「明日、家にいる?」
夜、風呂上がりのタイミングで、母さんがふいに声をかけてきた。
「うん、いるけど。なんで?」
「……明日ね、いつものお茶会、うちでやるから」
「え? また?」
ここのところ頻繁に開催されている“いつもの四人”の集まり。
だいたいは誰かの家で順番にやってるはずだが、なぜか今回はまた我が家らしい。
「それなら、俺どっか出かけてた方がよくない? 女同士の話もしやすいだろ?」
そう言うと、母さんはちょっとだけ間を置いてから、ぽつりと答えた。
「……いいから、いて」
その言い方が、少しだけひっかかった。
いつもなら「どっちでもいいわよ」くらいの軽い返事が返ってくるはずだった。
それが今日に限って、「いいからいて」とまで言うなんて。
なにかあるのか? それとも、ただ手伝い要員として当てにされてるだけか?
「わかったよ」
とりあえずそう答えたけれど、モヤモヤは残ったままだった。
もしかして、ユウナさんの件――旅行に行けなくなった話と関係があるのかもしれない。
誰かを誘うつもりで、でもそれが言い出しにくくて、僕にもなにかしら協力させようとしているとか?
それとも、もっと別の――何か。
翌日、何が起きるのか、まったく予想がつかない。
でも母さんの声のトーンと、あのわずかな間の取り方が、頭から離れなかった。
翌朝、母さんに起こされてすぐに、僕は家中の掃除に駆り出された。
リビング、玄関、トイレ、キッチン……こんなに一生懸命掃除したの、年末以来かもしれない。
「そこ、もうちょっとちゃんと拭いて」
「お客様がくるんだから」
母さんは妙に張り切っていた。
正午少し前。
いつもの“メンバー”が、時間ぴったりにやってきた。
玄関に立った瞬間、華やかな香水の匂いがふわっと鼻をかすめて、僕は一瞬身構えた。
「こんにちは〜」
「暑いわねえ、もうほんと溶けそう」
「やだ、ヨシカズくん、ちょっと大人っぽくなったんじゃない?」
そんな他愛ない挨拶を交わしつつ、母さんたちはリビングへ。
僕はいつものようにお茶とお菓子を出して、そのままダイニングテーブルの端に腰を下ろした。
少しの世間話のあと、イクミさんがふいにこちらを向いた。
「ヨシカズくん、聞いてると思うけど……ユイちゃんのママが、旅行行けなくなっちゃったのよ」
「ああ、はい。母から聞きました。残念ですね……」
僕がそう返すと、テーブルの空気が少しだけ静かになった。
その静けさの中で、イクミさんが言った。
「でね。もう予約もしちゃってるし、今さらキャンセルするのももったいないから……誰か、代わりに行ける人いないかなって」
来た、と思った。
心の中で「やっぱりな」とつぶやきながらも、表情は変えずに曖昧に笑ってみせた。
「そうですか……誰か、いい人見つかるといいですね」
「ねえ、ヨシカズくん。誰か、心当たりない?」とユウナさん。
「若い子じゃなくていいのよ。落ち着いた人で。私たちと気軽に話せるような人、誰か……」
僕の視線が母さんのほうへ自然と向かうと、彼女は何も言わずに、お茶をそっと口に運んでいた。
けれど、その指先がほんの少しだけ緊張していた気がする。
この流れは──
僕に、誰かを推薦しろってこと……?
一瞬そう思ったけど、すぐに違和感が湧いてきた。
だって、なぜそんなことを僕に聞くのだろう。
母さんたちの年代の女性と、僕が親しくしてるなんてこと――あるはずがない。
同級生の母親ならともかく、わざわざ声をかけて一緒に旅行行こうなんて、そんな距離感じゃない。
知り合いにそれっぽい人もいないし、いたとしても僕の口から誘うって変だ。
そもそも、「誰かいい人いない?」って……
こんなの、母さんたちが自分たちで決めればいい話じゃないか。
それをわざわざ、息子である僕に聞いてくるなんて――なんだか引っかかる。
目の前では、おばちゃんたちがまるで女子高生みたいに盛り上がっている。
「ほらほら、ヨシカズくん、いないの? 近所の奥さんとかさ〜」
「ねえ、独身の綺麗な人、いないの?」
冗談めかして笑っているけど、その目の奥にほんの少しだけ本気が混じっているのがわかる。
僕は曖昧に笑って、ごまかすようにお茶をすすった。
母さんの方を見ると、どこか気まずそうに視線をそらしていた。
「ねえ、ヨシカズくん」
テーブル越しに、ユウナさんがふいにこちらを見た。
その声音には、冗談とも本気ともつかない柔らかさがあったけど、僕は思わず身構えてしまった。
「実はね、私たちちょっと話してたんだけど……
ヨシカズくんに、一緒に行ってもらえたらどうかなって思って」
「……は?」
一瞬、何を言われたのか理解できず、間の抜けた声が出た。
けれど、ユウナさんの表情は真剣だった。
「ほら、私が行けなくなっちゃって、四人だったのが三人になっちゃったでしょ。
旅館の予約も四人部屋だし、今さらキャンセルするのももったいないし……」
そう言ってユウナさんは、目を細めて微笑んだ。
「それに、男の人が一人いると、やっぱり安心感が違うのよね。
イクミさんも言ってたのよ、ちょっと遠出だし、女性ばかりで心配だって。
ヨシカズくん、優しいし、お母さんを大事にしてるから、きっとぴったりのメンバーだと思うわ」
まるで、前からそう決まっていたかのような口ぶりだった。
「……え、ちょっと待ってくださいよ」
さすがに僕は戸惑った。
だって、それはおかしい。
温泉旅行って……母さんたちの“女同士の時間”じゃなかったのか?
いくらなんでも、そこに息子の僕が混じるのは違和感しかない。
いや、それ以前に――
(なにをどうして、僕が?)
心の中でツッコミを入れながらも、口に出せずにいた。
そちらの視線が一斉にこちらに向けられている。
「もちろん、無理にとは言わないわよ?」
とユキさんが笑いながらフォローを入れてきたが、
それが逆に「でも断れないでしょ?」という圧に感じられて、妙な汗が額ににじんだ。
母さんは――まだ何も言わないままだった。
ただ少し、困ったような、それでいて複雑な表情で僕の顔を見ていた。
僕の心の中には、すでにいくつもの想像がうごめき始めていた。
あの旅館、四人部屋……
夜になって、みんなが浴衣姿で、布団を並べて、談笑している光景。
その場に、僕が……?
僕は返事を保留したまま、視線を彷徨わせた。
目の前には、どこか期待と好奇心が入り混じった顔ぶれ。
母さんたち三人がじっとこちらを見ている。
けれど、僕が一番気になったのは――母さんの表情だった。
母さんは、さっきからずっと黙っていた。
他の三人のように押すわけでもなく、止めるわけでもなく。
ただ、少し目を伏せて、何かを飲み込むような表情をしていた。
(母さん……どう思ってるんだ?)
その沈黙が、かえって僕をざわつかせた。
僕が行くことで母さんは本当に喜ぶのか?
それとも――内心は困ってる?
いくらなんでも、母親とその友人たちとの温泉旅行に息子が同行するなんて、普通じゃない。
仮に僕が行けば、部屋も一緒になるだろうし、当然、お風呂の時間だってずらす必要がある。
あの人たちの“女同士の時間”に、僕が水を差すことにならないだろうか。
でも、ユイママが行けなくなって、三人になったままだと、みんなも楽しみにしていた旅行のバランスが崩れる。
キャンセル料もかかるらしいし、何より、僕が勧めて始まった旅行なんだ。
どこか、責任のようなものも感じていた。
「……いや、でも俺が行っても浮くだけじゃないですか」
ようやく絞り出した言葉は、自信のない言い訳にしか聞こえなかった。
すると、母さんがそっと口を開いた。
「……ムリにとは言わないけど、ね」
それだけだった。
あくまで中立的な声。
でも、その奥にほんのかすかに、「どちらでもいい」と言いながらも、どこか“諦め”のような響きが含まれていた。
(母さんは、僕に来てほしくないのか? それとも、言えないだけなのか……)
ますますわからなくなった。
誰も僕に強制はしていない。
でもこの沈黙と間接的な“期待”の空気は、否応なしに僕の胸を締めつける。
心が揺れていた。
行くべきなのか。
行かないべきなのか。
それを決めるのは、次の一言で決まりそうな気がして――僕は、母さんの表情をもう一度だけ、そっと盗み見た。
母さんの横顔を、僕はじっと見つめた。
視線を感じたのか、母さんもそっとこちらを見返してくる。
でもその表情は、どこか曇っていた。
喜んでいるとも、止めたいとも、決めきれていない――そんな、複雑な色を含んでいた。
その目の奥に、僕が知らない想いがあるような気がして、少しだけ怖くなった。
母さんは僕に何を期待しているんだろう。
それとも、何も期待していないのか。
(だったら……俺は)
「……わかりました。行きますよ。もし、迷惑じゃないなら」
口に出してから、自分でも驚いた。
けれど、不思議と後悔はなかった。
むしろ、どこか決着をつけたような感覚すらあった。
部屋の空気がふわっと緩んだ。
「まぁ〜、ヨシカズくん、ありがとう!」
「助かるわぁ、これで旅館も無駄にならないし」
「やっぱり頼りになるのよね〜、こういうところ」
三人の“おばちゃん”たちが、思い思いに感謝と歓迎の言葉を口にする。
笑い声が混じって、場は一気に明るくなった。
その中心で、母さんだけは何も言わず、ほんの少し、微笑んだだけだった。
でも、僕にはその笑顔の意味がちゃんと伝わった気がした。
それは「ありがとう」かもしれないし、
あるいは「本当に来るの?」という、どこか複雑な気持ちかもしれない。
けれど――もう、僕は決めた。
母さんのことが心配だったのだ。
前回の旅行、僕があの旅を仕掛けたときの罪悪感。
その時の母さんの様子。
今もあれが本当に“良かった”のか、自分の中では答えが出せていない。
でも今回、母さんは“友だちと一緒”に、出かける。
その姿を見届けたいと思った。
心から笑って、楽しんで帰ってくるかどうかを、そばで見ていたい。
できれば、自分もその輪の中に加わっていたい。
そんな気持ちが、ほんの少し――たしかにあった。
「じゃあ、男手として、全力でがんばります」
と冗談っぽく言うと、イクミさんが「頼りにしてるわよ〜」と笑って親指を立ててきた。
母さんはその横で、ふっと笑った。
その笑顔は、どこか懐かしくて、やさしかった。
たった一泊二日の温泉旅行。
でも、そこには何かが変わるきっかけがある気がして――
僕は、少し背筋を伸ばした。