みんなが帰ったあとの家は、嘘みたいに静かだった。
あれほど賑やかだったリビングには、もう誰の声も残っていない。
聞こえるのは、台所から響く水音と、陶器が軽く触れ合う乾いた音だけ。
母さんはエプロンをつけたまま、食器を洗っていた。
僕はリビングの椅子に座り、コップを手にぼんやりとしていた。
さっきまでの笑い声やおしゃべりが、まだ耳の奥で小さく反響している気がした。
「……疲れた?」
ふいに母さんが声をかけてきた。
「ううん、別に」
そう答えながら、僕は母さんの横顔をちらっと見た。
湯気の向こうで、母さんは微かに笑っていた。
笑っているというより、笑みが自然にこぼれている――そんな感じだった。
ほんの少し頬が紅くなっているのは、湯気のせいか、それとも。
「今日はありがとね。みんな、すごく喜んでた」
「……いや、別に」
「気が利くって、あちこちで言われてたわよ」
「……そんなつもりじゃなかったけど」
少し照れくさくなって、目をそらした。
でも、母さんはそんな僕の反応には慣れているようで、また黙って皿を洗い続けていた。
静かな時間がしばらく流れた。
そして、ぽつんと、母さんの声が落ちてきた。
「旅行ね……本当に行けると思わなかったな」
「……そうなの?」
「うん。こうして友だちと一緒に出かけるなんて、ずっと夢みたいな話だったし。まして温泉なんて」
「……たまには、いいと思うよ」
「そうね。たまには……」
母さんは水気をふき取りながら、僕のほうをちらりと見た。
その目が、やさしくて、でもどこか遠くの記憶を見ているような気がした。
視線を返すのが、なんだか気恥ずかしくて、僕は天井のほうを見たふりをした。
「……ほんとに、ありがとう」
小さく、でもはっきりした声だった。
僕は返事をしなかった。できなかった。
胸の奥が少しだけ、ざらっとした。
だって、本当は――
前回の温泉旅行だって、ただの親孝行じゃなかった。
僕の中にあった欲望。
あの日、母さんを“連れて行った”のは、感謝や思いやりだけじゃなかった。
あれから、僕は何度も自分に問い続けてきた。
母さんはあの出来事を、どう思っているんだろう。
本当に「楽しかった」と思っているのだろうか。
僕に向けられる感謝の言葉に、罪悪感と混乱が入り混じっていく。
でも――
たぶん、母さんの気持ちは嘘じゃない。
少なくとも、今日の笑顔は、本物だったと思う。
だからこそ、余計に苦しかった。
僕のなかの「そうであってほしい」という願いと、「そうであってはならない」という後ろめたさが、静かにせめぎあっていた。
窓のカーテンの隙間から、淡い夕焼けの光が差し込んでいた。
部屋の中の色が、少しだけやわらかく、黄金色に染まっていく。
その中で、僕たちはしばらく言葉を交わさなかった。
けれど、不思議と不安はなかった。
言葉がなくても、今だけは、どこか通じ合っていた気がする。
沈黙の中に、何かあたたかいものがあった。
母さんの後ろ姿を見ながら、僕はふと思った。
――このままじゃいけない。
でも、すぐに何かできるわけでもない。
せめて、これからの時間のなかで、少しずつでも――
母さんに、本当に「ありがとう」と言える自分になれたら。
そんなことを、夕暮れの光にまぎれて、ぼんやりと願っていた。