旅行が決まってからの数日間、家の空気は明らかにいつもと違っていた。
母さんは、毎日どこか浮き足立っていて、食卓に座ってもスマホばかり見ていた。
「ユキさんが浴衣用の巾着買ったんだって。かわいくてね〜」
「イクミさんはもう新しい下着セット用意してるんだって」
そんな報告が、まるで学生時代のグループLINEを母が読んでるようなテンションで繰り返される。
僕はというと、表面上はうなずいたり、相づちを打ったりしながら、内心ではずっとそわそわしていた。
だって、母さんとその友人3人と、自分が一緒に旅行に行くという構図。
考えれば考えるほど、不思議な組み合わせだ。
(しかも、温泉旅館……)
ふと、脳裏にまたしても妙な妄想がよぎる。
旅館の広間で、浴衣姿の母さんたちがくつろぎながら酒を酌み交わす姿。
そして、少しずつ酔いが回って、言葉も態度も緩んでいく――
(……やめろやめろ、俺)
妄想を振り払うように顔を振るが、母さんたちはと言えば、完全に“旅行モード”に突入していた。
「これで足りるかな?」
リビングのテーブルには、化粧ポーチ、日焼け止め、サプリ、着替え、タオル、温泉用の小袋……
とにかく、詰めても詰めても不安らしく、母さんは何度もカバンを開け直しては詰めなおしていた。
「ねぇ、この服って、変じゃないかな……?」
「どっちでもいいと思うけど……」
「“どっちでもいい”って一番困るのよね〜」
すぐに返事を後悔した。
服のチョイスから靴下の色、髪型まで、母さんの最終確認が止まらない。
夜にはユキさんから電話が来た。
スピーカーモードにして話すものだから、リビング中に会話が響く。
「でさ〜、ヨシカズくんも浴衣着るんでしょ? 絶対似合うって〜」
「やめてよ〜、本人いるのに……」
「えっ、いるの!? 聞こえてた!?」
(聞こえてますよ……)
恥ずかしくて、布団に潜りたくなった。
それでも、どこか楽しそうに笑う母さんを見ていると、悪い気はしなかった。
こんなふうに何かを楽しみにして、準備して、友だちと相談し合っている母さん。
そんな姿を見たのは、たぶん初めてだった。
旅行の前夜、母さんは早めにお風呂に入り、髪を丁寧に乾かしながら言った。
「なんだか緊張してきたなぁ」
「……大丈夫だよ、楽しんでくればいい」
僕がそう言うと、母さんはちょっと驚いたようにこっちを見て、それから笑った。
「ありがとう、ヨシカズ」
その一言で、僕の胸の奥にあったモヤモヤが少し溶けたような気がした。
いよいよ明日。
どんな旅行になるかなんて、まったく予想もつかない。
でも、何かが変わりそうな気がしていた――僕の中でも、母さんの中でも。
旅行当日の朝。
まだ陽が完全に昇りきっていない時間に、僕は目を覚ました。
母さんはすでに起きていて、キッチンで朝食の支度をしていた。
ほんのり焦げたパンの匂いと、コーヒーの湯気。
普段と変わらない、でもどこか落ち着かない朝だった。
「おはよう。ちゃんと寝られた?」
母さんはエプロン姿のまま、ちらりとこっちを見て笑った。
昨日の夜、緊張してると言っていた母さんの表情は、今朝はすっきりしていて、どこか決意すら感じられた。
「まあ、そこそこ」
「支度は済んでる?」
「あとは着替えるだけ」
「よかった。お弁当も作っておいたから、電車の中で食べなさいね」
僕は小さくうなずいた。
小さな紙袋に詰められた、ラップにくるまれたサンドイッチ。
そういうさりげない優しさに、思わず胸がきゅっとなった。
朝7時。
集合は駅前に8時。
僕たちはスーツケースを引いて、家を出た。
駅に着くと、すでにユキさんとイクミさんが待っていた。
二人とも、旅行に向けてばっちりキメた服装だった。
イクミさんは相変わらず明るくて、声が大きい。
「ヨシカズくん、来た来た〜! よろしくね!」
「ユイママが来られなかったのは残念だけど、ヨシカズくんがいてくれて安心よ」
ユキさんはやわらかく笑いながらそう言った。
僕は「よろしくお願いします」と、少し気恥ずかしく返す。
母さんはというと、少し離れた場所で微笑んでいた。
どこか控えめな表情だけど、それがまた母さんらしかった。
8時ちょうどに電車が来て、僕たちは乗り込んだ。
指定席の4人がけ。
僕は通路側に座り、母さんが隣、その向かいにイクミさんとユキさん。
電車が動き出すと、すぐに話し声と笑い声が車内に満ちていった。
旅行の話、家の話、昔の思い出……
母さんたちの話は止まらない。
まるで学生時代に戻ったような雰囲気だ。
僕は窓の外の景色をぼんやりと眺めながら、あらためて思った。
不思議な旅だな、と。
だけど――この空間の中に、自分の居場所がちゃんとあることが、ちょっと嬉しくもあった。
(それにしても……)
ふと脳裏をよぎるのは、やっぱり“あの妄想”。
旅館について、部屋に案内されて、お茶を飲みながら浴衣に着替える母さんたち……
夜、少し酔った勢いで大胆になったり――
(バカか、俺は)
顔を赤らめそうになって、急いで水のペットボトルを飲んだ。
そんな僕の様子に気づいたのか、母さんが小さくささやいた。
「どうしたの? 緊張してるの?」
「いや、別に」
「大丈夫よ。ゆっくり楽しもうね」
その言葉に、僕は小さくうなずいた。
そうだ、これは旅だ。
母さんにとっても、僕にとっても、きっと特別な時間になる。
電車はゆっくりと、山の方へ向かって進んでいく。
その先に、何が待っているのか。
期待と不安と、少しの妄想と。
胸の中にいろんな気持ちを抱えながら、僕はただ静かに、その時間の流れを受け入れていた。
旅館までの道のりは、順調にいくはずだった。
朝の集合も全員時間どおり、天気は快晴、電車の遅延もなし。
これは幸先いいな、なんて思っていたのに――やっぱり人生、そう甘くはないらしい。
電車に揺られてしばらくしたころ、最初の事件は起きた。
「……あれ? 財布が……ない……」
その言葉に、座席全体が静まりかえった。
言ったのはユキさん。
バッグの中を何度もひっくり返してはため息をつく。
「え、ちょっと待って、出るとき持ってたよね?」
「うん……たしかに持ってたはず……でも、ない……!」
慌ててポケットや荷物の中を探すも、出てこない。
まさか……置いてきた? 落とした?
皆が半ばパニックに陥りそうな中、イクミさんが落ち着いた声で言った。
「ユキちゃん、リュックの背面ポケット、見た?」
「あっ……!」
ごそごそと手を伸ばすと、そこにしっかり入っていた。
「も〜〜〜、ほんと心臓止まるかと思った〜〜!!」
ホッとした空気が広がり、車内に笑いが戻った。
母さんも苦笑いして、「ユキさんらしいわね」とこっそりつぶやいていた。
しかし、それだけでは終わらなかった。
次にトラブルを引き起こしたのは、我が母だった。
「えっ、なにこれ……」
トイレ休憩で立ち寄った乗換駅で、お土産屋をひととおり見て回ったあと、母さんが手にしていた紙袋が一つ多いことに気づいた。
「それ、あなたのじゃないの?」
「ううん……これ、誰の……?」
結局、誰の荷物でもなかった。
どうやら、誰かが置き忘れた袋を、間違えて自分のものと一緒に持ってきてしまったらしい。
「ごめんなさい、戻ってくるね!」
慌てて駅の売店に駆け戻る母さん。
「置き忘れた方が来たら、渡しておいてください!」と駅員さんに頭を下げて、走って戻ってくる姿が、妙に子どもみたいでかわいらしかった。
「しっかりしてるようで、抜けてるとこあるんだよな〜、うちの母さん……」
ぼそっと言った僕に、ユキさんが笑いながら同意する。
「でも、それがまた可愛いのよね〜」
……その「可愛い」、今後二度と使わないでください。と心の中でツッコんだ。
そんなこんなで、やっと目的の駅に着いた頃には、全員少しお疲れ気味だった。
が、最後のハプニングが待っていた。
送迎バスが、来ていない。
「え……?」
「予約、ちゃんとしたよね?」
「うん、したよ? したと思う……多分……」
ユキさんがまた不安げにスマホを確認し始める。
しばらくして、母さんがあ、と声を上げた。
「ごめんなさい、時間……30分早く伝えちゃってたかも……!」
「え〜! もう〜!」
今度ばかりは全員に責められ、母さんは平謝り。
仕方ないので、駅のベンチで一休みすることになった。
結局、バスは予定どおりの時刻にやってきて、なんとか全員、無事に乗車。
エアコンの効いた車内で、僕たちはようやく深いため息をついた。
「ねえ……これがもう一泊だったら、体力もたなかったかも」
ユキさんがぼやくと、みんなが笑いながらうなずいた。
それでも、どこか楽しそうだった。
ハプニング続きではあったけれど、それも“旅”の一部なのだと思えば、悪くない。
バスの窓から見える山の緑が、だんだんと深くなっていく。
空の色も変わってきた。
いよいよ、目的の温泉旅館は近い。
(さて……問題はここからだ)
僕は、母さんたちがこの旅でどんな表情を見せるのか、そして自分の妄想がどこまで現実に揺さぶられるのか――
複雑な気持ちを抱えたまま、静かに深呼吸した。