※この作品はR-18です。

母の写真 日常の向こう側   作:松田義和

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第二十章 不穏な予感

湯から上がる頃には、心も体もすっかりほぐれていた。

温泉というものは、やっぱりすごい。肩にのしかかっていた色んなものが、湯気と一緒にどこかへ昇っていったような気がする。

 

脱衣所で浴衣を着直し、まだほんのりと火照った頬を手ぬぐいでぬぐいながら、僕はゆっくりと廊下を歩く。

旅館の館内はしんと静まり返っていて、木の床を踏む足音だけが小さく響いている。

 

窓の外には、夕暮れの名残りが淡く滲んでいた。空は紫がかった青に沈みかけていて、遠くでヒグラシの声が聞こえる。

ああ、この感じ――夏の温泉宿って、こんなに情緒があるものだったのか、と改めて思う。

 

部屋まではもうすぐ、というところで、ふと耳に人の声が届いた。

廊下の曲がり角の先、すぐそばにある小さな談話スペース。照明の落ちたその一角から、賑やかな話し声がかすかに聞こえてきた。

 

「それでさあ、あの人ったらまた……」

「ほんと? うわぁ、やっぱり〜」

「へえ、それって偶然なの?」

 

どこか聞き覚えのある声――それは、母さんたちだった。

ユキさん、イクミさん、そして母さんの声もまじっている。

 

僕は思わず立ち止まった。

それ以上進むのが、ためらわれた。

 

なんだろう、この感じ。

別に悪いことをしているわけじゃないはずなのに、どこか「のぞいてはいけない場所」に近づいてしまったような、そんな気がした。

 

彼女たちの声は、さっき僕が風呂で感じていたのとは違う種類の“解放”に満ちていた。

まるで、何かから自由になった大人の女性たちの時間――そんな空気を帯びていた。

 

僕はそっと、その場を離れようとした。

でも、そのとき――さらに別の声が聞こえた。

 

低く、男性の声。

 

「そうなんですよ、たまたま日程が一緒で。偶然にも部屋も近くて」

 

(……え?)

 

胸の奥が、ふっとざわめいた。

そして僕は、思わずその場に立ち尽くしてしまった。

 

 

(……誰だ?)

 

さっきの声の主を、僕は無意識に思い出そうとしていた。

たしかに聞いたことのない声――けれど、どこか引っかかるような、そんな響き。

談話スペースにいるのは母さんたち、そして……見知らぬ男たち。

 

(何を話してるんだろう? どういう関係?)

 

考えれば考えるほど、不安だけが膨らんでいく。

ただの世間話かもしれない。偶然隣り合っただけかもしれない。

でも、この旅館の中で――あの3人組の男たちとすれ違った記憶が、僕の胸をざわつかせる。

 

そして気づけば、僕は足を踏み出していた。

 

廊下の先、薄暗い灯りの下に、母さんたちの背中が見える。

その向かいに座るのは、やっぱり、さっきの3人の男たちだった。

 

手には湯上がりのジュースや缶の飲み物。

特に深刻そうな雰囲気はない。むしろ和やかで、笑顔さえこぼれている。

 

けれど、その光景に安堵はなかった。

むしろ、そこに“自分の入れない空間”ができてしまっていることが、どうしようもなく不安だった。

 

僕は足音をわざと立てるようにして、歩み寄った。

 

「母さん」

 

声をかけた瞬間、母さんがこちらを振り返った。

そして少し驚いたような顔をしたあと、笑顔を浮かべた。

 

「あら、もうお風呂から上がったの?」

 

僕はこくりと頷く。

 

母さんの隣にいた男のひとり――短髪で日焼けした中年の男性が、軽く頭を下げた。

 

「ああ、お坊ちゃんか。どうもこんばんは。さっきすれ違ったね」

 

その一言で、やはり彼らが“あの時の3人”だと確信した。

僕の返事を待たず、彼は名乗った。

 

「こう見えてコウジって言います。あっちはリクオ、そっちがミキオ。近くで仕事しててね、たまたま今夜泊まりになってさ」

 

なんでもないようにそう言いながら、彼らは母さんたちの目をうかがうように笑っていた。

まるで、“この距離感はもうできあがってるから”とでも言いたげに。

 

僕は笑顔の裏にある何かを、言葉にできないまま感じ取っていた。

 

 

コウジと名乗った男が軽くうなずきながら腰を上げた。

それに続くように、リクオ、ミキオも立ち上がる。

 

「じゃあ、そろそろ戻りますか。邪魔しても悪いしな」

 

ミキオがそう言って肩をすくめると、リクオがちらりと僕の方を見て笑った。

あくまでフレンドリーな調子。けれど、どこかその視線が引っかかる。

 

「せっかくだし、アドレス交換しとこうか?」

 

「え?」

 

僕は思わず聞き返してしまった。

 

「いや、ほら。俺たちもたまにこっち来るし、なんかあったときのためにさ。連絡取れた方がいいだろ?」

 

コウジが当然のような顔で言う。

リクオとミキオも笑ってうなずいている。

 

「心配しないで。変なことに使ったりしないからさ」

 

――それが逆に、僕の警戒心をくすぐった。

母さんたちの前であからさまなことは言わない。

でも、だからこそ慎重な“距離の詰め方”をしてくるように思えた。

 

「……わかりました」

 

断る理由もなく、僕はスマホを取り出した。

その瞬間、背後で母さんが小さく言った。

 

「あなただけが連絡先を知ってるなら安心だね」

 

母さんの声は穏やかだった。

それが返って、僕には重く響いた。

 

コウジ、リクオ、ミキオ――

名前と顔が、僕の中に妙な重みを持って残る。

 

男たちは簡単に連絡先を交換すると、また笑顔を浮かべて手を振った。

 

「じゃあ、またどこかで」

 

そんな言葉を残しながら、彼らは談話スペースをあとにした。

 

残された僕は、スマホに保存された連絡先を見つめたまま、立ち尽くしていた。

胸の奥に、得体の知れない不安がゆっくりと広がっていった。

 

 

男たちが廊下の向こうへと消えていったあと、談話スペースにはふたたび穏やかな空気が戻っていた。

けれど、僕の心の中では、まださっきのやりとりの余韻がじわじわと残っていた。

 

「……ヨシカズ」

 

母さんが優しい声で僕を呼んだ。

 

「びっくりした? 急にあんな人たちと話してて」

 

「いや、まあ……」

 

言葉を濁しながら僕は、視線を母さんたちの顔に向けた。

ユキさんは何も気にしていない様子で笑っていたし、イクミさんはソファに腰を下ろしてお茶を口にしていた。

 

「変な人たちじゃないから、大丈夫よ。さっき温泉でちょっと話しただけなの」

母さんが、説明するように言った。

 

「向こうも地元の人だって言ってたし、ずっと昔からこの旅館に来てるって。おせっかいなおじさんたちって感じで」

 

「でも、あんまりそういう人たちと仲良くしすぎない方が……」

 

僕がつい口を挟むと、母さんは苦笑いしながら言った。

 

「わかってるわよ。だから、あなたにだけよ、連絡先を交換したの。」

 

「……」

 

僕は黙った。

母さんの言ってることは筋が通ってるし、理屈では理解できた。

でも、どこか釈然としない。

母さんたちが――特に母さんが、僕の知らないところで、誰かと親しげにしているのが引っかかっている。

 

「あなた、焼いてるの?」

ユキさんがからかうように笑った。

 

「ち、ちがいますよ」

 

思わず声が上ずって、三人の笑い声が小さく広がった。

 

「ヨシカズくん、やさしいんだね。お母さん思いで、ほんとに羨ましいわ」

イクミさんがそう言うと、母さんは照れたように「もう、やめてよ」と言って頬をかいた。

 

そのやりとりを、僕は少し複雑な思いで眺めていた。

 

(本当に、ただそれだけなら――いいんだけどな)

 

夕食の時間が近づいていた。

談話スペースをあとにして、僕たちはそれぞれの部屋へと戻ることにした。

 

廊下を歩きながら、母さんがふいに僕の隣に並ぶ。

 

「ありがとうね、ヨシカズ」

 

「なにが?」

 

「今日、ついてきてくれて。やっぱり、あなたがいてくれると安心するわ」

 

その言葉に、僕はうまく返事ができなかった。

少しうつむいたまま、小さく「うん」とだけ答えると、母さんはそれ以上何も言わず、静かに歩き続けた。

 

旅館の床のきしむ音が、妙に耳に残っていた。

 

 

 

夕食は、大広間の一角にある半個室の座敷だった。

障子で仕切られた空間に、すでに料理がずらりと並んでいて、僕は思わず「うわ」と声をもらしていた。

 

「すごいね、これ……」

「でしょ? 昼間ユイちゃんのママが見つけてくれた旅館だけあるわよね」

と母さんが得意げに笑った。

 

テーブルの上には、季節の前菜の盛り合わせ、小鉢に分けられた煮物や酢の物、竹の器に入った冷たい茶碗蒸し、それにまだ火を入れていない小鍋や、揚げ物用の天ぷら粉まで――どれも色とりどりで、目にも鮮やかだった。

 

仲居さんが「本日は信州牛のしゃぶしゃぶと、山菜のてんぷらをご用意しております」と説明してくれたとき、イクミさんが「やった!」と嬉しそうに両手を合わせる。

 

「こういうの、家じゃなかなかできないからねえ」

 

「でも、これ全部食べられるかなあ」

とユキさんが箸を手に取りながらつぶやいた。

 

「大丈夫よ。ヨシカズくんが手伝ってくれるでしょ?」

 

「えっ、僕ですか?」

 

「もちろん。若いんだから、いっぱい食べて」

母さんが笑う。

 

その笑顔を見て、なぜか胸の奥がきゅっとなる。

 

――この笑顔、最近はあまり見られなかったかもしれない。

 

久しぶりに“誰かの母親”ではなく、“一人の女性”として、母さんが自然に笑っている気がした。

 

その一方で、どうしても気になってしまうこともある。

あの3人組――コウジ、リクオ、ミキオ。

どこか軽くて、どこか馴れ馴れしい彼らの姿が、頭の端にこびりついたままだった。

 

「……今日、ロビーで少し話しただけなのよ」

ふと、母さんが小声でそうつぶやいた。

 

「え?」

 

「気にしてるんでしょ? さっきの人たちのこと」

言いながら、僕の茶碗にご飯をよそってくれる。

 

「……うん、まあ」

 

「でも大丈夫。何かあったら、あなたがいるしね」

 

なんて軽く言うから、余計に心配になる。

 

けれど、母さんのその目は、どこか安心しきっているようにも見えた。

 

(……僕は、その“安心”を裏切らないようにしないと)

 

そんな決意にも似た気持ちを、僕は静かに胸に宿していた。

 

しゃぶしゃぶ鍋の湯がぐつぐつと音を立て始める。

肉の赤が、やがてほんのりと白く変わっていく様子を見ながら、僕たちはゆっくりと箸を進めた。

 

笑い声。

湯気。

湯上がりの頬の赤み。

 

夏の夜は、静かに、けれど確実に更けていった――。

 

 

食事を終えるころには、みんなの顔がほんのり紅潮していた。

デザートの水ようかんと季節の果物をつつきながら、会話もゆったりとしたものになっていく。

 

「いやあ、おなかいっぱいだね〜」

とイクミさんが椅子から立ち上がり、

「明日の朝ごはん入るかしら、こんなに食べたら」

とユキさんが笑いながら続ける。

 

母さんもくすっと笑って、何気なく僕の方を見る。

その目が、なんだか少し嬉しそうで、僕は気恥ずかしくなって視線を外した。

 

部屋に戻ると、すでに布団が敷かれていた。

襖で仕切られた二部屋の真ん中に、四枚の布団がきちんと並べられている。

当然のように、僕の分も並べられていた。

 

(……え、ここで寝るのか?)

 

母さんたち3人と、僕。

もちろん、別におかしなことじゃない。旅館なんて、こんなものだろう。

でも、狭い空間に大人の女3人と寝るという事実が、急に現実味を帯びて迫ってきた。

 

僕は思い切って言った。

 

「……あのさ、俺、隣の部屋で一人で寝るよ」

 

母さんが一瞬驚いた顔をした。

「え? でも、せっかくだし……」

「いいよ、静かに寝たいし。ちょっと、落ち着かないから」

 

少し嘘を混ぜた。

実際は、落ち着かなさというより――混乱に近かった。

 

母さんは困ったように笑って、「そう?」とだけ言った。

 

僕は自分の布団を引きずって、隣の部屋へ移動させた。

木の床を布団が擦れる音が、妙に響く。

 

そちらの部屋はすこし暗く、窓がひとつあるだけの簡素な空間だった。

でも、その静けさがありがたかった。

 

布団を敷き直し、ちょっと息をつく。

もう一度部屋をのぞくと、母さんたちはそれぞれ荷物の整理や洗面所の支度をしていて、特に気に留めている様子はなかった。

 

(……よかった)

 

自分でも理由がはっきりしないまま、なぜかほっとした。

 

隣の部屋に戻って、浴衣の襟を直し、横になる。

障子越しにかすかに聞こえる笑い声と話し声。

その音が妙に遠く感じる。

 

(これでよかったんだよな……)

 

でも、布団に潜ったあとも、しばらく目は冴えたままだった。

母さんたちが隣にいて、男たちと知り合って、どこかで何かが進んでいるかもしれない――

 

そんな妄想じみた不安が、また胸の中に湧いてきていた。

 

 

 

 

 

 

 

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