※この作品はR-18です。

母の写真 日常の向こう側   作:松田義和

16 / 43
第十六章 一大決心

「明日、家にいる?」

 

夜、風呂上がりのタイミングで、母さんがふいに声をかけてきた。

 

「うん、いるけど。なんで?」

 

「……明日ね、いつものお茶会、うちでやるから」

 

「え? また?」

 

ここのところ頻繁に開催されている“いつもの四人”の集まり。

だいたいは誰かの家で順番にやってるはずだが、なぜか今回はまた我が家らしい。

 

「それなら、俺どっか出かけてた方がよくない? 女同士の話もしやすいだろ?」

 

そう言うと、母さんはちょっとだけ間を置いてから、ぽつりと答えた。

 

「……いいから、いて」

 

その言い方が、少しだけひっかかった。

 

いつもなら「どっちでもいいわよ」くらいの軽い返事が返ってくるはずだった。

それが今日に限って、「いいからいて」とまで言うなんて。

 

なにかあるのか? それとも、ただ手伝い要員として当てにされてるだけか?

 

「わかったよ」

 

とりあえずそう答えたけれど、モヤモヤは残ったままだった。

 

もしかして、ユウナさんの件――旅行に行けなくなった話と関係があるのかもしれない。

誰かを誘うつもりで、でもそれが言い出しにくくて、僕にもなにかしら協力させようとしているとか?

 

それとも、もっと別の――何か。

 

翌日、何が起きるのか、まったく予想がつかない。

でも母さんの声のトーンと、あのわずかな間の取り方が、頭から離れなかった。

 

 

 

翌朝、母さんに起こされてすぐに、僕は家中の掃除に駆り出された。

リビング、玄関、トイレ、キッチン……こんなに一生懸命掃除したの、年末以来かもしれない。

「そこ、もうちょっとちゃんと拭いて」

「お客様がくるんだから」

母さんは妙に張り切っていた。

 

正午少し前。

いつもの“メンバー”が、時間ぴったりにやってきた。

玄関に立った瞬間、華やかな香水の匂いがふわっと鼻をかすめて、僕は一瞬身構えた。

 

「こんにちは〜」

「暑いわねえ、もうほんと溶けそう」

「やだ、ヨシカズくん、ちょっと大人っぽくなったんじゃない?」

 

そんな他愛ない挨拶を交わしつつ、母さんたちはリビングへ。

僕はいつものようにお茶とお菓子を出して、そのままダイニングテーブルの端に腰を下ろした。

 

少しの世間話のあと、イクミさんがふいにこちらを向いた。

 

「ヨシカズくん、聞いてると思うけど……ユイちゃんのママが、旅行行けなくなっちゃったのよ」

 

「ああ、はい。母から聞きました。残念ですね……」

 

僕がそう返すと、テーブルの空気が少しだけ静かになった。

その静けさの中で、イクミさんが言った。

 

「でね。もう予約もしちゃってるし、今さらキャンセルするのももったいないから……誰か、代わりに行ける人いないかなって」

 

来た、と思った。

 

心の中で「やっぱりな」とつぶやきながらも、表情は変えずに曖昧に笑ってみせた。

 

「そうですか……誰か、いい人見つかるといいですね」

 

「ねえ、ヨシカズくん。誰か、心当たりない?」とユウナさん。

「若い子じゃなくていいのよ。落ち着いた人で。私たちと気軽に話せるような人、誰か……」

 

僕の視線が母さんのほうへ自然と向かうと、彼女は何も言わずに、お茶をそっと口に運んでいた。

けれど、その指先がほんの少しだけ緊張していた気がする。

 

 

 

この流れは──

 

僕に、誰かを推薦しろってこと……?

 

一瞬そう思ったけど、すぐに違和感が湧いてきた。

だって、なぜそんなことを僕に聞くのだろう。

 

母さんたちの年代の女性と、僕が親しくしてるなんてこと――あるはずがない。

同級生の母親ならともかく、わざわざ声をかけて一緒に旅行行こうなんて、そんな距離感じゃない。

知り合いにそれっぽい人もいないし、いたとしても僕の口から誘うって変だ。

 

そもそも、「誰かいい人いない?」って……

こんなの、母さんたちが自分たちで決めればいい話じゃないか。

それをわざわざ、息子である僕に聞いてくるなんて――なんだか引っかかる。

 

目の前では、おばちゃんたちがまるで女子高生みたいに盛り上がっている。

「ほらほら、ヨシカズくん、いないの? 近所の奥さんとかさ〜」

「ねえ、独身の綺麗な人、いないの?」

冗談めかして笑っているけど、その目の奥にほんの少しだけ本気が混じっているのがわかる。

 

僕は曖昧に笑って、ごまかすようにお茶をすすった。

母さんの方を見ると、どこか気まずそうに視線をそらしていた。

 

 

「ねえ、ヨシカズくん」

 

テーブル越しに、ユウナさんがふいにこちらを見た。

 

その声音には、冗談とも本気ともつかない柔らかさがあったけど、僕は思わず身構えてしまった。

 

「実はね、私たちちょっと話してたんだけど……

ヨシカズくんに、一緒に行ってもらえたらどうかなって思って」

 

「……は?」

 

一瞬、何を言われたのか理解できず、間の抜けた声が出た。

けれど、ユウナさんの表情は真剣だった。

 

「ほら、私が行けなくなっちゃって、四人だったのが三人になっちゃったでしょ。

旅館の予約も四人部屋だし、今さらキャンセルするのももったいないし……」

 

そう言ってユウナさんは、目を細めて微笑んだ。

 

「それに、男の人が一人いると、やっぱり安心感が違うのよね。

イクミさんも言ってたのよ、ちょっと遠出だし、女性ばかりで心配だって。

ヨシカズくん、優しいし、お母さんを大事にしてるから、きっとぴったりのメンバーだと思うわ」

 

まるで、前からそう決まっていたかのような口ぶりだった。

 

「……え、ちょっと待ってくださいよ」

 

さすがに僕は戸惑った。

 

だって、それはおかしい。

温泉旅行って……母さんたちの“女同士の時間”じゃなかったのか?

 

いくらなんでも、そこに息子の僕が混じるのは違和感しかない。

いや、それ以前に――

 

(なにをどうして、僕が?)

 

心の中でツッコミを入れながらも、口に出せずにいた。

そちらの視線が一斉にこちらに向けられている。

 

「もちろん、無理にとは言わないわよ?」

とユキさんが笑いながらフォローを入れてきたが、

それが逆に「でも断れないでしょ?」という圧に感じられて、妙な汗が額ににじんだ。

 

母さんは――まだ何も言わないままだった。

ただ少し、困ったような、それでいて複雑な表情で僕の顔を見ていた。

 

僕の心の中には、すでにいくつもの想像がうごめき始めていた。

あの旅館、四人部屋……

夜になって、みんなが浴衣姿で、布団を並べて、談笑している光景。

 

 

その場に、僕が……?

 

 

僕は返事を保留したまま、視線を彷徨わせた。

目の前には、どこか期待と好奇心が入り混じった顔ぶれ。

母さんたち三人がじっとこちらを見ている。

けれど、僕が一番気になったのは――母さんの表情だった。

 

母さんは、さっきからずっと黙っていた。

他の三人のように押すわけでもなく、止めるわけでもなく。

ただ、少し目を伏せて、何かを飲み込むような表情をしていた。

 

(母さん……どう思ってるんだ?)

 

その沈黙が、かえって僕をざわつかせた。

 

僕が行くことで母さんは本当に喜ぶのか?

それとも――内心は困ってる?

いくらなんでも、母親とその友人たちとの温泉旅行に息子が同行するなんて、普通じゃない。

仮に僕が行けば、部屋も一緒になるだろうし、当然、お風呂の時間だってずらす必要がある。

あの人たちの“女同士の時間”に、僕が水を差すことにならないだろうか。

 

でも、ユイママが行けなくなって、三人になったままだと、みんなも楽しみにしていた旅行のバランスが崩れる。

キャンセル料もかかるらしいし、何より、僕が勧めて始まった旅行なんだ。

どこか、責任のようなものも感じていた。

 

「……いや、でも俺が行っても浮くだけじゃないですか」

ようやく絞り出した言葉は、自信のない言い訳にしか聞こえなかった。

 

すると、母さんがそっと口を開いた。

 

「……ムリにとは言わないけど、ね」

 

それだけだった。

あくまで中立的な声。

でも、その奥にほんのかすかに、「どちらでもいい」と言いながらも、どこか“諦め”のような響きが含まれていた。

 

(母さんは、僕に来てほしくないのか? それとも、言えないだけなのか……)

 

ますますわからなくなった。

 

誰も僕に強制はしていない。

でもこの沈黙と間接的な“期待”の空気は、否応なしに僕の胸を締めつける。

 

心が揺れていた。

行くべきなのか。

行かないべきなのか。

 

それを決めるのは、次の一言で決まりそうな気がして――僕は、母さんの表情をもう一度だけ、そっと盗み見た。

 

 

母さんの横顔を、僕はじっと見つめた。

視線を感じたのか、母さんもそっとこちらを見返してくる。

 

でもその表情は、どこか曇っていた。

喜んでいるとも、止めたいとも、決めきれていない――そんな、複雑な色を含んでいた。

 

その目の奥に、僕が知らない想いがあるような気がして、少しだけ怖くなった。

母さんは僕に何を期待しているんだろう。

それとも、何も期待していないのか。

 

(だったら……俺は)

 

「……わかりました。行きますよ。もし、迷惑じゃないなら」

 

口に出してから、自分でも驚いた。

けれど、不思議と後悔はなかった。

むしろ、どこか決着をつけたような感覚すらあった。

 

部屋の空気がふわっと緩んだ。

「まぁ〜、ヨシカズくん、ありがとう!」

「助かるわぁ、これで旅館も無駄にならないし」

「やっぱり頼りになるのよね〜、こういうところ」

 

三人の“おばちゃん”たちが、思い思いに感謝と歓迎の言葉を口にする。

笑い声が混じって、場は一気に明るくなった。

 

その中心で、母さんだけは何も言わず、ほんの少し、微笑んだだけだった。

 

でも、僕にはその笑顔の意味がちゃんと伝わった気がした。

それは「ありがとう」かもしれないし、

あるいは「本当に来るの?」という、どこか複雑な気持ちかもしれない。

 

けれど――もう、僕は決めた。

 

母さんのことが心配だったのだ。

前回の旅行、僕があの旅を仕掛けたときの罪悪感。

その時の母さんの様子。

今もあれが本当に“良かった”のか、自分の中では答えが出せていない。

 

でも今回、母さんは“友だちと一緒”に、出かける。

その姿を見届けたいと思った。

心から笑って、楽しんで帰ってくるかどうかを、そばで見ていたい。

できれば、自分もその輪の中に加わっていたい。

そんな気持ちが、ほんの少し――たしかにあった。

 

「じゃあ、男手として、全力でがんばります」

と冗談っぽく言うと、イクミさんが「頼りにしてるわよ〜」と笑って親指を立ててきた。

 

母さんはその横で、ふっと笑った。

その笑顔は、どこか懐かしくて、やさしかった。

 

たった一泊二日の温泉旅行。

でも、そこには何かが変わるきっかけがある気がして――

僕は、少し背筋を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。