スマホが不意に震えた。
画面を見ると、「コウジ」の名前。
さっき交換したばかりの、あの男からだった。
⸻
「起きてる?
お母さんたちは大丈夫だよ。
ちょっといま取り込み中でね。
10分後にまた連絡するから、それまで待ってて」
⸻
……取り込み中?
その言葉が、頭の中で何度も反響した。
なぜ母さんからじゃなく、コウジからなんだ。
母さんのスマホは? 手元にないのか?
――それとも、何か言えない状況にあるのか?
胸の奥に、不安が小さな波紋のように広がっていく。
(誰か酔いつぶれたのか? それとも……まさか母さんが?)
考えれば考えるほど、悪い想像ばかりが膨らんでいった。
僕はスマホを握りしめたまま、何も言えず、ただじっと画面を見つめていた。
“10分後に連絡する”――
そのたった10分が、異様に長く感じられた。
まるで、何かが決定的に変わってしまう予兆のように。
スマホが、ふたたび震えた。
静まり返った部屋に、その振動音だけがやけに大きく響いた。
手に取ると、画面にはまた「コウジ」の名前。
さっきと同じように、短いメッセージが届いていた。
⸻
「今、俺の部屋にいる。
もみじの間だ。
来てくれるかい?
ただし、入るときは音を立てないように。」
⸻
読み終えた瞬間、胸の奥がざわついた。
(……なんだよ、これ)
“来てくれるかい?”
その言い回しの柔らかさが、逆にひどく気味が悪かった。
そして――“音を立てないように”という最後の一文。
(……なにか、見られたくないものでもあるのか?)
冗談でも、ふざけた感じでもない。
そこにあるのは、何かを“避けようとする”意図。
それが妙にリアルで、逆に想像が止まらなくなる。
しかも場所は「もみじの間」。
あのラウンジ奥の、少し離れた静かな客室。
(母さんたちは……まさか)
急に、喉が渇いたような感覚に襲われた。
何が起きているのか、今すぐ確かめなければいけない――そんな焦りが背中を押す。
気づけば、僕は立ち上がっていた。
スマホを握りしめたまま、部屋の戸をそっと開ける。
あたりは静まり返っていて、人の気配はない。
息を整えて、ゆっくりと廊下を進む。
足音を忍ばせながら、僕は“もみじの間”へと向かった。
何が待っているのか、まったくわからない。
でも、確かに何かが、今、そこにある――。
僕は「もみじの間」と書かれた扉の前で足を止めた。
旅館特有の柔らかい畳の匂いと、遠くの虫の声だけが耳に残る。
ドアの前に立ち、僕はしばらく動けずにいた。
中からは、かすかに人の声がする。はっきりと聞き取れるわけではない。笑い声のようでもあり、誰かの囁きのようでもある。不意に沈黙が訪れては、また何かが始まる。その繰り返し。
(……まだ飲み会の続き?)
そんな軽い推測と、どこかでせき止めようのない不安が、交互に胸を叩く。
僕はそっと、ドアに耳を当てた。
木の扉越しに伝わる微かな音に、心臓の鼓動が混ざっていく。
手のひらが汗ばみ、喉の奥が妙に乾いていることに気づく。
何が聞きたいのか、自分でもわからなかった。
母さんの声か?
誰かの名前か?
それとも、聞こえないことへの安心か?
(入るべきか……)
スマホのメッセージが思い浮かぶ。
コウジからの、簡潔すぎる言葉。
「来てくれるかい。ただし、音を立てないように」
僕は、その文面に引っかかりを覚えていた。
まるで、僕が入ることを“歓迎”しているような、妙な親しげさ。
さっきのメールと温度差がある気がした。
(本当に……中に入っていいのか?)
僕の知らない時間が、向こう側で流れている。
母さんたちが、僕の知らない顔で笑っているのかもしれない。
それは、普通のことだ。
でも、今はその“普通”が、なぜか怖かった。
ドアノブに手をかける。
わずかに冷たく、しかし確かな重みがある。
回すか、引くか、立ち去るか――
その選択のすべてが、ほんの数秒の間に、幾通りにも枝分かれして頭の中をめぐっていく。
(中を見てしまったら、もう元には戻れない気がする)
それでも、引き返すこともできなかった。
足元が何かに縛られているようで、心だけが前のめりになっていた。
「……母さん」
声にはならなかった。
喉まで上がってきたその言葉を、ぎりぎりのところで飲み込んだ。
僕は、もう一度深く息を吸ってから、音を立てないように、ゆっくりとドアノブを回した。
――その瞬間、向こうの空気が、すっとこちらに流れ込んできた。
甘い香り、熱を帯びた気配、人の気配。
だが、視線を前に送る前に、僕の胸にはひとつの問いだけが、深く刺さっていた。
(……この先で、僕は何を見ようとしているんだ?)