僕は、廊下の突き当たりにある最後の部屋の前に立っていた。
さっき通ってきた二つの部屋――そこには、僕が知らなかった“母親”たちの姿があった。いや、正確には“母親だった女性たち”というべきかもしれない。
そして僕は、それを目の当たりにしたとき、自分の中の何かが静かに軋むのを感じていた。
ここだ。
この部屋。
今、僕の目の前にあるこのドアの向こうに――母さんがいるのか。
息を呑む。
何度か手を伸ばそうとしては、やめた。
「前の二人のように……」
僕はつぶやく。問いかけるように、あるいは、自分に言い聞かせるように。
もし、この扉の向こうにいる母さんが、あの二人と同じように男に好きにされていたら。
もし、あの時のように淫らな姿をしていたら。
僕は――どうしたらいい?
心の奥で何かがざわついている。
怖いのだ。
でも、見なければいけない。
ここまで来て、背を向けるわけにはいかない。
ゆっくりと、ドアノブに手をかけた。
カチリ。
ドアノブが音を立てた。
その小さな音が、やけに大きく響いた気がした。
ゆっくりと、まるで時間が引き伸ばされたかのように、ドアが開いていく。
中は薄暗かった。
そして襖が一枚。
ぴたりと閉じられている。
僕は無意識に息を潜めた。
襖の向こうに何かがいる。
そんな気配が、じんわりと全身に広がっていく。
音がした。
小さな音だった。
耳を澄まさなければ、気づかなかったかもしれない。
――すれる音。
布のような、肌のような、何かやわらかいものが擦れ合うような音。
それが、襖の奥から微かに聞こえてきた。
僕の心臓が跳ねる。
何の音だ?
誰かがいるのか?
……母さんか?
僕は襖の前まで歩み寄った。
足音を立てまいとするあまり、呼吸すら浅くなっているのが自分でもわかる。
もう一度、音がした。
今度は、わずかに息づかいのようなものが混じっていた。
襖一枚を隔てて、確かに“何か”が動いている。
僕の手が、自然と襖へと伸びていた。
震えていた。
けれど、それを止めることはできなかった。
開けるべきか。
それとも――見てはいけないのか。
自分の中で、声なき問いが繰り返される。
僕はそっと、襖の縁に指をかけた。
指先が触れるだけで、ひんやりとした感触が伝わってくる。
心の中で何かが、ゆっくりと固まっていくような感じがした。
ゆっくり。ほんの少しだけ。
襖を開ける。
ギィ…というかすかな音とともに、隙間が生まれた。
数センチだけ。
それでも、僕には充分だった。
僕は驚いた。明かりが煌々とついていたからだ。
そして・・・
最初、僕は目の錯覚かと思った。
でも違った。
そこに、確かに“人”がいた。
柔らかな動き。
布の揺れ。
髪の毛がふわりと揺れたように見えた。
そして、その中心に――見慣れた背中。
母さんだ。
声は出なかった。
喉の奥で名前を呼ぼうとしたけど、息すらうまく吸えなかった。
母さんはまだ、こちらに気づいていないようだった。
その背は、誰かに向かって静かに動いている。
母さんの体に半ば隠れて、男がいた。ミキオだ。
僕の心臓が、再び強く脈を打った。
胸の奥で、何かがこみ上げてくる。
それでも、僕は目を離せなかった。
まるで、この隙間から見える光景が、
僕の人生の何かを決定づけるような、そんな気がしたから。