湯から上がる頃には、心も体もすっかりほぐれていた。
温泉というものは、やっぱりすごい。肩にのしかかっていた色んなものが、湯気と一緒にどこかへ昇っていったような気がする。
脱衣所で浴衣を着直し、まだほんのりと火照った頬を手ぬぐいでぬぐいながら、僕はゆっくりと廊下を歩く。
旅館の館内はしんと静まり返っていて、木の床を踏む足音だけが小さく響いている。
窓の外には、夕暮れの名残りが淡く滲んでいた。空は紫がかった青に沈みかけていて、遠くでヒグラシの声が聞こえる。
ああ、この感じ――夏の温泉宿って、こんなに情緒があるものだったのか、と改めて思う。
部屋まではもうすぐ、というところで、ふと耳に人の声が届いた。
廊下の曲がり角の先、すぐそばにある小さな談話スペース。照明の落ちたその一角から、賑やかな話し声がかすかに聞こえてきた。
「それでさあ、あの人ったらまた……」
「ほんと? うわぁ、やっぱり〜」
「へえ、それって偶然なの?」
どこか聞き覚えのある声――それは、母さんたちだった。
ユキさん、イクミさん、そして母さんの声もまじっている。
僕は思わず立ち止まった。
それ以上進むのが、ためらわれた。
なんだろう、この感じ。
別に悪いことをしているわけじゃないはずなのに、どこか「のぞいてはいけない場所」に近づいてしまったような、そんな気がした。
彼女たちの声は、さっき僕が風呂で感じていたのとは違う種類の“解放”に満ちていた。
まるで、何かから自由になった大人の女性たちの時間――そんな空気を帯びていた。
僕はそっと、その場を離れようとした。
でも、そのとき――さらに別の声が聞こえた。
低く、男性の声。
「そうなんですよ、たまたま日程が一緒で。偶然にも部屋も近くて」
(……え?)
胸の奥が、ふっとざわめいた。
そして僕は、思わずその場に立ち尽くしてしまった。
(……誰だ?)
さっきの声の主を、僕は無意識に思い出そうとしていた。
たしかに聞いたことのない声――けれど、どこか引っかかるような、そんな響き。
談話スペースにいるのは母さんたち、そして……見知らぬ男たち。
(何を話してるんだろう? どういう関係?)
考えれば考えるほど、不安だけが膨らんでいく。
ただの世間話かもしれない。偶然隣り合っただけかもしれない。
でも、この旅館の中で――あの3人組の男たちとすれ違った記憶が、僕の胸をざわつかせる。
そして気づけば、僕は足を踏み出していた。
廊下の先、薄暗い灯りの下に、母さんたちの背中が見える。
その向かいに座るのは、やっぱり、さっきの3人の男たちだった。
手には湯上がりのジュースや缶の飲み物。
特に深刻そうな雰囲気はない。むしろ和やかで、笑顔さえこぼれている。
けれど、その光景に安堵はなかった。
むしろ、そこに“自分の入れない空間”ができてしまっていることが、どうしようもなく不安だった。
僕は足音をわざと立てるようにして、歩み寄った。
「母さん」
声をかけた瞬間、母さんがこちらを振り返った。
そして少し驚いたような顔をしたあと、笑顔を浮かべた。
「あら、もうお風呂から上がったの?」
僕はこくりと頷く。
母さんの隣にいた男のひとり――短髪で日焼けした中年の男性が、軽く頭を下げた。
「ああ、お坊ちゃんか。どうもこんばんは。さっきすれ違ったね」
その一言で、やはり彼らが“あの時の3人”だと確信した。
僕の返事を待たず、彼は名乗った。
「こう見えてコウジって言います。あっちはリクオ、そっちがミキオ。近くで仕事しててね、たまたま今夜泊まりになってさ」
なんでもないようにそう言いながら、彼らは母さんたちの目をうかがうように笑っていた。
まるで、“この距離感はもうできあがってるから”とでも言いたげに。
僕は笑顔の裏にある何かを、言葉にできないまま感じ取っていた。
コウジと名乗った男が軽くうなずきながら腰を上げた。
それに続くように、リクオ、ミキオも立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ戻りますか。邪魔しても悪いしな」
ミキオがそう言って肩をすくめると、リクオがちらりと僕の方を見て笑った。
あくまでフレンドリーな調子。けれど、どこかその視線が引っかかる。
「せっかくだし、アドレス交換しとこうか?」
「え?」
僕は思わず聞き返してしまった。
「いや、ほら。俺たちもたまにこっち来るし、なんかあったときのためにさ。連絡取れた方がいいだろ?」
コウジが当然のような顔で言う。
リクオとミキオも笑ってうなずいている。
「心配しないで。変なことに使ったりしないからさ」
――それが逆に、僕の警戒心をくすぐった。
母さんたちの前であからさまなことは言わない。
でも、だからこそ慎重な“距離の詰め方”をしてくるように思えた。
「……わかりました」
断る理由もなく、僕はスマホを取り出した。
その瞬間、背後で母さんが小さく言った。
「あなただけが連絡先を知ってるなら安心だね」
母さんの声は穏やかだった。
それが返って、僕には重く響いた。
コウジ、リクオ、ミキオ――
名前と顔が、僕の中に妙な重みを持って残る。
男たちは簡単に連絡先を交換すると、また笑顔を浮かべて手を振った。
「じゃあ、またどこかで」
そんな言葉を残しながら、彼らは談話スペースをあとにした。
残された僕は、スマホに保存された連絡先を見つめたまま、立ち尽くしていた。
胸の奥に、得体の知れない不安がゆっくりと広がっていった。
男たちが廊下の向こうへと消えていったあと、談話スペースにはふたたび穏やかな空気が戻っていた。
けれど、僕の心の中では、まださっきのやりとりの余韻がじわじわと残っていた。
「……ヨシカズ」
母さんが優しい声で僕を呼んだ。
「びっくりした? 急にあんな人たちと話してて」
「いや、まあ……」
言葉を濁しながら僕は、視線を母さんたちの顔に向けた。
ユキさんは何も気にしていない様子で笑っていたし、イクミさんはソファに腰を下ろしてお茶を口にしていた。
「変な人たちじゃないから、大丈夫よ。さっき温泉でちょっと話しただけなの」
母さんが、説明するように言った。
「向こうも地元の人だって言ってたし、ずっと昔からこの旅館に来てるって。おせっかいなおじさんたちって感じで」
「でも、あんまりそういう人たちと仲良くしすぎない方が……」
僕がつい口を挟むと、母さんは苦笑いしながら言った。
「わかってるわよ。だから、あなたにだけよ、連絡先を交換したの。」
「……」
僕は黙った。
母さんの言ってることは筋が通ってるし、理屈では理解できた。
でも、どこか釈然としない。
母さんたちが――特に母さんが、僕の知らないところで、誰かと親しげにしているのが引っかかっている。
「あなた、焼いてるの?」
ユキさんがからかうように笑った。
「ち、ちがいますよ」
思わず声が上ずって、三人の笑い声が小さく広がった。
「ヨシカズくん、やさしいんだね。お母さん思いで、ほんとに羨ましいわ」
イクミさんがそう言うと、母さんは照れたように「もう、やめてよ」と言って頬をかいた。
そのやりとりを、僕は少し複雑な思いで眺めていた。
(本当に、ただそれだけなら――いいんだけどな)
夕食の時間が近づいていた。
談話スペースをあとにして、僕たちはそれぞれの部屋へと戻ることにした。
廊下を歩きながら、母さんがふいに僕の隣に並ぶ。
「ありがとうね、ヨシカズ」
「なにが?」
「今日、ついてきてくれて。やっぱり、あなたがいてくれると安心するわ」
その言葉に、僕はうまく返事ができなかった。
少しうつむいたまま、小さく「うん」とだけ答えると、母さんはそれ以上何も言わず、静かに歩き続けた。
旅館の床のきしむ音が、妙に耳に残っていた。
夕食は、大広間の一角にある半個室の座敷だった。
障子で仕切られた空間に、すでに料理がずらりと並んでいて、僕は思わず「うわ」と声をもらしていた。
「すごいね、これ……」
「でしょ? 昼間ユイちゃんのママが見つけてくれた旅館だけあるわよね」
と母さんが得意げに笑った。
テーブルの上には、季節の前菜の盛り合わせ、小鉢に分けられた煮物や酢の物、竹の器に入った冷たい茶碗蒸し、それにまだ火を入れていない小鍋や、揚げ物用の天ぷら粉まで――どれも色とりどりで、目にも鮮やかだった。
仲居さんが「本日は信州牛のしゃぶしゃぶと、山菜のてんぷらをご用意しております」と説明してくれたとき、イクミさんが「やった!」と嬉しそうに両手を合わせる。
「こういうの、家じゃなかなかできないからねえ」
「でも、これ全部食べられるかなあ」
とユキさんが箸を手に取りながらつぶやいた。
「大丈夫よ。ヨシカズくんが手伝ってくれるでしょ?」
「えっ、僕ですか?」
「もちろん。若いんだから、いっぱい食べて」
母さんが笑う。
その笑顔を見て、なぜか胸の奥がきゅっとなる。
――この笑顔、最近はあまり見られなかったかもしれない。
久しぶりに“誰かの母親”ではなく、“一人の女性”として、母さんが自然に笑っている気がした。
その一方で、どうしても気になってしまうこともある。
あの3人組――コウジ、リクオ、ミキオ。
どこか軽くて、どこか馴れ馴れしい彼らの姿が、頭の端にこびりついたままだった。
「……今日、ロビーで少し話しただけなのよ」
ふと、母さんが小声でそうつぶやいた。
「え?」
「気にしてるんでしょ? さっきの人たちのこと」
言いながら、僕の茶碗にご飯をよそってくれる。
「……うん、まあ」
「でも大丈夫。何かあったら、あなたがいるしね」
なんて軽く言うから、余計に心配になる。
けれど、母さんのその目は、どこか安心しきっているようにも見えた。
(……僕は、その“安心”を裏切らないようにしないと)
そんな決意にも似た気持ちを、僕は静かに胸に宿していた。
しゃぶしゃぶ鍋の湯がぐつぐつと音を立て始める。
肉の赤が、やがてほんのりと白く変わっていく様子を見ながら、僕たちはゆっくりと箸を進めた。
笑い声。
湯気。
湯上がりの頬の赤み。
夏の夜は、静かに、けれど確実に更けていった――。
食事を終えるころには、みんなの顔がほんのり紅潮していた。
デザートの水ようかんと季節の果物をつつきながら、会話もゆったりとしたものになっていく。
「いやあ、おなかいっぱいだね〜」
とイクミさんが椅子から立ち上がり、
「明日の朝ごはん入るかしら、こんなに食べたら」
とユキさんが笑いながら続ける。
母さんもくすっと笑って、何気なく僕の方を見る。
その目が、なんだか少し嬉しそうで、僕は気恥ずかしくなって視線を外した。
部屋に戻ると、すでに布団が敷かれていた。
襖で仕切られた二部屋の真ん中に、四枚の布団がきちんと並べられている。
当然のように、僕の分も並べられていた。
(……え、ここで寝るのか?)
母さんたち3人と、僕。
もちろん、別におかしなことじゃない。旅館なんて、こんなものだろう。
でも、狭い空間に大人の女3人と寝るという事実が、急に現実味を帯びて迫ってきた。
僕は思い切って言った。
「……あのさ、俺、隣の部屋で一人で寝るよ」
母さんが一瞬驚いた顔をした。
「え? でも、せっかくだし……」
「いいよ、静かに寝たいし。ちょっと、落ち着かないから」
少し嘘を混ぜた。
実際は、落ち着かなさというより――混乱に近かった。
母さんは困ったように笑って、「そう?」とだけ言った。
僕は自分の布団を引きずって、隣の部屋へ移動させた。
木の床を布団が擦れる音が、妙に響く。
そちらの部屋はすこし暗く、窓がひとつあるだけの簡素な空間だった。
でも、その静けさがありがたかった。
布団を敷き直し、ちょっと息をつく。
もう一度部屋をのぞくと、母さんたちはそれぞれ荷物の整理や洗面所の支度をしていて、特に気に留めている様子はなかった。
(……よかった)
自分でも理由がはっきりしないまま、なぜかほっとした。
隣の部屋に戻って、浴衣の襟を直し、横になる。
障子越しにかすかに聞こえる笑い声と話し声。
その音が妙に遠く感じる。
(これでよかったんだよな……)
でも、布団に潜ったあとも、しばらく目は冴えたままだった。
母さんたちが隣にいて、男たちと知り合って、どこかで何かが進んでいるかもしれない――
そんな妄想じみた不安が、また胸の中に湧いてきていた。