最初はただの不安だった。
でも、それは静かに、そして確実に、僕の中で“妄想”へと形を変えていった。
旅館の夜――
母さんたちは夕食を終えて、部屋に戻ってくる。
浴衣姿で「お腹いっぱいね」なんて言いながら、冷たいお茶をすすってる。
そこで誰かが言う。「ちょっとだけ、中庭にでも行ってみようか」
その流れで、旅館の敷地内をぶらりと歩くうちに、出会ってしまうのだ。
中年のグループ旅行客。
「こんばんは」「あれ、お一人ですか?」と、軽く声をかけられる。
たわいのない世間話――どこから来たか、どんな旅か、そういう他愛のない会話。
そこから、なんとなく「ロビーで一杯どうです?」なんて話になって。
ふだんなら、母さんも他の三人も、きっと笑って断るだろう。
でも、旅の空気はどこか普段と違って、少しだけ判断を鈍らせる。
「ちょっとだけなら……ね?」
「せっかくだし、ね?」
そんな言葉で、彼女たちは――あろうことか、誘いに乗ってしまうのだ。
ロビーの隅、小さなテーブルを囲んで、ビールやウイスキーのグラスが並ぶ。
最初はぎこちなかった会話も、時間が経てば、自然と笑い声が増えていく。
イクミさんは早々に打ち解けて、冗談を飛ばして場を盛り上げる。
ユキさんは、口数少なめに笑ってはいるけれど、なんだか楽しそうで――
そして、母さんはといえば、少し頬を赤らめながらも、気さくにうなずいている。
その隣で、男がグラスを母さんの方に傾ける。
「お綺麗ですね」
――やめろ。
「息子さんがいるなんて信じられない」
――黙れ。
母さんがまんざらでもない笑顔を浮かべていたら、どうしよう。
イヤリングに触れる仕草で照れていたら、どうしよう。
まさか、まさかとは思うけど――
夜の廊下を並んで歩いたりなんて……いや、そんなわけない。ないはずだ。
でも、“可能性ゼロ”とは言いきれない。
あの夜を思い出せばわかる。
母さんは、あのとき、僕の前で――
その顔が、浮かぶたびに、妄想が現実のように血を騒がせていく。
まさか、そのまま別室へ……
「ちょっとお話だけ……」なんて言いながら、誘われたら?
「こんなの初めて……」って、静かに扉の向こうに入っていったら――
僕の中で、全身を締め付けるような衝動が渦巻いた。
そんなはずない。
でも、もしも。
そんなことが“あった”なんて、後から聞かされたら、僕は……
笑って済ませられるわけがない。
僕はどうしてこんなにも、母さんに執着してるんだろう。
誰にも言えないし、自分でも答えが出ない。
けれど確かなのは――
「何も起きませんように」と祈るような気持ちで、ただスマホを握りしめている自分がいることだ。
画面に「通知なし」の表示が出るたびに、安心と不安が交差する。
“知らせ”がないということは、“何もない”ということか?
あるいは、“何かあっても連絡できない”ということか?
不安が、妄想を育てていく。
そして、妄想が、母さんへの感情をさらに揺らしていく。
旅の夜は、まだ終わらない。