※この作品はR-18です。

母の写真 日常の向こう側   作:松田義和

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第三十三章 残香

旅館を出たのは、午前十時を少し回った頃だった。

 

梅雨の合間の晴れ間は清々しく、昨日の雨で濡れた石畳が、朝日を受けて静かに光っていた。

僕たちはバス停へ向かって、ゆるやかな坂道を歩いていた。

 

母さんは僕の隣を歩いていた。

白っぽいシャツの袖が風に揺れて、旅の終わりの静けさをまとっていた。

 

後ろではイクミさんとユキさんが、荷物の話やお土産の話で時折笑いながらついてきていた。

 

誰も、昨夜のことには触れなかった。

まるで、はじめから何もなかったかのように。

 

けれど僕は、足を動かすたびに背中に残るあの感触を思い出していた。

母さんの体温、髪の香り、あの重み。

 

あれは……夢じゃなかった。

そう、確かに背負っていた。

 

しばらく無言で歩いていた母さんが、ふいに僕を見上げて言った。

 

「ラウンジからお部屋まで、背負ってくるのは大変だったでしょう」

 

僕は立ち止まりかけて、すぐには言葉が出なかった。

彼女の声は静かで、それでも確かに、僕の心に届いてくる。

 

「……覚えてたんだね」

 

そう言うと、母さんは少しだけ苦笑いを浮かべた。

 

「途中で目が覚めたの。でも……身体がうまく動かなくて。それに、あなたが一生懸命運んでくれてるのがわかって……甘えちゃったのかも」

 

照れくさそうにそう言って、前を向いたまま歩き出す。

 

「ありがとうね、義和。変な思いさせてごめん。でも……助けてくれて、ほんとに嬉しかった」

 

僕は混乱する。ラウンジから部屋まで?

 

ミキオの部屋からじゃなくて?

 

 

その背中は、どこか遠くに向かって歩いていくようにも見えた。

けれど確かに、その一歩一歩が、僕の心に何かを刻んでいく。

 

僕は何も言わず、ただその横顔を見ながら、また一歩、足を前に出した。

 

そうだ!メール!コウジからメールが来ていたはずだ!

 

慌ててスマホを取り出して開いてみる。

 

・・・ない、嘘だろ

 

 

 

遠くでバスのエンジン音が聞こえる。

 

 

 

旅は終わろうとしていた。

でも、僕の中には昨夜の重みと、母さんのその言葉が、ずっと残り続けていた。

 

列車は滑るように線路の上を進んでいた。

 

特急の座席はほどよく空いていて、車内は静かだった。

窓の外には、緑の山々が流れていく。ときおり見える川や畑が、旅の余韻をじわりと引き伸ばしていた。

 

僕は母さんの隣に座っていた。

 

イクミさんとユキさんは少し離れた二人席で、おしゃべりをしながら、お菓子の袋をカサカサ鳴らしていた。

けれどその声も、遠くで鳴る風鈴のようにかすかだった。

 

母さんは車窓を見ながら、何かを考えているようだった。

でも、その顔は穏やかで、どこかすっきりして見えた。

 

僕は視線を下に落とし、自分の手をじっと見ていた。

あの背中に回した腕の感触が、まだ残っている気がしていた。

 

「あのとき、目が覚めてたのか……」

 

ふと、あの言葉が頭をよぎった。

 

「ラウンジからこの部屋まで、背負ってくるのは大変だったでしょう」

 

あれは、気遣い? それとも、告白?

 

僕は結局、母さんに何も聞けなかった。

どこまで覚えていて、どう思っているのか――その核心に触れることが、なぜか怖かった。

 

電車はやがて街へと近づき、住宅街の屋根が増えていく。

 

旅の終わりが、もうすぐそこにあった。

 

 

全て僕の妄想だったのか?まさかの夢オチなのか?

 

それとも違う世界に来てしまったのか?

 

 

 

 

 

 

 

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