※この作品はR-18です。

母の写真 日常の向こう側   作:松田義和

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第三十六章 ありがとうな

スマホが小さく震え、画面が光った。

通知音が耳に残る。

 

ユイちゃんかな――

自然とそう思った。

ここ最近は、彼女とのやり取りが日課のようになっていたからだ。

 

けれど、画面に表示された名前を見た瞬間、息が止まった。

 

コウジ。

 

あの時の、あの男――

母さんと、あの場所で……

記憶が音もなく蘇る。

 

なぜ今頃?

なぜ、このタイミングで?

 

連絡先――たしかに、アドレス帳には残っていた。

ただ、それだけの存在のはずだった。

向こうも、もう僕のことなんて忘れていると思っていた。

いや、忘れていてほしかった。

 

けれど、今。

その名前は、現実として、僕の目の前にある。

 

メールの通知が一つ。

たった一通の、沈黙を破るメッセージ。

 

指が冷たくなる。

心臓の音が、遠くから聞こえるような感覚。

手のひらにじっとりと汗がにじみ、スマホを持つ手がわずかに震えた。

 

何が書かれている?

なぜ、今なのか?

 

僕は呼吸を整えることもできないまま、

震える指で、メールを開いた。

 

 

差出人:コウジ

件名:遅くなったけど、ありがとう

 

本文:

 

久しぶり。急にごめんな。

ちょっと遅くなったけど、この前の旅行のこと、お礼を伝えておきたくて。

 

あの時はありがとうな。

君も面白くなかったかもしれない。でもすごくいい時間が過ごせたよ。

 

お母さんたちともだいぶ打ち解けられたし、

最初はちょっと緊張してたんだけど、最後は名残惜しいくらいだった。

いろんな話もできたし、思ってた以上に楽しかった。

 

またどこかで、顔を合わせることがあったらよろしくね。

無理せず、元気でいてください。

 

コウジ

 

 

やはり、あの時のことは――

僕の夢だったのだろうか。

 

コウジから届いたメールを、僕は何度も読み返した。

文面は丁寧で、あくまで常識的で、悪びれた様子などどこにもなかった。

 

あの旅行が「楽しかった」と書かれていた。

お母さんたちと「打ち解けられた」とも。

――まるで、何も問題などなかったように。

 

けれど、僕の中にはまだ、あの夜の断片が残っている。

ぼやけた映像。

戸を少し開けたときに見えた、母の姿。

自分が見たものは何だったのか、今でも確信が持てない。

 

夢だったのか、妄想だったのか、

あるいは、あってはならない現実だったのか。

 

でも――

コウジのこの文面には、その“気配”がまったくない。

まるで、何一つ異常なことなど起きていなかったとでも言うように。

 

スマホの画面を消しても、しばらく僕は動けなかった。

胸の奥にひっかかるものだけが、じわじわと膨らんでいく。

 

「ありがとう」

「楽しかった」

その言葉が、やけに乾いた音を立てて心に響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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