旅館を出たのは、午前十時を少し回った頃だった。
梅雨の合間の晴れ間は清々しく、昨日の雨で濡れた石畳が、朝日を受けて静かに光っていた。
僕たちはバス停へ向かって、ゆるやかな坂道を歩いていた。
母さんは僕の隣を歩いていた。
白っぽいシャツの袖が風に揺れて、旅の終わりの静けさをまとっていた。
後ろではイクミさんとユキさんが、荷物の話やお土産の話で時折笑いながらついてきていた。
誰も、昨夜のことには触れなかった。
まるで、はじめから何もなかったかのように。
けれど僕は、足を動かすたびに背中に残るあの感触を思い出していた。
母さんの体温、髪の香り、あの重み。
あれは……夢じゃなかった。
そう、確かに背負っていた。
しばらく無言で歩いていた母さんが、ふいに僕を見上げて言った。
「ラウンジからお部屋まで、背負ってくるのは大変だったでしょう」
僕は立ち止まりかけて、すぐには言葉が出なかった。
彼女の声は静かで、それでも確かに、僕の心に届いてくる。
「……覚えてたんだね」
そう言うと、母さんは少しだけ苦笑いを浮かべた。
「途中で目が覚めたの。でも……身体がうまく動かなくて。それに、あなたが一生懸命運んでくれてるのがわかって……甘えちゃったのかも」
照れくさそうにそう言って、前を向いたまま歩き出す。
「ありがとうね、義和。変な思いさせてごめん。でも……助けてくれて、ほんとに嬉しかった」
僕は混乱する。ラウンジから部屋まで?
ミキオの部屋からじゃなくて?
その背中は、どこか遠くに向かって歩いていくようにも見えた。
けれど確かに、その一歩一歩が、僕の心に何かを刻んでいく。
僕は何も言わず、ただその横顔を見ながら、また一歩、足を前に出した。
そうだ!メール!コウジからメールが来ていたはずだ!
慌ててスマホを取り出して開いてみる。
・・・ない、嘘だろ
遠くでバスのエンジン音が聞こえる。
旅は終わろうとしていた。
でも、僕の中には昨夜の重みと、母さんのその言葉が、ずっと残り続けていた。
列車は滑るように線路の上を進んでいた。
特急の座席はほどよく空いていて、車内は静かだった。
窓の外には、緑の山々が流れていく。ときおり見える川や畑が、旅の余韻をじわりと引き伸ばしていた。
僕は母さんの隣に座っていた。
イクミさんとユキさんは少し離れた二人席で、おしゃべりをしながら、お菓子の袋をカサカサ鳴らしていた。
けれどその声も、遠くで鳴る風鈴のようにかすかだった。
母さんは車窓を見ながら、何かを考えているようだった。
でも、その顔は穏やかで、どこかすっきりして見えた。
僕は視線を下に落とし、自分の手をじっと見ていた。
あの背中に回した腕の感触が、まだ残っている気がしていた。
「あのとき、目が覚めてたのか……」
ふと、あの言葉が頭をよぎった。
「ラウンジからこの部屋まで、背負ってくるのは大変だったでしょう」
あれは、気遣い? それとも、告白?
僕は結局、母さんに何も聞けなかった。
どこまで覚えていて、どう思っているのか――その核心に触れることが、なぜか怖かった。
電車はやがて街へと近づき、住宅街の屋根が増えていく。
旅の終わりが、もうすぐそこにあった。
全て僕の妄想だったのか?まさかの夢オチなのか?
それとも違う世界に来てしまったのか?