※この作品はR-18です。

母の写真 日常の向こう側   作:松田義和

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第八章 静寂の中で

みんなが帰ったあとの家は、嘘みたいに静かだった。

 

あれほど賑やかだったリビングには、もう誰の声も残っていない。

聞こえるのは、台所から響く水音と、陶器が軽く触れ合う乾いた音だけ。

 

母さんはエプロンをつけたまま、食器を洗っていた。

僕はリビングの椅子に座り、コップを手にぼんやりとしていた。

さっきまでの笑い声やおしゃべりが、まだ耳の奥で小さく反響している気がした。

 

「……疲れた?」

ふいに母さんが声をかけてきた。

「ううん、別に」

そう答えながら、僕は母さんの横顔をちらっと見た。

 

湯気の向こうで、母さんは微かに笑っていた。

笑っているというより、笑みが自然にこぼれている――そんな感じだった。

ほんの少し頬が紅くなっているのは、湯気のせいか、それとも。

 

「今日はありがとね。みんな、すごく喜んでた」

「……いや、別に」

「気が利くって、あちこちで言われてたわよ」

「……そんなつもりじゃなかったけど」

 

少し照れくさくなって、目をそらした。

でも、母さんはそんな僕の反応には慣れているようで、また黙って皿を洗い続けていた。

 

静かな時間がしばらく流れた。

そして、ぽつんと、母さんの声が落ちてきた。

 

「旅行ね……本当に行けると思わなかったな」

「……そうなの?」

「うん。こうして友だちと一緒に出かけるなんて、ずっと夢みたいな話だったし。まして温泉なんて」

「……たまには、いいと思うよ」

「そうね。たまには……」

 

母さんは水気をふき取りながら、僕のほうをちらりと見た。

その目が、やさしくて、でもどこか遠くの記憶を見ているような気がした。

視線を返すのが、なんだか気恥ずかしくて、僕は天井のほうを見たふりをした。

 

「……ほんとに、ありがとう」

小さく、でもはっきりした声だった。

 

僕は返事をしなかった。できなかった。

胸の奥が少しだけ、ざらっとした。

 

だって、本当は――

前回の温泉旅行だって、ただの親孝行じゃなかった。

僕の中にあった欲望。

あの日、母さんを“連れて行った”のは、感謝や思いやりだけじゃなかった。

 

あれから、僕は何度も自分に問い続けてきた。

母さんはあの出来事を、どう思っているんだろう。

本当に「楽しかった」と思っているのだろうか。

僕に向けられる感謝の言葉に、罪悪感と混乱が入り混じっていく。

 

でも――

たぶん、母さんの気持ちは嘘じゃない。

少なくとも、今日の笑顔は、本物だったと思う。

だからこそ、余計に苦しかった。

僕のなかの「そうであってほしい」という願いと、「そうであってはならない」という後ろめたさが、静かにせめぎあっていた。

 

窓のカーテンの隙間から、淡い夕焼けの光が差し込んでいた。

部屋の中の色が、少しだけやわらかく、黄金色に染まっていく。

その中で、僕たちはしばらく言葉を交わさなかった。

 

けれど、不思議と不安はなかった。

言葉がなくても、今だけは、どこか通じ合っていた気がする。

沈黙の中に、何かあたたかいものがあった。

 

母さんの後ろ姿を見ながら、僕はふと思った。

――このままじゃいけない。

でも、すぐに何かできるわけでもない。

 

せめて、これからの時間のなかで、少しずつでも――

母さんに、本当に「ありがとう」と言える自分になれたら。

 

そんなことを、夕暮れの光にまぎれて、ぼんやりと願っていた。

 

 

 

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