※この作品はR-18です。

母の写真 日常の向こう側   作:松田義和

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第二十一章 焦燥 

いつのまにか寝てしまっていたらしい。

 

ぼんやりと意識が戻ったとき、部屋の中はすでに暗く、静まり返っていた。障子の隙間からは、月明かりがかすかに漏れていて、外がすっかり夜になっていることを知らせていた。

 

(……何時だ?)

 

腕時計を確認すると、23時ちょうどを指していた。

頭がぼんやりしたまま、体を起こす。まだ、どこか夢の中にいるような感覚が残っている。

 

ふと、隣の部屋の様子が気になった。

「母さんたち、もう寝たかな……」

そう思いながら、そっと襖を開ける――

 

誰もいない。

 

布団はすでに敷かれたままになっているが、誰も使った様子がない。部屋の明かりも消えたままで、気配もまるでなかった。

 

(……え?)

 

そのとき、テーブルの上に一枚のメモ用紙が置かれているのが目に入った。

手に取ってみると、そこには走り書きのような文字で、こう書かれていた。

 

「ラウンジにちょっと飲みに行ってきます。ヨシカズくんはそのまま寝ててね。—母さんたち」

 

(ラウンジ?)

 

旅館のパンフレットに載っていた、1階のちょっとしたバーのようなスペースのことを指しているのだろう。

 

急に胸の奥がざわついた。

ラウンジに行くこと自体はおかしなことじゃない。けれど、こんな時間に、しかも全員で?

しかも……何も言わずに、メモだけを残して。

 

いやな想像ばかりが膨らみそうになるのを、必死で振り払った。

けれど、ふと昼間のことが脳裏によみがえる。

 

――あの、男たち。

コウジ、リクオ、ミキオ。

 

まさかとは思う。けれど、まさかが、旅先では平気で起こる気がした。

 

僕は、思わず喉を鳴らした。

襖をもう一度見つめる。

静寂の向こうに、何があるのか。

そのとき、胸の鼓動が一段と速くなるのを感じていた。

 

 

僕は、迷いながらもゆっくりと立ち上がった。

冷たい床が足の裏にひやりと伝わる。

浴衣の前を合わせ、メモをもう一度ちらりと見て、僕は部屋を出た。

 

旅館の廊下はしんとしていた。

どこか遠くで風鈴がかすかに鳴っている。

夜の空気は少し湿っていて、昼間とは違う静けさがあった。

 

ラウンジは一階の奥――

パンフレットで見たときは「談話スペース兼バー」といった簡素な説明だったが、行ってみるまでは実際どんな雰囲気かはわからなかった。

 

階段を下り、ロビーの横を抜けると、控えめな照明に照らされたガラス戸の向こうにラウンジがあった。

中からは、くぐもった笑い声とグラスの当たる音が聞こえる。

 

一瞬、足が止まった。

ドアの向こうには母さんたちがいる。

そして――もしかしたら、あの男たちも。

 

思わず、喉が鳴る。

手を伸ばしかけて、引っ込める。

躊躇が、一拍。

 

(……行くだけ。様子を見て、それで何もなければ、それでいい)

 

そう自分に言い聞かせるようにして、僕は静かにドアを開けた。

 

カラン、と小さな鈴の音が鳴る。

 

ラウンジの中は、やや暗く、温かみのある間接照明が落ち着いた空気を作っていた。

壁際にはソファやローテーブルが点在し、その一角――窓際の広い席で、母さんたちの笑い声が聞こえた。

 

見えた。

 

ユキさん、イクミさん、母さん。

そして――コウジ、リクオ、ミキオの3人の男たち。

 

六人はテーブルを囲んで座り、ドリンクを片手に談笑していた。

誰も僕に気づいていない。

でも、その光景を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 

あれは、僕の知らない“母さん”の顔だった。

リラックスしていて、楽しそうで、でもどこか、少し艶っぽい笑み。

 

まるで、何かの境界線を越えてしまったような、そんな違和感があった。

 

僕は、その場から一歩も動けなかった。

 

 

ラウンジの入り口で立ち尽くしていると、ふと視線が合った。

母さんだった。

 

最初は驚いたように目を見開き、それからゆっくりと笑みを浮かべた。

「あら、ヨシカズ。どうしたの?」

ごく自然な口調だった。まるで、いつもの台所から声をかけられたような、穏やかな声。

 

他の女性たちもこちらに気づき、軽く手を振ってくれた。

男たちもちらりとこっちを見たが、敵意のようなものはなかった。ただ「誰だろう?」というくらいの、軽い興味の視線。

 

僕はどうしていいかわからず、ただ頭を軽く下げてその場に立っていた。

 

母さんがソファから身を乗り出すようにして言った。

「大丈夫よ。こっちは楽しくやってるから」

その言葉には、どこか気を遣うような優しさがあった。

 

「もうすぐ戻るつもりだし、何かあったらすぐメールするから」

 

(……何かあったら?)

 

その言葉の意味を考える前に、母さんはふわりと笑って続けた。

「部屋、ちゃんと鍵かけて寝るのよ。あんまり心配しなくていいから」

 

僕はうなずいた。うなずくことしかできなかった。

 

ただ、その「大丈夫」という言葉が、やけに遠く感じられた。

僕が何かを言い返す前に、母さんはまた笑いながら会話に戻っていった。

 

あの笑顔は、嘘ではないと思う。

本当に、楽しんでいるのだろう。

 

けれど――僕の胸の中には、言葉にできないざらついた感情が残った。

それは、心配とも違う。

嫉妬でもない。

ただ、取り残されたような、居場所を失ったような感覚だった。

 

僕はそっとラウンジのドアを閉じ、静まり返った廊下へ戻った。

 

手元のスマホが妙に重く感じられた。

 

(……本当に、大丈夫なのかな)

 

そんな問いを胸に抱えながら、僕はまた、ひとりで歩き出した。

 

 

その夜、僕はなかなか寝つけなかった。

 

母さんたちはまだ戻ってきていない。

布団に入ってから、もう1時間以上は経っているはずだ。

スマホを何度も確認するけれど、通知は来ていない。

 

(メールするって言ってたのに……)

 

静まり返った部屋の中、風が障子の外をかすめていく音がやけに耳に残った。

その音に混じって、どこか遠くから、かすかな物音が聞こえた気がした。

何かが落ちたような――そんな小さな衝撃音。

 

僕は反射的に起き上がった。

 

(今の音……何だったんだ?)

 

襖をそっと開けて隣の部屋をのぞく。

誰もいないまま。布団はきれいなままで、戻ってきた様子はない。

 

不安がじわじわと広がっていく。

もう一度耳を澄ますと、今度は――どこかでドアが閉まるような、鈍い音がした。

それが館内のどの部屋からの音なのか、僕にはわからなかった。

ただ、何かが起きている。そう感じた。

 

もう我慢できなくなって、僕は浴衣の帯を結び直して廊下へ出た。

旅館の中は静まり返っていて、さっきまでの人の気配はほとんど感じられない。

ただ、ほんの少し、空気に熱を帯びたような気がした。

 

ラウンジの方へ向かってみる。

けれど、そこにはもう誰もいなかった。

 

明かりも落とされ、テーブルには飲み終えたグラスと空いたおつまみの器だけが残されている。

ソファの背に掛けられたショールが、一枚だけ取り残されていた。

 

(……おかしい)

 

こんなふうに、誰もいないまま終わるわけがない。

あれだけ賑やかだったのに。

 

僕の鼓動がだんだん速くなる。

そのとき――スマホが鳴った

 

 

 

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