな」
「光栄です~!?」
やっぱりコーザさんは褒め上手だった。
こんな場面でも褒められて、なんかちょっと嬉しくなっちゃったじゃないか。
「悪い舌にはおしおきしちゃおうかな」
「んん~!?」
ようやくうさぎの耳から手をはなされたかと思えば、今度は口に指を突っ込まれた。
今度は舌を人差し指と親指ですりすりといじられる。
耳を触られたときと似たような感じだ、もっと内臓を触られている感じがしてぞわぞわする。
てか舌って内臓なのか?
舌をつまんだまま、コーザさんは中指も口の中に突っ込んできた。
私の口はそれほど大きくない。
歯が当たって指を傷つけてしまいそうだったので、もっと大きく口を開いた。
中指は歯の生え際、歯茎をゆっくりなぞってくる。
こんなことされたことない。
記憶喪失なんだから過去の経験はわからないはずなのに、なぜか強くそう思った。
口の端から唾液が垂れる。
ついでに、いつの間にかかっぴらいたままになっていた目が乾燥して、涙もこぼれた。
しばらく私の口の中を弄り回した後、ようやくコーザさんは手をひっこめてくれた。
私の息はちょっと止まっていたらしい。
息切れしていた。森を歩いていた時はまったく乱れなかったのに。
「……なんで噛まなかったの?」
「は……っ、はあ、はあ、え……!? か、噛まれたかったんですか……!? ご、ごめんなさい意図をくめずに。もっかいチャンスもらってもいいですか」
「変な子だなあ」
「ごめんなさい! 見放さないで! 放置されたら半日で死ぬと思いますよ!」
「おじさんと一緒にいたら、今死ぬかもしれないのに?」
「そうなんですか!?」
「……だめだ、自信がなくなってきた。本物の天然なのか……?」
「養殖がお好みだったんですか、ごめんなさい、それがどんな感じなのかわからないので教えてください、努力します」
天然の反対は、養殖のはずだ。
そして天然というのは性格の表現に用いられることのある言葉で、ならば養殖にもそういう性格があるはずである。
養殖っぽい性格ってなんすか? もっと従順みたいなこと? 人造人間みたいな?
コーザさんは無言で、私の手首から手をはなした。
自由になった手で、自分の手首をさする。私の肌は新雪のように白い。
コーザさんに掴まれていた手首は、コーザさんの手の形に真っ赤になっていた。
「ごめんね、痛かったでしょ」
「いえ、なんでもすると言ったのは私なので! 何してもいいので人里に連れてってください!」
「ほんとに迷子なんだ?」
「疑われてたんですか!?」
「そうか、本物だったか……ごめんね」
「よくわかりませんが謝罪は受け入れます! コーザさん、明日もたくさん歩くんですからもう寝たほうが良いですよ! 私見張りやりますから!」
コーザさんが私に言ったことをコーザさんに言って、再びふんす、と気合を入れると、コーザさんはようやく私の上からどいてくれた。
乗られていたけれど、全然重くなかった。
一般的な成人男性と比べてちょっと背が高い方な気がするのに、痩せているのだろうか。
魔法のカバンみたいに自分の体重も軽くしてるのかな?
「……ごめんね」
「任せてください! 私役に立てる場面あんまりないと思うので! でもなんか体は丈夫な気がします! 寝なくてもいけそう!」
すっかり眉を下げたコーザさんは「無茶しないでね」と言って、再び毛布にくるまった。
任せろ、私は絶対にコーザさんを守ってみせるぜ!
ふんす、と気合を入れたが、その夜は特に何事も起きなかった。