自室で小ジャンプ――天井に頭をぶつけない程度の跳躍――の練習をしていると、ノックもなしに扉が開いた。
珍しくイグナさんではない。
もしかしてここにはノックという文化はないのだろうか? 私の頭の中にあるのは獣人の常識?
「用事はなんですか?」
入ってきた男性2名には見覚えがある。
よく廊下ですれ違っていたので、常連かイグナさんの部下だろうなと思っていた。
後ろ手に扉を閉めた男は、私のことをじろじろ眺めた。うーん、なんだか嫌な感じである。
「お前、イグナのお気に入りなんだってな」
「え? いえ、違います」
「はっ、女は嘘がうめぇな」
「ええ……? 下手な女もいっぱいいると思いますよ……?」
突然偏見をぶつけられて困惑する。なんなんだ。
まずほとんど初対面なんだから名前くらい名乗ったらどうなんだ。
あのイグナさんでさえ最初は名乗ってくれたんだぞ。
この屋敷に出入りする人は男ばかりなので、私は女性をあまり見たことがない。
街を歩いたのはコーザさんと宿に向かうまでの間と、イグナさんとこの屋敷に向かうまでの間だけ。
一番長く観察できた女性は宿のおかみさんだ。
嘘はうまくなさそうだったな、恐怖に震えていたし。
「お前はイグナから見捨てられたんだ」
「えー!? だったら見捨てる前に宣告してほしいなあー! ひどくないですか!?」
「なー、ひどいよなぁ」
同調を得られたので、目の前の男への好感度が上がった。
イグナさんはまるで相槌を打たないのだ。
よく言うのは「へえ」だが、あれが納得から出ているのか、どうでもいいから出ているのかはかりかねている。
「じゃあ次はあなたがたが私の……売り手? プロデューサー? 担当? なんですか?」
「まあそうだな。だから具合を確かめておこう」
「なんの? ……あ、わかりました、えっちですね!」
私は反省を生かせるうさぎだ。
似たようなシチュエーションをイグナさんと経験している。
奴隷商というのはえっちを婉曲に言い表すのが好きなのかもしれない。
意外に奥ゆかしいなあ。
などと考察していると、とても大きい音とともに、扉が吹き飛んだ。
このままでは飛んできた扉が私にも直撃しそうだったので、横に避ける。
あっさりやってのけたが、見てから避けるって結構すごいことをした気がするなあ。
やっぱりこの体は力が強いし、動体視力もいいようだ。
私の前にいた男は見事、扉の下敷きになった。
扉を蹴破って入室してきたのはイグナさんだった。
「なっ! はやすぎる……!」
もう一人の男が驚きの声をあげるが、それはすぐにイグナさんの手のひらの中に消えていった。
イグナさんは、成人男性の頭を片手で覆えるくらい手が大きかったらしい。
私が小さいのかと思っていた。
イグナさんの手の中で、男の頭部がりんごのように砕け散った。
いや片手でりんごが砕けるのもすごいけど。でも頭蓋骨の方がたぶん固いよね、さすがに。
というか。
「ぐ……グロォ〜! ちょっとイグナさん、やってることはヒーローか王子様なんだから、やり方考えてくださいよ! これじゃラブコメは無理じゃないですか、ゴア表現ありホラーかスプラッタじゃないですか!」
私の方にまで返り血が飛んできている。
服の裾に血液だか脳漿だかわからない液体がついた。気持ち悪い。
女の子を助ける方法としては乱暴すぎる。ドン引きだ。
「あァ? 文句垂れてんじゃねェよ、どうでもいいカスに犯された方がお勉強になったか?」
「コーザさんに言いつけますよ!」
「マジで死ねボケ」
悪態をつきながら、イグナさんは自分が蹴り飛ばした扉を踏みつけた。
木の扉ごと、下の男が潰される。扉に阻まれて、血はそれほど飛び散らなかった。
扉には綺麗にイグナさんの靴の痕が残ったが、男はぺっちゃんこだ。
まあ死んでるよなこれ。うわ~グロ~しっかり見てしまった。
今日は悪夢を見るかもしれない。
でも、最初に起きた時には、もっとたくさんの死体を見た。
それでも悪夢は一度も見ていないから、今回も平気だろうか。
「あ〜マジでクソめんどくせェ、優秀なやつ雇えば内側から乗っ取ってこようとするし、バカ雇うとこんなんばっかだ。もっとマトモなやついねェのか」
2人殺したというのに、まったくいつも通りなイグナさんは、これまでに何人殺してきたのだろう。
しかも一応身内だったってことだよな、この男たちは。
イグナさんの意に沿わない行動をしたから始末されたのだ。怖。
「もっとマトモな職についたら、部下ももっとマトモになるんじゃないですか?」
「クッ……ハハハ! 言うじゃねェか!」
先ほどまでいつものだるそうな表情をしていたイグナさんが、珍しく笑っている。
そんなに面白いこと言ったっけな、私。
あれ、笑い顔見るのって初めてかもしれないな? 笑うと若く見えるなこの人。
そもそも何歳なんだろう。たぶんコーザさんよりは年下だよな、というくらいしかわからない。
イグナさんは多分優秀だ。
コーザさんに頼りにされているのだからそうだろう。
ちゃんと働いてるところは見ていないが、この屋敷はまるごと彼のものである。
奴隷商じゃなくても食っていけるんじゃないのかな。
そんなに稼げるのかな、奴隷売買って。イメージ的に稼げそうではあるな……。
血まみれの手を振って血を落としながら、イグナさんは言った。
「なんならここで働くか? お前」
「なにするんですか? 掃除?」
「まァ大体そう」
「人間の掃除とか言って殺しやらされそうでいやだな〜」
「奴隷商だぞ。基本生きてる人間を売るんだわ」
「なんで基本ってつけたんですか、怖いんですけど。死体を売る可能性あるんですか、ねえ」
イグナさんは私の質問に答えなかった。怖い。
「口は回るみてェだし、オークションの司会くらいならやれんじゃねェの」
「あ、それはおもしろそうですね! バニー着ましょうか?」
「バニー?」
「ない!? バニーガールいないんですか!? はー……がっかりだな……この世界も大したことなかったか……」
「お前がバニーガールなんじゃねェの」
「たしかに……」
実際にうさぎ耳の生えた人間が存在するせいで、それに扮装するという文化は生まれなかったのだろうか。
「うぅーん、コンカフェとかないんですか? メイド喫茶は?」
「なんじゃそら」
「日本が恋しいな……」
口に出してから、その単語の意味を考える。
コンカフェもメイド喫茶も、概要は想像できる。だがこの街にはなさそうだ。
つまり日本というのは地名で、私がいたところである。
「うおお!? なんか変な思い出し方したけど私の故郷日本っていうらしいです! 聞いたことありますか、イグナさん!」
「知らねェ」
「イグナさんの知識量って普通ですか? 頭良い方ですか?」
「良い方」
「えー? イグナさんより賢い物知り探すの大変そう。どこなんだ日本」
はじめて記憶を取り戻すためのヒントを手に入れたな。
生きるのに必死すぎて、記憶喪失をなんとかしようとは正直考えていなかった。
でもまあ取り戻せるなら取り戻しておきたい、かな?
「獣人どもが住んでたとこから出てきたなら、獣人に聞いてみりゃいいんじゃねェの」
「頭良いですね、イグナさん! 自認通りです!」
「なんかムカつくんだよな……」
「コーザさんは褒め上手だなって言ってくれたのに!?」
「あー、イライラする」
「ええーっ!?」
「コーザを善人って思い込んでんのがムカつくのか? いや……なんかちげェな……」
「なんですか嫉妬ですかー? 前の男の話ばっかしてんじゃねえよってことですかー?」
イグナさんはじっ、と私の目を見た。
調子に乗って煽ったために、怒ったのだろうか。居心地が悪くて耳がぴくぴく動く。
また張り手でもされるだろうか?
でもいつもはイグナさん、すごい瞬発力による目に見えないスピードのビンタをかましてくるからな。
あれは痛くないけど音にびっくりするのだ。
「そうかもな」
私は俊敏な動きで飛びずさった。
距離を取り、壁を背中にして、イグナさんに向かって叫ぶ。
「急なツンデレやめてくださいよ!!」
「はァ? なに赤くなってんだ、熱か?」
「突然鈍感にならないでください! なんだこの人!」
恋愛ゲームの主人公かいっ! 恋愛ゲームってなんだよ!
イグナさんは私を、奇妙なものを見る目で眺めた。
「照れてんの?」
「照れてますけど!?」
「もっと恥ずかしいこと山ほどしたのにか?」
「それとこれとは話が別では!?」
なんというか、ベッドの上ではすべてが非日常だ。
普段はできない痴態を晒し、言えないことも言えるだろう。
いや私は割と普段のままだけれども。……イグナさんも普段のままだったな。
「言葉責めだけでイけそうだなお前」
「ありがとうございます!」
「その返しはおかしいだろ」
褒められたと思ったのだが、そうではなかったということだろうか。
「やってみっか」
木製の椅子を引っ張ってきたイグナさんは、私の前に背もたれ側を向けた椅子を置いた。
椅子にまたがるようにして座り、背もたれで頬杖をついて――もちろん血まみれじゃない方の手でだ――やる気なくイグナさんは言った。
「好きだ」
「うぅ〜っ!?」
顔に熱が集まるのがわかる。
イグナさんがおもしろそうな顔で私を見ているので、見た目の色も変わっているのだろう。
色白なのが恨めしい。血色がわかりやすいのだ。
私もグレて全身にイグナさんみたいな刺青いれてやろうか。それをやっても結局赤くはなるのかな。
「なんか違くないですか、言葉責めってもっと罵倒とかじゃないんですか!?」
「それは毎日やってんだろ」
「たしかに!」
この人は日常会話からして罵倒の連続だ。
だからこそ、そうではない言葉が胸に突き刺さる。
実験台にされて弄ばれているのがわかっているのに、自分の体温を調節できない。
「愛してる」
「なんでそういうこと普通に言えるんですか!? 嘘なんですよね!?」
まず、男2人の死体が転がったままの部屋でやることではない。
というかここは私に与えられた部屋だ。事故物件になっちゃった。
いや前から事故物件だったような気もするけれど。
引っ越しさせてもらえるんだろうか。掃除は嫌いじゃないが、死体の掃除はしたくない。
イグナさんは鼻で笑った。
「嘘以外ありえねェだろ」
「こいつ夢見させる気もねえ!」
「本気にしてんの? 怖……」
「私はイグナさんのほうが怖いですが!」
「それはよく言われる」
「でしょうね!」
この人は、見た目も中身も恐ろしい。
先ほど見せた怪力もあわせて、恐怖の権化と言っていいだろう。
だから、そんな男の言う「愛してる」は、嘘だとわかっていてもどきどきするのだ。
恋と恐怖を混同してるのだろうか。ここにはまだ死体があるものな。
自分がそうなるかもしれない恐怖と興奮を取り間違えているのかも。
それもわからない。頭の中はぐちゃぐちゃだ。
今はイグナさんのことしか考えられない。
「俺がセックス嫌いなのはな、やると全員俺のこと好きになるからだ」
「イグナさん、インキュバスの末裔なんですか? セックスへの自信が過剰というより、実際に惚れさせてきた実績があるんだろうなって思います」
「インキュバスねェ」
本人が意外とそうなのかもな、とか思って考え始めるくらいには、セックスが得意ということですか?
実際に経験した私も、それは認めるところだ。
もちろんコーザさんもめちゃくちゃ上手だったが、この人のそれは次元が違う。
愛とかなくとも、どんな相手でも、あんあん喘がせることが可能なのだろう。
私もそうか。別にそれほどイグナさんのことが好きじゃなくともひいひい言わされた。
この人のことを好きになったら、どれほど気持ちがいいのだろうか。
そんな、良くない誘惑が頭をよぎるくらいである。
「えっじゃあセックスしてんのにコーザさんのほうが好きなままな私に対して、フッおもしれー女……って思ってるってことですか!?」
「あー? ああ、案外そうかもな」
「何だこの人、ハーレクイン小説の中から飛び出してきたのか?」
「何語だよそれは」
「イグナさんが知らないなら私も知らないですよ!」
自分で言ったのに、自分で意味が分からないってなんなんだ。
混乱しているからだろうか。この状態ならもっと記憶のヒントが出てくる?
「ま、お前のことは気に入ったよ。もうちょいここにいろ」
イグナさんは笑った。
いつもの嘲笑ではなく、少年のようなさわやかな笑顔だった。
ギャップがやべえんだわ。
体の奥がぎゅうっと握りこまれたようになって、腰がしびれた。
足から力が抜けて、すとんと尻もちをつく。
勝手に口が開いて、端からよだれが垂れていった。
私は呆然としながら、椅子に座ったまま呆れているイグナさんを見上げた。
「……イッたのか? 今のは言葉責めじゃねェけど」
だからイッたのだ。この野郎。