※この作品はR-18です。

母の写真 日常の向こう側   作:松田義和

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第十九章 旅館到着

旅館に到着したのは、午後一時を少し回った頃だった。

山間の緑に囲まれたその旅館は、こぢんまりとしていながらも品があり、建物の外観には風格が漂っていた。

木造の玄関をくぐった瞬間、ふわりと香るヒノキの匂いと、どこか懐かしい畳の感触が、心をすっと落ち着かせてくれる。

 

「わあ……すてき……」

ユキさんが思わずつぶやき、それに続いてイクミさんも「ほら見なさい、こういうとこに来ると元気出るのよ」と笑った。

母さんも少し緊張気味に、けれど嬉しそうな表情で玄関の飾り棚に目をやっていた。

 

仲居さんに案内されて向かったのは、離れに近い静かな客室だった。

部屋に入ると、まず広縁の向こうに大きなガラス戸。窓から見えるのは、青々とした木々のざわめきと、小さな池。

蝉の声が遠くに聞こえ、夏の午後のけだるさと静けさがじんわりと包み込んでくる。

 

「なんだか、贅沢ね……」と母さんが呟いた。

 

部屋は、二間続きの和室だった。

手前の八畳ほどの部屋がくつろぎ用の客間、奥が寝室になっているらしく、襖で仕切られていた。

襖は閉めても完全に音を遮断するわけではなく、柔らかい音がかすかに伝わってくる造り。

つまり、話し声も動きも、それなりに伝わってくるということだ。

 

「まあ、夜中にイビキかいたらバレるわね」とユキさんが笑い、

「ヨシカズくん、私がうるさかったら起こしてね」なんて軽口を飛ばすと、場の空気が一気にほぐれた。

 

僕は苦笑しながらも、なんとなく落ち着かずに荷物を片隅に置いた。

不思議な感覚だった。普段の“母さん”とは少し違う、“女性たちの時間”に、自分だけ紛れ込んでしまったような、そんな居心地の悪さと、ほんの少しの興味と。

 

仲居さんが冷たいおしぼりとお茶を持ってきて、「お夕食は六時半でよろしいですか?」と訊ねてきたとき、

母さんが少し迷ってから「はい、それでお願いします」と答えた。

 

時計を見れば、まだ夕方まで少し時間がある。

 

僕たちはそれぞれ荷物をほどきながら、

どんなふうにこの時間を過ごすのか、なんとなく探り合っているような、そんな静かな空気に包まれていた。

 

部屋に荷物を置いてひと息ついたあと、母さんたちは少し相談するように顔を見合わせて、

「じゃあ……ひとっ風呂、行きますか」とイクミさんが声をかけた。

 

「そうね、汗かいたし、明るいうちに入るのも気持ちいいかも」

ユキさんが立ち上がり、すぐに母さんも頷いた。

 

僕はまだ座布団に腰を下ろしたまま、黙ってそのやりとりを聞いていた。

内心、ちょっと戸惑っていた。

一緒に温泉に入るわけじゃないのは分かってる――でも「母さんたちが温泉に向かう」という行為自体に、どこか妙な感情が湧いてしまう。

 

「ヨシカズくんも、あとで入ってきたらいいわよ。男湯、たぶん空いてると思うし」と母さん。

 

「あ、うん……」

曖昧に頷きながらも、頭の中は少しざわざわしていた。

 

浴衣に着替えた母さんたちは、鮮やかな色柄の帯をそれぞれに締めて、旅館の廊下を笑いながら歩いていく。

普段の“近所の母さんたち”というより、どこか遠出に来た“女友達”のような雰囲気。

その後ろ姿をぼんやり見送っていたら、ユキさんが振り返って軽く手を振ってきた。

 

「のぞいちゃダメよ〜」なんて茶化されて、思わず「しないよ」と苦笑で返す。

 

そのやりとりに、母さんも小さく笑っていた。

その笑顔がなんだかいつもより柔らかくて、僕はまた胸の奥がざわつくのを感じた。

 

廊下の先、温泉への暖簾がゆらりと揺れる。

彼女たちはその向こうへと姿を消した。

 

湯気の立ちこめる大浴場。

木の香りと、岩造りの露天風呂。

――そのなかで、母さんたちは、どんな表情で、どんな話をしているのだろう。

 

僕は一人、残された部屋で、天井を見上げながらため息をついた。

落ち着かない気持ちを抱えながら。

 

「……俺も、あとで入ろうかな」

 

小さくつぶやいて、まだぬるいお茶を一口飲んだ。

 

 

しばらくのんびりして、僕はようやく重い腰を上げて男湯へと向かった。

まだ母さんたちが戻ってきていないことを確認し、脱衣所で浴衣の帯を緩めながら、なんとなく気分を切り替えようとする。

温泉にでも入れば、少しはこのざわついた気持ちも落ち着くかもしれない、と思ったのだ。

 

長い廊下をひとり歩いていると、角を曲がったところで数人の声が聞こえてきた。

 

「いや〜、さすがに暑くて汗が止まらんよ」

「ビールはやっぱり風呂のあとに限るな」

「でもこの時間なら、まだ女湯の方も空いてるんじゃねえか?」

 

笑い声と共に現れたのは、浴衣姿の中年男性3人組だった。

50代くらいだろうか。

日焼けした顔と、地元の人間とも観光客ともつかない独特の雰囲気。

みな口元に笑みを浮かべているが、どこか馴れ馴れしさが鼻につく。

 

僕と彼らの距離が縮まる。

彼らの目が、一瞬こちらに向いた。

なぜだか、その一瞬が妙に気になった。

 

「あれ、若い子もいるじゃん」

「学生さんかな?」

「いやいや、もしかして…」

 

ひそひそとした会話の後、すぐにまた笑い声にかき消されたが、

僕の胸にはどこか引っかかる感触だけが残った。

 

(あの3人……まさか)

 

頭に浮かぶのは、さっき女湯へと向かっていった母さんたちの姿。

まさか接点があるはずはない――と思いたい。

でも、同じ時間、同じ旅館、同じ温泉。

 

(なんか、嫌な予感するな……)

 

そんなふうに感じながらも、僕はただ黙って会釈し、その3人組とすれ違った。

彼らはそのまま廊下を曲がって消えていった。

 

心が落ち着くはずの温泉へ向かう途中、なぜか僕の胸はますますざわついていた。

浴場の暖簾がゆらめく先へと足を進めながら、僕はそっと息を吐いた。

 

(何もなければいいけど……)

 

不安の正体がまだ曖昧なまま、僕はその暖簾をくぐっていった。

 

湯気が立ちこめる浴場は、まるで別世界のようだった。

人の気配もなく、静けさの中に湯が注がれる音だけが響いている。

 

湯船に入ると、足の先からじわじわと熱が伝わってくる。

目を閉じると、昼間の出来事や、ふとした会話が思い出されては、湯の中に消えていった。

自分の胸の中に引っかかっていた感情が、少しずつ溶けていくような気がした。

 

それでも完全には消えない。

温かさの中に、どこか不安や戸惑いも混じっていて――

だからこそ、この一人きりの時間が、ありがたかった。

 

 

 

 

 

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