※この作品はR-18です。

母の写真 日常の向こう側   作:松田義和

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第二十二章 扉の向こう側

スマホが不意に震えた。

画面を見ると、「コウジ」の名前。

さっき交換したばかりの、あの男からだった。

 

⸻

 

「起きてる?

お母さんたちは大丈夫だよ。

ちょっといま取り込み中でね。

10分後にまた連絡するから、それまで待ってて」

 

⸻

 

……取り込み中?

 

その言葉が、頭の中で何度も反響した。

 

なぜ母さんからじゃなく、コウジからなんだ。

母さんのスマホは? 手元にないのか?

――それとも、何か言えない状況にあるのか?

 

胸の奥に、不安が小さな波紋のように広がっていく。

 

(誰か酔いつぶれたのか? それとも……まさか母さんが?)

 

考えれば考えるほど、悪い想像ばかりが膨らんでいった。

 

僕はスマホを握りしめたまま、何も言えず、ただじっと画面を見つめていた。

 

“10分後に連絡する”――

そのたった10分が、異様に長く感じられた。

まるで、何かが決定的に変わってしまう予兆のように。   

 

 

スマホが、ふたたび震えた。

 

静まり返った部屋に、その振動音だけがやけに大きく響いた。

手に取ると、画面にはまた「コウジ」の名前。

さっきと同じように、短いメッセージが届いていた。

 

⸻

 

「今、俺の部屋にいる。

もみじの間だ。

 

来てくれるかい?

 

ただし、入るときは音を立てないように。」

 

⸻

 

読み終えた瞬間、胸の奥がざわついた。

 

(……なんだよ、これ)

 

“来てくれるかい?”

その言い回しの柔らかさが、逆にひどく気味が悪かった。

 

そして――“音を立てないように”という最後の一文。

 

(……なにか、見られたくないものでもあるのか?)

 

冗談でも、ふざけた感じでもない。

そこにあるのは、何かを“避けようとする”意図。

それが妙にリアルで、逆に想像が止まらなくなる。

 

しかも場所は「もみじの間」。

あのラウンジ奥の、少し離れた静かな客室。

 

(母さんたちは……まさか)

 

急に、喉が渇いたような感覚に襲われた。

何が起きているのか、今すぐ確かめなければいけない――そんな焦りが背中を押す。

 

気づけば、僕は立ち上がっていた。

 

スマホを握りしめたまま、部屋の戸をそっと開ける。

あたりは静まり返っていて、人の気配はない。

 

息を整えて、ゆっくりと廊下を進む。

足音を忍ばせながら、僕は“もみじの間”へと向かった。

 

何が待っているのか、まったくわからない。

でも、確かに何かが、今、そこにある――。

 

 

僕は「もみじの間」と書かれた扉の前で足を止めた。

旅館特有の柔らかい畳の匂いと、遠くの虫の声だけが耳に残る。

 

ドアの前に立ち、僕はしばらく動けずにいた。

 

中からは、かすかに人の声がする。はっきりと聞き取れるわけではない。笑い声のようでもあり、誰かの囁きのようでもある。不意に沈黙が訪れては、また何かが始まる。その繰り返し。

 

(……まだ飲み会の続き?)

 

そんな軽い推測と、どこかでせき止めようのない不安が、交互に胸を叩く。

 

僕はそっと、ドアに耳を当てた。

木の扉越しに伝わる微かな音に、心臓の鼓動が混ざっていく。

手のひらが汗ばみ、喉の奥が妙に乾いていることに気づく。

 

何が聞きたいのか、自分でもわからなかった。

母さんの声か?

誰かの名前か?

それとも、聞こえないことへの安心か?

 

(入るべきか……)

 

スマホのメッセージが思い浮かぶ。

コウジからの、簡潔すぎる言葉。

「来てくれるかい。ただし、音を立てないように」

 

僕は、その文面に引っかかりを覚えていた。

まるで、僕が入ることを“歓迎”しているような、妙な親しげさ。

さっきのメールと温度差がある気がした。

 

(本当に……中に入っていいのか?)

 

僕の知らない時間が、向こう側で流れている。

母さんたちが、僕の知らない顔で笑っているのかもしれない。

それは、普通のことだ。

でも、今はその“普通”が、なぜか怖かった。

 

ドアノブに手をかける。

わずかに冷たく、しかし確かな重みがある。

回すか、引くか、立ち去るか――

その選択のすべてが、ほんの数秒の間に、幾通りにも枝分かれして頭の中をめぐっていく。

 

(中を見てしまったら、もう元には戻れない気がする)

 

それでも、引き返すこともできなかった。

足元が何かに縛られているようで、心だけが前のめりになっていた。

 

「……母さん」

 

声にはならなかった。

喉まで上がってきたその言葉を、ぎりぎりのところで飲み込んだ。

僕は、もう一度深く息を吸ってから、音を立てないように、ゆっくりとドアノブを回した。

 

――その瞬間、向こうの空気が、すっとこちらに流れ込んできた。

 

甘い香り、熱を帯びた気配、人の気配。

 

だが、視線を前に送る前に、僕の胸にはひとつの問いだけが、深く刺さっていた。

 

(……この先で、僕は何を見ようとしているんだ?)

 

 

 

 

 

 

 

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