夕飯は、旅館の朝ごはんとはまったく違う、いつもの食卓だった。
味噌汁の味も、ご飯の炊き加減も、母さんの手つきも。
どれも、いつも通りだった。
「洗濯は明日でもいいわよ。今日は早めに休みなさいね」
母さんはそう言って、キッチンの明かりの下で洗い物をしていた。
その背中も、あの夜に見た姿と、何ひとつ変わっていない。
でも――僕には、すべてが少しだけ違って見えた。
母さんの笑顔も、仕草も、あの「ありがとうね」という言葉のあとでは、何か別の層をまとっているように感じられた。
僕は自分の部屋に戻り、ベッドに横になった。
暗い天井を見つめながら、帰りの電車の窓から見た山の緑を思い出す。
まるで夢だったような旅だった。
でも、確かに現実だった。
母さんが僕に背負われながら眠っていたことも、
何も語らずに微笑んだことも――すべて、現実だ。
だけど僕たちは、それを言葉にしないまま、日常に戻ってきた。
そのことが、少しだけ、苦しかった。
静かな夜だった。
窓の外からは何の音もしない。
僕はそっと目を閉じた。
このまま、何事もなかった日々に戻るのだろうか――
それとも、何かが、少しずつ変わっていくのだろうか。
わからないまま、僕は眠りに落ちていった。
それからの日々は、驚くほど静かで、平凡だった。
まるで旅の出来事が夢の中だけで起きたことだったかのように――
夏の暑さが厳しい日々、蝉の声が遠くで聞こえる。
トシマサからは、学校の帰り道に声をかけられた。
「母ちゃんのこと、面倒見てくれてありがとな。なんか迷惑かけたよな、あいつ」
彼なりに照れ隠しなんだろう、ぶっきらぼうな言い方だったけど、その言葉に嘘はなかった。
僕は「ううん、大丈夫だったよ」とだけ返した。
たぶん、それで十分だった。
少し遅れて、マサユキからもLINEが届いた。
「おかんが助かったって言ってた。ほんとありがとう。今度ジュース奢るわ笑」
画面の文字を見つめながら、少しだけ肩の力が抜けた。
そして、ある日。
ゆいママ――ユウナさんがわざわざ家まで来てくれた。
「この前はほんとにありがとうね。無理なお願いをして、迷惑だったでしょ?」
そう言いながら、丁寧に包まれた箱を差し出してきた。
中には地元の銘菓と、小さな雑貨が入っていた。
「ユイにも、ちゃんとお礼言わせたくて」
そう言ったとき、玄関の奥からひょっこりとユイが顔を出した。
「おじゃましまーす……」
久しぶりに会ったユイちゃんは、なんだか少し大人っぽくなっていた。
髪が伸びていて、服のセンスも洗練されている気がする。
「こないだはありがとね。私のせいで大変なことになって」
笑顔でそう言われた瞬間、心臓が一瞬だけ跳ねた。
ユイちゃんは昔からかわいかったけど、今の彼女は“女の子”というより、“女性”という雰囲気があって、
その変化に僕はどぎまぎしてしまった。
「これ、お土産。向こうで買ってたやつだけど、まだ渡してなかったから」
ユイが差し出した紙袋には、小さな箱が入っていた。
それを受け取った僕は、なんとか平静を装いながら「ありがとう」と言った。
ほんの数分のやり取りだったけれど――
あの旅で曖昧に揺れていたものが、少しだけ現実に繋がったような、そんな気がした。
夕暮れの帰り道。
母さんに頼まれた買い物を終えて、ユイちゃんと並んで歩いていた。
薄いオレンジ色の空の下、二人の影が静かに並んで伸びている。
コンビニのビニール袋を片手に、僕はふと口を開いた。
「……ユイちゃん、いつ向こうに帰るの?」
ユイちゃんは少しだけ歩みを緩め、僕の方をちらりと見た。
「今週末かな。ママの仕事があるから、それに合わせて」
「そっか……」
わかっていたけれど、実際に聞くと胸の奥に小さな穴が開いたような気がした。
帰ってしまえば、またしばらく会えない。それが現実だ。
「こっちの生活、久しぶりでしょ?」
「うん。でもね、やっぱり落ち着く。こっちは空気が柔らかいっていうか、匂いが違うの。不思議だけど」
ユイちゃんはそう言って、空を見上げた。
その横顔は少し大人びて見えて、どきりとした。
僕は少し躊躇いながら、口にした。
「……ユイちゃん、なんか、すごく綺麗になったよ」
言ってから顔が熱くなる。
でも、嘘じゃない。心からそう思った。
ユイちゃんは驚いたようにこっちを見て、それから恥ずかしそうに笑った。
「なにそれ、急に。そんなの……」
「ほんとだよ。びっくりした。昔のイメージとちょっと違ってて」
「ふふっ、それ褒めてるんだよね?」
「もちろん」
笑い合ったあと、少しだけ沈黙が流れる。
でもその沈黙が、どこか心地よかった。
風が頬をなでていく。日が暮れる前の、短い優しい時間。
「帰る前に、またどこか寄ってみようか? あの公園とか」
ユイちゃんがそう言ってくれたとき、僕の中で何かがふわりと浮かび上がった。
懐かしさと、いまの彼女と向き合いたいという新しい感情が混ざっていた。
「……うん、行こう。また、あの場所」
僕はそう答えながら、心のどこかで願っていた。
この再会が、一時的なものじゃありませんように――と。
母さんの写真を見つけたあの時からおかしくなっていた僕だが、なんとか元の世界に戻れそうな気がしている。
この前のことは全て僕の妄想、僕の見た夢だった。
今はそう思える。
イクミさんもユキさんも母さんも何も変わらない。
いいお母さんたちだ。
ユイちゃんが帰る日は、朝からどこか空が静かだった。
曇っているわけじゃないのに、光がやわらかくて、町全体が少しだけ色を落として見えた。
玄関先には、キャリーケースと紙袋がひとつずつ。
その横でユイちゃんが、靴を履いていた。
「電車、10時半なんだって」
母さんたちは奥でおしゃべりをしていて、僕とユイちゃんだけが、少しだけ取り残されていた。
「……そっか。あっという間だったね」
僕がそう言うと、ユイちゃんはくすっと笑った。
「うん。もっとのんびりできると思ってたけど、なんだかんだバタバタだった」
「それでも、会えてよかったよ。ほんとに」
そう口に出したとたん、胸の奥がじわっと熱くなった。
言いたいことは山ほどあるのに、言葉にすると全部うすっぺらくなってしまいそうで怖かった。
ユイちゃんは、キャリーの取っ手を軽く握ってから僕の顔を見て、少しだけ言いにくそうに口を開いた。
「……あのさ、またこっちに来るとき、連絡してもいい?」
「うん、もちろん」
即答した。
むしろ、してほしいと思っていた。
でもそれを伝えるには、あまりに声が震えそうだった。
「じゃあ、またね」
そう言って、ユイちゃんは手を小さく振った。
駅まで車で送っていくユウナさんが「そろそろ行くよ」と声をかける。
僕はそれ以上、何もできなかった。
ただ、手を振り返して見送るしかなかった。
ユイちゃんが車に乗り込んで、扉が閉まり、やがてエンジンが静かに響く。
走り出す車の窓越しに、彼女がもう一度、僕の方を見て笑った。
それは、子どものころから知っているユイちゃんの笑顔だった。
でも今は、少しだけ違って見えた。
いつかまた――そう思いながら、僕は静かに手を下ろした。
僕はふと、部屋に戻って、机の上に置かれた小さな紙袋を手に取った。
ユイちゃんからもらったお土産。
まだ開けていなかった。
袋を開けると、きれいに包まれた箱と、小さなメモが入っていた。
――また遊ぼうね。
今度はもっといろんな話、したいな。
たったそれだけの文字なのに、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
誰かがいなくなったあとに残るのは、静けさと、少しの後悔と、
そして、確かにそこに“何かがあった”という証。
ユイちゃんは、たぶんすぐに日常に戻っていく。
でも、僕はもう少しだけ、ここに留まっていたいと思った。
あの時間を、心のなかでゆっくり撫でるように、
忘れないように――