スマホが小さく震え、画面が光った。
通知音が耳に残る。
ユイちゃんかな――
自然とそう思った。
ここ最近は、彼女とのやり取りが日課のようになっていたからだ。
けれど、画面に表示された名前を見た瞬間、息が止まった。
コウジ。
あの時の、あの男――
母さんと、あの場所で……
記憶が音もなく蘇る。
なぜ今頃?
なぜ、このタイミングで?
連絡先――たしかに、アドレス帳には残っていた。
ただ、それだけの存在のはずだった。
向こうも、もう僕のことなんて忘れていると思っていた。
いや、忘れていてほしかった。
けれど、今。
その名前は、現実として、僕の目の前にある。
メールの通知が一つ。
たった一通の、沈黙を破るメッセージ。
指が冷たくなる。
心臓の音が、遠くから聞こえるような感覚。
手のひらにじっとりと汗がにじみ、スマホを持つ手がわずかに震えた。
何が書かれている?
なぜ、今なのか?
僕は呼吸を整えることもできないまま、
震える指で、メールを開いた。
差出人:コウジ
件名:遅くなったけど、ありがとう
本文:
久しぶり。急にごめんな。
ちょっと遅くなったけど、この前の旅行のこと、お礼を伝えておきたくて。
あの時はありがとうな。
君も面白くなかったかもしれない。でもすごくいい時間が過ごせたよ。
お母さんたちともだいぶ打ち解けられたし、
最初はちょっと緊張してたんだけど、最後は名残惜しいくらいだった。
いろんな話もできたし、思ってた以上に楽しかった。
またどこかで、顔を合わせることがあったらよろしくね。
無理せず、元気でいてください。
コウジ
やはり、あの時のことは――
僕の夢だったのだろうか。
コウジから届いたメールを、僕は何度も読み返した。
文面は丁寧で、あくまで常識的で、悪びれた様子などどこにもなかった。
あの旅行が「楽しかった」と書かれていた。
お母さんたちと「打ち解けられた」とも。
――まるで、何も問題などなかったように。
けれど、僕の中にはまだ、あの夜の断片が残っている。
ぼやけた映像。
戸を少し開けたときに見えた、母の姿。
自分が見たものは何だったのか、今でも確信が持てない。
夢だったのか、妄想だったのか、
あるいは、あってはならない現実だったのか。
でも――
コウジのこの文面には、その“気配”がまったくない。
まるで、何一つ異常なことなど起きていなかったとでも言うように。
スマホの画面を消しても、しばらく僕は動けなかった。
胸の奥にひっかかるものだけが、じわじわと膨らんでいく。
「ありがとう」
「楽しかった」
その言葉が、やけに乾いた音を立てて心に響いた。