旅館に到着したのは、午後一時を少し回った頃だった。
山間の緑に囲まれたその旅館は、こぢんまりとしていながらも品があり、建物の外観には風格が漂っていた。
木造の玄関をくぐった瞬間、ふわりと香るヒノキの匂いと、どこか懐かしい畳の感触が、心をすっと落ち着かせてくれる。
「わあ……すてき……」
ユキさんが思わずつぶやき、それに続いてイクミさんも「ほら見なさい、こういうとこに来ると元気出るのよ」と笑った。
母さんも少し緊張気味に、けれど嬉しそうな表情で玄関の飾り棚に目をやっていた。
仲居さんに案内されて向かったのは、離れに近い静かな客室だった。
部屋に入ると、まず広縁の向こうに大きなガラス戸。窓から見えるのは、青々とした木々のざわめきと、小さな池。
蝉の声が遠くに聞こえ、夏の午後のけだるさと静けさがじんわりと包み込んでくる。
「なんだか、贅沢ね……」と母さんが呟いた。
部屋は、二間続きの和室だった。
手前の八畳ほどの部屋がくつろぎ用の客間、奥が寝室になっているらしく、襖で仕切られていた。
襖は閉めても完全に音を遮断するわけではなく、柔らかい音がかすかに伝わってくる造り。
つまり、話し声も動きも、それなりに伝わってくるということだ。
「まあ、夜中にイビキかいたらバレるわね」とユキさんが笑い、
「ヨシカズくん、私がうるさかったら起こしてね」なんて軽口を飛ばすと、場の空気が一気にほぐれた。
僕は苦笑しながらも、なんとなく落ち着かずに荷物を片隅に置いた。
不思議な感覚だった。普段の“母さん”とは少し違う、“女性たちの時間”に、自分だけ紛れ込んでしまったような、そんな居心地の悪さと、ほんの少しの興味と。
仲居さんが冷たいおしぼりとお茶を持ってきて、「お夕食は六時半でよろしいですか?」と訊ねてきたとき、
母さんが少し迷ってから「はい、それでお願いします」と答えた。
時計を見れば、まだ夕方まで少し時間がある。
僕たちはそれぞれ荷物をほどきながら、
どんなふうにこの時間を過ごすのか、なんとなく探り合っているような、そんな静かな空気に包まれていた。
部屋に荷物を置いてひと息ついたあと、母さんたちは少し相談するように顔を見合わせて、
「じゃあ……ひとっ風呂、行きますか」とイクミさんが声をかけた。
「そうね、汗かいたし、明るいうちに入るのも気持ちいいかも」
ユキさんが立ち上がり、すぐに母さんも頷いた。
僕はまだ座布団に腰を下ろしたまま、黙ってそのやりとりを聞いていた。
内心、ちょっと戸惑っていた。
一緒に温泉に入るわけじゃないのは分かってる――でも「母さんたちが温泉に向かう」という行為自体に、どこか妙な感情が湧いてしまう。
「ヨシカズくんも、あとで入ってきたらいいわよ。男湯、たぶん空いてると思うし」と母さん。
「あ、うん……」
曖昧に頷きながらも、頭の中は少しざわざわしていた。
浴衣に着替えた母さんたちは、鮮やかな色柄の帯をそれぞれに締めて、旅館の廊下を笑いながら歩いていく。
普段の“近所の母さんたち”というより、どこか遠出に来た“女友達”のような雰囲気。
その後ろ姿をぼんやり見送っていたら、ユキさんが振り返って軽く手を振ってきた。
「のぞいちゃダメよ〜」なんて茶化されて、思わず「しないよ」と苦笑で返す。
そのやりとりに、母さんも小さく笑っていた。
その笑顔がなんだかいつもより柔らかくて、僕はまた胸の奥がざわつくのを感じた。
廊下の先、温泉への暖簾がゆらりと揺れる。
彼女たちはその向こうへと姿を消した。
湯気の立ちこめる大浴場。
木の香りと、岩造りの露天風呂。
――そのなかで、母さんたちは、どんな表情で、どんな話をしているのだろう。
僕は一人、残された部屋で、天井を見上げながらため息をついた。
落ち着かない気持ちを抱えながら。
「……俺も、あとで入ろうかな」
小さくつぶやいて、まだぬるいお茶を一口飲んだ。
しばらくのんびりして、僕はようやく重い腰を上げて男湯へと向かった。
まだ母さんたちが戻ってきていないことを確認し、脱衣所で浴衣の帯を緩めながら、なんとなく気分を切り替えようとする。
温泉にでも入れば、少しはこのざわついた気持ちも落ち着くかもしれない、と思ったのだ。
長い廊下をひとり歩いていると、角を曲がったところで数人の声が聞こえてきた。
「いや〜、さすがに暑くて汗が止まらんよ」
「ビールはやっぱり風呂のあとに限るな」
「でもこの時間なら、まだ女湯の方も空いてるんじゃねえか?」
笑い声と共に現れたのは、浴衣姿の中年男性3人組だった。
50代くらいだろうか。
日焼けした顔と、地元の人間とも観光客ともつかない独特の雰囲気。
みな口元に笑みを浮かべているが、どこか馴れ馴れしさが鼻につく。
僕と彼らの距離が縮まる。
彼らの目が、一瞬こちらに向いた。
なぜだか、その一瞬が妙に気になった。
「あれ、若い子もいるじゃん」
「学生さんかな?」
「いやいや、もしかして…」
ひそひそとした会話の後、すぐにまた笑い声にかき消されたが、
僕の胸にはどこか引っかかる感触だけが残った。
(あの3人……まさか)
頭に浮かぶのは、さっき女湯へと向かっていった母さんたちの姿。
まさか接点があるはずはない――と思いたい。
でも、同じ時間、同じ旅館、同じ温泉。
(なんか、嫌な予感するな……)
そんなふうに感じながらも、僕はただ黙って会釈し、その3人組とすれ違った。
彼らはそのまま廊下を曲がって消えていった。
心が落ち着くはずの温泉へ向かう途中、なぜか僕の胸はますますざわついていた。
浴場の暖簾がゆらめく先へと足を進めながら、僕はそっと息を吐いた。
(何もなければいいけど……)
不安の正体がまだ曖昧なまま、僕はその暖簾をくぐっていった。
湯気が立ちこめる浴場は、まるで別世界のようだった。
人の気配もなく、静けさの中に湯が注がれる音だけが響いている。
湯船に入ると、足の先からじわじわと熱が伝わってくる。
目を閉じると、昼間の出来事や、ふとした会話が思い出されては、湯の中に消えていった。
自分の胸の中に引っかかっていた感情が、少しずつ溶けていくような気がした。
それでも完全には消えない。
温かさの中に、どこか不安や戸惑いも混じっていて――
だからこそ、この一人きりの時間が、ありがたかった。