※この作品はR-18です。

母の写真 日常の向こう側   作:松田義和

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第三十四章 日常への帰還

夕飯は、旅館の朝ごはんとはまったく違う、いつもの食卓だった。

 

味噌汁の味も、ご飯の炊き加減も、母さんの手つきも。

どれも、いつも通りだった。

 

「洗濯は明日でもいいわよ。今日は早めに休みなさいね」

 

母さんはそう言って、キッチンの明かりの下で洗い物をしていた。

その背中も、あの夜に見た姿と、何ひとつ変わっていない。

 

でも――僕には、すべてが少しだけ違って見えた。

 

母さんの笑顔も、仕草も、あの「ありがとうね」という言葉のあとでは、何か別の層をまとっているように感じられた。

 

僕は自分の部屋に戻り、ベッドに横になった。

 

暗い天井を見つめながら、帰りの電車の窓から見た山の緑を思い出す。

 

まるで夢だったような旅だった。

でも、確かに現実だった。

 

母さんが僕に背負われながら眠っていたことも、

何も語らずに微笑んだことも――すべて、現実だ。

 

だけど僕たちは、それを言葉にしないまま、日常に戻ってきた。

 

そのことが、少しだけ、苦しかった。

 

静かな夜だった。

窓の外からは何の音もしない。

僕はそっと目を閉じた。

 

このまま、何事もなかった日々に戻るのだろうか――

それとも、何かが、少しずつ変わっていくのだろうか。

 

わからないまま、僕は眠りに落ちていった。

  

 

それからの日々は、驚くほど静かで、平凡だった。

 

まるで旅の出来事が夢の中だけで起きたことだったかのように――

夏の暑さが厳しい日々、蝉の声が遠くで聞こえる。

 

トシマサからは、学校の帰り道に声をかけられた。

 

「母ちゃんのこと、面倒見てくれてありがとな。なんか迷惑かけたよな、あいつ」

 

彼なりに照れ隠しなんだろう、ぶっきらぼうな言い方だったけど、その言葉に嘘はなかった。

僕は「ううん、大丈夫だったよ」とだけ返した。

たぶん、それで十分だった。

 

少し遅れて、マサユキからもLINEが届いた。

 

「おかんが助かったって言ってた。ほんとありがとう。今度ジュース奢るわ笑」

 

画面の文字を見つめながら、少しだけ肩の力が抜けた。

 

そして、ある日。

 

ゆいママ――ユウナさんがわざわざ家まで来てくれた。

 

「この前はほんとにありがとうね。無理なお願いをして、迷惑だったでしょ?」

 

そう言いながら、丁寧に包まれた箱を差し出してきた。

中には地元の銘菓と、小さな雑貨が入っていた。

 

「ユイにも、ちゃんとお礼言わせたくて」

 

そう言ったとき、玄関の奥からひょっこりとユイが顔を出した。

 

「おじゃましまーす……」

 

久しぶりに会ったユイちゃんは、なんだか少し大人っぽくなっていた。

髪が伸びていて、服のセンスも洗練されている気がする。

 

「こないだはありがとね。私のせいで大変なことになって」

 

笑顔でそう言われた瞬間、心臓が一瞬だけ跳ねた。

 

ユイちゃんは昔からかわいかったけど、今の彼女は“女の子”というより、“女性”という雰囲気があって、

その変化に僕はどぎまぎしてしまった。

 

「これ、お土産。向こうで買ってたやつだけど、まだ渡してなかったから」

 

ユイが差し出した紙袋には、小さな箱が入っていた。

それを受け取った僕は、なんとか平静を装いながら「ありがとう」と言った。

 

ほんの数分のやり取りだったけれど――

あの旅で曖昧に揺れていたものが、少しだけ現実に繋がったような、そんな気がした。

 

 

 

夕暮れの帰り道。

母さんに頼まれた買い物を終えて、ユイちゃんと並んで歩いていた。

 

薄いオレンジ色の空の下、二人の影が静かに並んで伸びている。

コンビニのビニール袋を片手に、僕はふと口を開いた。

 

「……ユイちゃん、いつ向こうに帰るの?」

 

ユイちゃんは少しだけ歩みを緩め、僕の方をちらりと見た。

 

「今週末かな。ママの仕事があるから、それに合わせて」

 

「そっか……」

 

わかっていたけれど、実際に聞くと胸の奥に小さな穴が開いたような気がした。

帰ってしまえば、またしばらく会えない。それが現実だ。

 

「こっちの生活、久しぶりでしょ?」

 

「うん。でもね、やっぱり落ち着く。こっちは空気が柔らかいっていうか、匂いが違うの。不思議だけど」

 

ユイちゃんはそう言って、空を見上げた。

その横顔は少し大人びて見えて、どきりとした。

 

僕は少し躊躇いながら、口にした。

 

「……ユイちゃん、なんか、すごく綺麗になったよ」

 

言ってから顔が熱くなる。

でも、嘘じゃない。心からそう思った。

 

ユイちゃんは驚いたようにこっちを見て、それから恥ずかしそうに笑った。

 

「なにそれ、急に。そんなの……」

 

「ほんとだよ。びっくりした。昔のイメージとちょっと違ってて」

 

「ふふっ、それ褒めてるんだよね?」

 

「もちろん」

 

笑い合ったあと、少しだけ沈黙が流れる。

 

でもその沈黙が、どこか心地よかった。

風が頬をなでていく。日が暮れる前の、短い優しい時間。

 

「帰る前に、またどこか寄ってみようか? あの公園とか」

 

ユイちゃんがそう言ってくれたとき、僕の中で何かがふわりと浮かび上がった。

懐かしさと、いまの彼女と向き合いたいという新しい感情が混ざっていた。

 

「……うん、行こう。また、あの場所」

 

僕はそう答えながら、心のどこかで願っていた。

この再会が、一時的なものじゃありませんように――と。

 

 

母さんの写真を見つけたあの時からおかしくなっていた僕だが、なんとか元の世界に戻れそうな気がしている。

 

 

この前のことは全て僕の妄想、僕の見た夢だった。

 

今はそう思える。

 

イクミさんもユキさんも母さんも何も変わらない。

 

いいお母さんたちだ。

 

 

ユイちゃんが帰る日は、朝からどこか空が静かだった。

 

曇っているわけじゃないのに、光がやわらかくて、町全体が少しだけ色を落として見えた。

 

玄関先には、キャリーケースと紙袋がひとつずつ。

その横でユイちゃんが、靴を履いていた。

 

「電車、10時半なんだって」

 

母さんたちは奥でおしゃべりをしていて、僕とユイちゃんだけが、少しだけ取り残されていた。

 

「……そっか。あっという間だったね」

 

僕がそう言うと、ユイちゃんはくすっと笑った。

 

「うん。もっとのんびりできると思ってたけど、なんだかんだバタバタだった」

 

「それでも、会えてよかったよ。ほんとに」

 

そう口に出したとたん、胸の奥がじわっと熱くなった。

言いたいことは山ほどあるのに、言葉にすると全部うすっぺらくなってしまいそうで怖かった。

 

ユイちゃんは、キャリーの取っ手を軽く握ってから僕の顔を見て、少しだけ言いにくそうに口を開いた。

 

「……あのさ、またこっちに来るとき、連絡してもいい?」

 

「うん、もちろん」

 

即答した。

むしろ、してほしいと思っていた。

でもそれを伝えるには、あまりに声が震えそうだった。

 

「じゃあ、またね」

 

そう言って、ユイちゃんは手を小さく振った。

 

 

【挿絵表示】

 

 

駅まで車で送っていくユウナさんが「そろそろ行くよ」と声をかける。

 

僕はそれ以上、何もできなかった。

 

ただ、手を振り返して見送るしかなかった。

 

ユイちゃんが車に乗り込んで、扉が閉まり、やがてエンジンが静かに響く。

 

走り出す車の窓越しに、彼女がもう一度、僕の方を見て笑った。

 

それは、子どものころから知っているユイちゃんの笑顔だった。

でも今は、少しだけ違って見えた。

 

いつかまた――そう思いながら、僕は静かに手を下ろした。

 

 

僕はふと、部屋に戻って、机の上に置かれた小さな紙袋を手に取った。

ユイちゃんからもらったお土産。

まだ開けていなかった。

 

袋を開けると、きれいに包まれた箱と、小さなメモが入っていた。

 

 ――また遊ぼうね。

  今度はもっといろんな話、したいな。

 

たったそれだけの文字なのに、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

 

誰かがいなくなったあとに残るのは、静けさと、少しの後悔と、

そして、確かにそこに“何かがあった”という証。

 

ユイちゃんは、たぶんすぐに日常に戻っていく。

でも、僕はもう少しだけ、ここに留まっていたいと思った。

 

あの時間を、心のなかでゆっくり撫でるように、

忘れないように――

 

 

 

 

 

 

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