※この作品はR-18です。

母の写真 日常の向こう側   作:松田義和

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第十八章 新たなる旅立ち

旅行が決まってからの数日間、家の空気は明らかにいつもと違っていた。

母さんは、毎日どこか浮き足立っていて、食卓に座ってもスマホばかり見ていた。

「ユキさんが浴衣用の巾着買ったんだって。かわいくてね〜」

「イクミさんはもう新しい下着セット用意してるんだって」

そんな報告が、まるで学生時代のグループLINEを母が読んでるようなテンションで繰り返される。

 

僕はというと、表面上はうなずいたり、相づちを打ったりしながら、内心ではずっとそわそわしていた。

だって、母さんとその友人3人と、自分が一緒に旅行に行くという構図。

考えれば考えるほど、不思議な組み合わせだ。

 

(しかも、温泉旅館……)

 

ふと、脳裏にまたしても妙な妄想がよぎる。

旅館の広間で、浴衣姿の母さんたちがくつろぎながら酒を酌み交わす姿。

そして、少しずつ酔いが回って、言葉も態度も緩んでいく――

(……やめろやめろ、俺)

 

妄想を振り払うように顔を振るが、母さんたちはと言えば、完全に“旅行モード”に突入していた。

 

「これで足りるかな?」

リビングのテーブルには、化粧ポーチ、日焼け止め、サプリ、着替え、タオル、温泉用の小袋……

とにかく、詰めても詰めても不安らしく、母さんは何度もカバンを開け直しては詰めなおしていた。

 

「ねぇ、この服って、変じゃないかな……?」

 

「どっちでもいいと思うけど……」

 

「“どっちでもいい”って一番困るのよね〜」

 

すぐに返事を後悔した。

服のチョイスから靴下の色、髪型まで、母さんの最終確認が止まらない。

 

夜にはユキさんから電話が来た。

スピーカーモードにして話すものだから、リビング中に会話が響く。

 

「でさ〜、ヨシカズくんも浴衣着るんでしょ? 絶対似合うって〜」

「やめてよ〜、本人いるのに……」

「えっ、いるの!? 聞こえてた!?」

 

(聞こえてますよ……)

 

恥ずかしくて、布団に潜りたくなった。

 

それでも、どこか楽しそうに笑う母さんを見ていると、悪い気はしなかった。

こんなふうに何かを楽しみにして、準備して、友だちと相談し合っている母さん。

そんな姿を見たのは、たぶん初めてだった。

 

旅行の前夜、母さんは早めにお風呂に入り、髪を丁寧に乾かしながら言った。

 

「なんだか緊張してきたなぁ」

「……大丈夫だよ、楽しんでくればいい」

 

僕がそう言うと、母さんはちょっと驚いたようにこっちを見て、それから笑った。

 

「ありがとう、ヨシカズ」

 

その一言で、僕の胸の奥にあったモヤモヤが少し溶けたような気がした。

 

いよいよ明日。

どんな旅行になるかなんて、まったく予想もつかない。

でも、何かが変わりそうな気がしていた――僕の中でも、母さんの中でも。

 

 

 

旅行当日の朝。

まだ陽が完全に昇りきっていない時間に、僕は目を覚ました。

母さんはすでに起きていて、キッチンで朝食の支度をしていた。

ほんのり焦げたパンの匂いと、コーヒーの湯気。

普段と変わらない、でもどこか落ち着かない朝だった。

 

「おはよう。ちゃんと寝られた?」

 

母さんはエプロン姿のまま、ちらりとこっちを見て笑った。

昨日の夜、緊張してると言っていた母さんの表情は、今朝はすっきりしていて、どこか決意すら感じられた。

 

「まあ、そこそこ」

 

「支度は済んでる?」

 

「あとは着替えるだけ」

 

「よかった。お弁当も作っておいたから、電車の中で食べなさいね」

 

僕は小さくうなずいた。

小さな紙袋に詰められた、ラップにくるまれたサンドイッチ。

そういうさりげない優しさに、思わず胸がきゅっとなった。

 

朝7時。

集合は駅前に8時。

僕たちはスーツケースを引いて、家を出た。

 

駅に着くと、すでにユキさんとイクミさんが待っていた。

二人とも、旅行に向けてばっちりキメた服装だった。

イクミさんは相変わらず明るくて、声が大きい。

 

「ヨシカズくん、来た来た〜! よろしくね!」

 

「ユイママが来られなかったのは残念だけど、ヨシカズくんがいてくれて安心よ」

 

ユキさんはやわらかく笑いながらそう言った。

僕は「よろしくお願いします」と、少し気恥ずかしく返す。

 

母さんはというと、少し離れた場所で微笑んでいた。

どこか控えめな表情だけど、それがまた母さんらしかった。

 

8時ちょうどに電車が来て、僕たちは乗り込んだ。

指定席の4人がけ。

僕は通路側に座り、母さんが隣、その向かいにイクミさんとユキさん。

 

電車が動き出すと、すぐに話し声と笑い声が車内に満ちていった。

旅行の話、家の話、昔の思い出……

母さんたちの話は止まらない。

まるで学生時代に戻ったような雰囲気だ。

 

僕は窓の外の景色をぼんやりと眺めながら、あらためて思った。

不思議な旅だな、と。

だけど――この空間の中に、自分の居場所がちゃんとあることが、ちょっと嬉しくもあった。

 

(それにしても……)

 

ふと脳裏をよぎるのは、やっぱり“あの妄想”。

旅館について、部屋に案内されて、お茶を飲みながら浴衣に着替える母さんたち……

夜、少し酔った勢いで大胆になったり――

 

(バカか、俺は)

 

顔を赤らめそうになって、急いで水のペットボトルを飲んだ。

そんな僕の様子に気づいたのか、母さんが小さくささやいた。

 

「どうしたの? 緊張してるの?」

 

「いや、別に」

 

「大丈夫よ。ゆっくり楽しもうね」

 

その言葉に、僕は小さくうなずいた。

そうだ、これは旅だ。

母さんにとっても、僕にとっても、きっと特別な時間になる。

 

電車はゆっくりと、山の方へ向かって進んでいく。

その先に、何が待っているのか。

期待と不安と、少しの妄想と。

胸の中にいろんな気持ちを抱えながら、僕はただ静かに、その時間の流れを受け入れていた。

 

 

旅館までの道のりは、順調にいくはずだった。

 

朝の集合も全員時間どおり、天気は快晴、電車の遅延もなし。

これは幸先いいな、なんて思っていたのに――やっぱり人生、そう甘くはないらしい。

 

電車に揺られてしばらくしたころ、最初の事件は起きた。

 

「……あれ? 財布が……ない……」

 

その言葉に、座席全体が静まりかえった。

言ったのはユキさん。

バッグの中を何度もひっくり返してはため息をつく。

 

「え、ちょっと待って、出るとき持ってたよね?」

 

「うん……たしかに持ってたはず……でも、ない……!」

 

慌ててポケットや荷物の中を探すも、出てこない。

まさか……置いてきた? 落とした?

皆が半ばパニックに陥りそうな中、イクミさんが落ち着いた声で言った。

 

「ユキちゃん、リュックの背面ポケット、見た?」

 

「あっ……!」

 

ごそごそと手を伸ばすと、そこにしっかり入っていた。

 

「も〜〜〜、ほんと心臓止まるかと思った〜〜!!」

 

ホッとした空気が広がり、車内に笑いが戻った。

母さんも苦笑いして、「ユキさんらしいわね」とこっそりつぶやいていた。

 

しかし、それだけでは終わらなかった。

 

次にトラブルを引き起こしたのは、我が母だった。

 

「えっ、なにこれ……」

 

トイレ休憩で立ち寄った乗換駅で、お土産屋をひととおり見て回ったあと、母さんが手にしていた紙袋が一つ多いことに気づいた。

 

「それ、あなたのじゃないの?」

 

「ううん……これ、誰の……?」

 

結局、誰の荷物でもなかった。

どうやら、誰かが置き忘れた袋を、間違えて自分のものと一緒に持ってきてしまったらしい。

 

「ごめんなさい、戻ってくるね!」

 

慌てて駅の売店に駆け戻る母さん。

「置き忘れた方が来たら、渡しておいてください!」と駅員さんに頭を下げて、走って戻ってくる姿が、妙に子どもみたいでかわいらしかった。

 

「しっかりしてるようで、抜けてるとこあるんだよな〜、うちの母さん……」

 

ぼそっと言った僕に、ユキさんが笑いながら同意する。

 

「でも、それがまた可愛いのよね〜」

 

……その「可愛い」、今後二度と使わないでください。と心の中でツッコんだ。

 

そんなこんなで、やっと目的の駅に着いた頃には、全員少しお疲れ気味だった。

 

が、最後のハプニングが待っていた。

 

送迎バスが、来ていない。

 

「え……?」

 

「予約、ちゃんとしたよね?」

 

「うん、したよ? したと思う……多分……」

 

ユキさんがまた不安げにスマホを確認し始める。

しばらくして、母さんがあ、と声を上げた。

 

「ごめんなさい、時間……30分早く伝えちゃってたかも……!」

 

「え〜! もう〜!」

 

今度ばかりは全員に責められ、母さんは平謝り。

仕方ないので、駅のベンチで一休みすることになった。

 

結局、バスは予定どおりの時刻にやってきて、なんとか全員、無事に乗車。

エアコンの効いた車内で、僕たちはようやく深いため息をついた。

 

「ねえ……これがもう一泊だったら、体力もたなかったかも」

 

ユキさんがぼやくと、みんなが笑いながらうなずいた。

それでも、どこか楽しそうだった。

ハプニング続きではあったけれど、それも“旅”の一部なのだと思えば、悪くない。

 

バスの窓から見える山の緑が、だんだんと深くなっていく。

空の色も変わってきた。

いよいよ、目的の温泉旅館は近い。

 

(さて……問題はここからだ)

 

僕は、母さんたちがこの旅でどんな表情を見せるのか、そして自分の妄想がどこまで現実に揺さぶられるのか――

複雑な気持ちを抱えたまま、静かに深呼吸した。

 

 

 

 

 

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