許嫁になったダウナーギャルが毎週ヤられにくる話 作:月見ハク
真一さんと出会ったのは、本家の集まりで初めて田舎に行ったときだった。10歳のとき。
そのちょっと前に、お父さんが帰ってこなくなって。
お母さんは本家とは血のつながりがなかったから、田舎のお屋敷ではすごく気まずそうに微笑んでいたのを覚えている。
「無口な子やなぁ。男の子ならもっと元気でおらんと」
知らないお爺さんに頭をわしわしとされ、少しびっくりした。
そうしたらお母さんがすっと私の肩を抱いて微笑む。
「美玖、ご挨拶しよっか?」
「お、おお? ミクって、あー女の子かぁ~! 確かにめんこい顔しとるもんなぁ、ははっごめんなー! 俺ぁ年で目が悪いもんで」
すまなそうな顔をするお爺さんに、お母さんが気にしないでくださいと笑みを深くする。
なんとなく、お母さんが私を守ろうとしているのだと感じた。
でもべつに、私はそこまで嫌じゃなかった。
このお爺さんが、私をただ心配してくれている気がしたから。
だから、謝らなくていいです。
そう伝えたくても、言葉がうまく出てこない。どんな顔をして言ったらいいのかもわからない。
昔から表情が乏しい子だと言われてきた。お父さんがいなくなって、私はますます感情を表に出すのが下手になっていた。
本家の集まりには私の他にも子どもがいたけど、声をかけられても上手に話せない。
みんなの輪に入れなくて、お屋敷に来て早々に私はひとりぼっちになった。
お父さんもいない。私はこのお屋敷にいちゃいけない子。みんな赤の他人。
人のいないところを探すうち、いつのまにか縁側にいた。
大きくて立派な庭をぼーっと眺める。
ふと縁側の隅に、男の人が座っていた。
すごくつまらなそうに庭を見ている。誰だろう。
この人もひとりなのかな。
なんとなく、そんな気がした。
「……お母さん、お散歩してきていい?」
「えっ、ああうん、いいわよ。でもあまり遠くに行かないようにね」
忙しそうにテーブルを出したりしていたお母さんが、目尻を下げて微笑む。
きっと私が寂しそうだったから申し訳なく思ったのだろう。それが伝わってきて胸がチクリとした。
空が曇っていたので、傘を持って出る。
近くの川沿いを歩いていると、私は一人なんだと実感した。でもお屋敷にいるときよりはマシだった。
「ミァ」
水の流れる音に混じって、小さい鳴き声が聞こえた。
近づいてみると、草むらにダンボールが置かれていて、その中で小さい猫が鳴いている。黒と茶色と白。三色模様の子猫だ。
捨てられた子なんだと、私は直感した。
ポツポツと降りだした雨が、あっという間にザーザー降りになる。
こんな冷たい雨に当たったら、きっと弱って死んでしまう。
私は持っていた傘を広げてダンボールにかざし、雨が通り過ぎるのを待つことにした。
頭の上でバツバツと、雨が傘をたたいてくる。まるで私たちを攻撃しているみたいだ。
傘からはみ出た背中が冷たい。服の中までびっしょりで、寒い。
傘の下で、子猫が私に向かってミャーミャーと鳴く。まるでお母さん猫を連れてきてと訴えているようだった。
「……ごめんね、私が、いてあげるから」
それしか言えなかった。
今は世界に私とこの子しかいなくて。
ずっと我慢していた涙がたくさんこぼれた。
「君、その子の飼い主……じゃないよね。捨て猫かな」
突然声をかけられて、体がビクと震える。
傘をずらして見上げると、さっき縁側で見た男の人——お兄さんが、心配そうな顔をして立っていた。
子ども心に、この人は悪い人じゃない感じがした。
「捨てられちゃった、みたい」
どうしてだか頭がぼーっとして、そのせいか、何も考えずに言葉が出ていく。
自分でもびっくりするくらい声が震えていた。その響きが悲しくて、余計に涙があふれる。
「えっと、こんなとこにずっといても風邪引いちゃうよ」
お兄さんが、おっかなびっくりといった感じで聞いてきた。純粋に心配してくれているのが分かる。大人なのにおろおろしていて、優しい人なんだなと思った。
「……でも、この子、ひとりぼっちだから」
すると何かに気づいたらしいお兄さんが、またおそるおそる聞いてきた。
「君もしかして、俺のこと知ってる?」
知ってる。
本家のお屋敷にいたから、多分、私の——。
「……親戚の、お兄さん」
そう言うと、お兄さんはほっと安心するようにため息をついた。
「とりあえず俺の家、本家の屋敷に連れて行こうか。この子も弱ってそうだし」
「……いいの?」
「ぜんぜんウェルカムだよ。息苦しい家だけど、ここで凍え死ぬよりはずっといいよ。それに君も体を温めないと」
すごく気を遣っているのが分かる口調。だけど真剣に、心配している声色。
この人は、大人だけど頼ってもいい人。頼っても受け入れてくれる人。そんな気がした。
だから、素直に口から漏れる。
「ありがと……お兄さん」
傘を持って立ち上がると、ゆらりと視界が歪んだ。
「ちょい待ち、君もしかして熱あるんじゃ」
慌てたような声が聞こえる。
「ちょっとごめんね、さわるよ」
しゃがんで目線を合わせてきたお兄さんが、私の前髪をどかしておでこに触れた。
お兄さんの手が冷たくて気持ちいい。
それになんだか懐かしい感じがする。昔熱を出したとき、お父さんがこうやって……。
そういえば、今日は朝から体が重かった。
でも言ったらお母さんが心配するから。
本家の大切な用事の、邪魔になってしまうから、言えなくて。
「うわ」
力が抜けて体が重くなる。だけど私は地面に倒れることなく、お兄さんに優しく受け止められた。
ふわりと体が宙に浮く。
お兄さんが私を抱きかかえたのだと分かった。
こんなに軽々と持ち上げるなんて、すごく力持ちだと思った。そんなふうには見えなかったのに。
うっすら目を開けると、地面がうんと下にある。その高さがちょっとこわくて、横抱きにされていたから余計に不安定な感じがして。
だけどお兄さんが落ちないようにぎゅっとしてくれたから、絶対に落ちないんだと分かった。
心臓がドキドキする。だけどこのまま寝てしまいたいくらいに心地いい。
昔、お父さんに抱っこされたときみたいな……ううん、それとはちょっと違う、体の奥がじんわり温かくなるような感じ。
子猫が、私のお腹の上で丸まってる。だからこんなに温かいのかも。
なんだかよくわからない。心臓が鳴るたびに、いろんな気持ちがあふれそうになった。
「はぁ、はぁ」と、お兄さんが苦しそうに息を吐く。それに合わせて私の体が弾む。お兄さんは走っているみたいだった。
何度か、私を抱きかかえているお兄さんの手に力が入る。私と子猫が落ちないように。
何度目かで、私はお兄さんの胸元に顔を埋めることになった。
熱のある私のおでこよりも熱くて、シャツがぐっしょりと濡れている。最初は雨のせいかと思ったけど、すぐに大量の汗だと分かった。
ぜんぜんいやじゃない、落ち着く匂い。
もっと嗅ぎたくて、鼻をこすりつけてみる。
お兄さんの心臓がうるさいくらいにドクドクしていた。こんなに早い鼓動の音を聞いたことがない。雨の音はもう消えていた。
ふと、お腹の熱が上がっている。丸くなった子猫が目を閉じて眠っていた。安心して眠ってしまったらしい。私と同じ。私も、眠い。
「はぁっ、く……うぅっ」
見上げれば、お兄さんは顔を歪めて歯を食いしばっていた。少しひげの生えた顎から汗がポタリと落ちてくる。
(すごく、つらそうな顔……してる)
私たちを運ぶために、こんなに必死なんだ。
なんでだか、さっきよりもドキドキする。
お兄さんの苦しそうな表情から目が離せない。胸の奥がきゅっとなって、熱い。
大きな傘の中に、お兄さんの吐息と匂いがこもる。まるで世界に私たちしかいないような感じ。
お兄さんの体が強張る。太くて硬い腕に、何度も強く抱き締められる。だけどお兄さんの手は、私たちが苦しくないように優しく触れてくれていて。
私はこの感情がなんなのか分からなくて、自分の中に閉じ込めておきたくて、足を閉じ、胸をぎゅっと押さえた。
そうしているうちに、まぶたもゆっくり閉じていった——。
気づくと、私はお屋敷の布団に寝かされていた。
「ミァ~」
顔のすぐそばに子猫がいて、ペロペロとほっぺたを舐めてくる。
「……よかった、元気そう……」
「あら美玖ちゃんおはよぉ~、体の調子はどう?」
ふすまを開けて入ってきたおばさんに、子猫が驚いて逃げていく。
清江さん。
本家で一番えらい人なのだと、お母さんが言っていた。
「あらら、また逃げられちゃったわ~。あの子ぜんぜん懐いてくれないのよねぇ、美玖ちゃんにはすごく懐いてるのに……真一さんなんて半径3メートルにも近寄らせてもらえないのよ?」
「真一、さん……?」
「ああほら、美玖ちゃんのこと抱っこで連れてきたお兄さん、私の甥っ子」
「真一さん……」
初めて知ったお兄さんの名前を、私はゆっくり噛みしめた。
「体調が完全に良くなるまで、屋敷に泊まっていきなさい」
清江さんの提案にお母さんは何度も頭を下げていた。
けど、私は嬉しかった。
真一さんはお屋敷の二階に部屋があって、いつもそこにいるという。だから明日帰るまでの間にまた会えるかもしれない。
二階への階段は、お屋敷の玄関の近くにある。
私は玄関に腰掛け、真一さんが下りてくるのをじっと待った。
だけど何時間待っても、真一さんが現れない。
いっそのこと上がってみようかと思い、階段の近くに行ってみる。二階を見上げてすんすんと嗅いでみると、真一さんの匂いがふんわり漂ってくるような気がした。
「あら美玖ちゃんどうしたの、二階に用事?」
清江さんが興味深そうに聞いてくる。
「……しんい……お兄さんに、お礼……いいたくて」
「あらぁ、そんなの気にしなくていいのよぉ、当然のことをしただけなんだから。それに筋肉痛がどうのって言い訳して、ぜんぜん下にこようとしないんだから」
「どうして、下りてこないの?」
「さぁ~、あの子は都会が好きなんでしょうねぇ……田舎なんてこりごりって顔に書いてあるし。まったくもういい年なのに恋人も作らずダラダラ過ごして、将来どうするつもりかしらねぇ~」
「こいびと……お兄さん、好きな人いる……?」
「あらあら、美玖ちゃんっておませさんなのね~。そういう話気になる? まぁ~でも真一さんは浮いた話もそんな気配もないし、面白い話はなにもないわねぇ……。でもすすんで都会に住んでるわけだし、都会っぽい大人の子が案外好みなのかもねぇ、きっと」
都会っぽい、大人の子。
「ところで美玖ちゃんはいるの~? 好きな男の子、うふふ」
「……ううん」
「うふふふ、そう~。でも大丈夫よ、美玖ちゃんは将来お母さんに似てクールビューティーさんになるから、きっと引く手あまたよ~」
クールビューティーの意味はよくわからないけど、お母さんを褒められるのは嬉しい。
清江さんは話しやすくて、きっと真一さんに似て優しい人なのだと思った。
「あ、そうだわ、女の子用のお着物あるんだけど美玖ちゃん着てみない? 可愛らしいから絶対似合うわよ~!」
「……えっと、いいです」
都会っぽい、大人の子——その意味もいまいちわからなかったけど、女の子用の着物はなんとなく違う気がした。
「あらそ~お? うちに来る子はみんな喜んで着たがるんだけど、美玖ちゃんて不思議な子ねぇ~……ああ、もちろんミステリアスって意味でよ~」
清江さんが目尻の皺(しわ)を深くする。
私は顔を上げて、清江さん越しにまた階段の上を見つめた。
結局、その日も明くる日も、真一さんとは会えなかった。
翌年の、小学六年生の夏休み。
私は珍しくお母さんにお願いして、本家のお屋敷を訪ねた。
でも真一さんは帰ってきていないらしく、その年も会うことはできなかった。
「来年も、行きたい?」
お屋敷からの帰り道、疲れきったお母さんの顔を見て、もうお願いはしないと心に決める。
多分、私はもう真一さんには会えないのだろうと悟った。
大事な人は、離れていくものだから。
言葉にしづらい寂しさを紛らわせるために、私は図書館へ通うようになった。
目当ての猫の生態図鑑を借り、家でひたすら眺める。
住んでいるアパートはペット禁止だったけど、猫の写真を見ていると、あの日お腹に乗っていた子猫の温もりがよみがえってきて、少しだけ幸せな気持ちになれた。
「……三毛猫のオスって、めずらしいんだ」
あの子猫は三毛猫で、オスだった。
驚いた私は一人で興奮して、パートから帰ってきたお母さんに何度もその話をして、寝るときにも繰り返した。
あの子は奇跡の猫だった。
まるで真一さんとの出会いも運命的なものだったような気がして、嬉しかった。真一さんに話したら、きっと面白い顔をして驚くにちがいない。
そんな想像をするだけで胸の奥がくすぐったくなる。
この頃から、私は将来の夢に「獣医さん」と書くようになった。
中学に上がり、私は女子バスケ部に入部した。
バレー部と迷ったけど、たまたま私を勧誘してくれた先輩が、とても背の高い人だったから。
「ええっと……佐原さん、私の顔に何かついてるかな……?」
「……いえ」
「じゃ、じゃあどうしてそんなに見てくるの~っ」
「あ……いえ。先輩、背が高いなって」
「あぁっ、そうなの、なんだよかった~。顔のいい後輩に見つめられてドキドキしちゃったよ~」
「……私もバスケ部入ったら、背、伸びますか?」
「う~ん、わかんないけど……でも佐原さんって、別に背が低いほうじゃないよね」
「そうなんすけど……これだと、足りなくて」
たしか真一さんは、30センチ定規分よりもっと背が高かった。
バスケ部で、私は練習に打ち込んだ。
体が伸びるようにストレッチもして、普段から背すじもピンと伸ばすようにした。
部員のみんなはいい人ばかりたった。私は相変わらず無愛想なままだったけど、それでも言葉を交わすようになれたし、表情も少しは豊かになった……と思う。
部活では、初めて仲のいい友達もできた。
背が小さくて、濃い黒髪が印象的な女の子——コハル。
「ち~っす~、バトン部から転部してきたコハルっす~。へ~、おまえが佐原美玖か、噂は聞いてる。……噂以上のルックスやん、おっぱいでけー」
「……部長から、私がいろいろ教えてあげてって言われてるけど、教わる?」
「え、あたしと佐原美玖……さんで、マンツー!? まじ?」
「うん、そーだけど」
「うおっしゃやったぁ~っ!」
警戒されていたのは最初だけで、コハルはすごく人懐っこい子だった。
なんだか猫みたいで可愛い。周囲からはよく天然小悪魔とか言われていたらしいけど、口数の少ない私とは正反対の明るい性格で、一緒にいるとこっちまで楽しい気分になれた。
「ねぇねぇ美玖~、あたしピアス開けようと思うんだけど、どー思う?」
同じ高校に進学して、ますます私たちは遊ぶようになった。
前から行きたいと思っていた猫をコンセプトにしたカフェで、一緒におすすめのアイスティーを飲む。
「ピアスって、どんなの?」
するとコハルがスマホの画面を見せてきた。
「これこれ、このピンクのやつ~。うちって校則ゆるいじゃん? だからほどほどに盛りたいなと思ってさ~!」
「うん、コハルに似合いそう」
「ほんと!? やったーっ、美玖センスいいし、美玖のお墨付きならトップ狙えちゃうなコレ」
「どこのトップ狙うの?」
「もちろん学校のテッペンよぉ~」
コハルが得意げに人差し指を立てる。私がつい笑みをこぼすと、彼女はもっと笑顔を濃くした。
「私も応援するから」
「んっふ~、なら美玖も一緒にテッペンとろ」
「……私も?」
「そそ、とりあえず髪染めてみようよ? 美玖ってもとから地毛が茶色っぽいし、絶対似合うから。それに見た目ギャルっぽくしたほうが、キミのためにもなる!」
「私のため……?」
「そだよ~、美玖ってばまーた告られてたでしょ、今度は二年のセンパイに」
「うん……断ったけど」
「ほらそれっ、そのスンって感じ! 美玖、誰かと付き合うとか今は興味ないんだよね? 告られてもどうせ断るし申し訳ないな~、とか思っちゃうんだよねっ?」
「……うん」
「だったら見た目で告られなくすんの! ちょい派手めにすれば男なんてビビって言い寄ってこなくなるんだから。美玖はただでさえ近寄りがたいオーラ放ってるんだし、ギャルっぽくなったら絶対おいそれとは告られなくなるって」
「え、そうかな」
「間違いない、あたしにはテッペンギャルになった美玖が見える……!」
「……じゃなくて、近寄りがたいオーラ、放ってる?」
「あーそっち? 美玖まだそんなこといってんの? いいかげんそこはあきらめな~。てかそこがいいんだよキミは! 魅力っ! 美玖がフレンドリーになっちゃったらあたしなんか一瞬でモブAに格下げよ。それがイヤなんだよあたしは~っ!」
「そんなことない。コハルは可愛いし……友だちだし、ずっと」
「あ~ん美玖ぅ~! あ、店員さんアイスティーおかわり~!」
その日はアイスティーを二回おかわりして、結局「染めたほうが大人っぽいよ」の一言で、私はコハルの提案に乗ることに決めた。
「じゃあ、私これから面接だから」
一度店の外に出てから、コハルを見送る。
「うんうん、このお店雰囲気いいし制服も可愛いし、超合格っ! 美玖がバイトするのに申し分なし」
「誰?」
「んっふふ、美玖の保護者~。働き始めたら毎週通うね」
「受かるかな」
「美玖は意外なことに根がクソマジメだから絶対受かるよ!」
「ありがと……じゃーね」
「うーん、カタいなぁ」
「え……」
コハルが近づいてきて私の手を握った。
「美玖はさぁ、お別れのときいっつも拳(こぶし)をぎゅって握ってるよね。なんか我慢してるみたいにさ~」
言われて、初めて気づく。
私は誰かとさよならするとき……いつも手を握りしめていた。
もう二度と会えなくなるような気がして。
私のことを置いていってしまう気がして、その後ろ姿が寂しくて。
でも呼び止めるのも変だから、拳を握って我慢する。
思えば、昔からそうしていたような気がする。
ふとコハルが私の腕を持ち上げた。彼女も同じように自身の手を上げている。
「美玖には爽やか~な挨拶はハードル高いから、とりあえずこんなんでどう?」
コハルが拳をパッと開いた。
やってみてと言われ、私も同じように手をパーにしてみる。
「うむ。そしたら開いた瞬間に念じるの。好き好きバイバイ愛してる~って。ここまでがワンセットね、はい!」
好き好きバイバイ、愛してる。
「くっはあぁぁっ~! うんっ、キた! これならいくら美玖が無表情でも愛が伝わるよ!」
コハルの言ったとおりの気がした。これなら……寂しくても、ちゃんと気持ちのいいお別れができる。
「コハル、ありがと……じゃね」
手を二回、グーパーしてみる。ちゃんと心で念じながら。
「はうっ、美玖の愛が重い……さいこぉ。これ、誰にでもやっちゃダメだかんね!」
「しないよ、大事な人だけ……でしょ」
「美玖ぅ~!」
何度も手を開いて閉じてをするコハルに見送られ、私は店の中へ戻った。
なんだか心が軽い。
これなら、初面接も大丈夫な気がする。
「……佐原さんて、緊張しない人? なんか堂々としてるよね」
カフェの店長さんが、ほんの少し驚いたような笑みを浮かべている。
「いえ……緊張してるっす、だいぶ」
「へぇ、ぜんぜんそう見えないよ。なんか雰囲気あるし、接客向きかもね」
「……どうもっす」
「バイトは初めてなんだっけ、接客とかレジの経験もないよね?」
「はい……でも、いつも家事とか、家計簿はつけたりしてて……多分、すぐ覚えられると思います」
「へ~、お家の手伝いとかしてるんだ」
「うち、母子家庭で」
「ああ、そうなんだ。うん、佐原さんみたいに真面目でコツコツ仕事してくれそうな子は大歓迎だよ。さっそく来週から入ってもらおうと思うんだけど、なにか質問ある?」
「えっと、じゃー……髪、染めても大丈夫すか?」
コハルのおかげで、フレンドリーに話をすることができたと思う。
私はバイトに受かった。
バイトを始めて1年が経つころには、私も家計を支えられるようになっていた。
お母さんのパートの負担を少しずつ減らしてもらい、バイトのシフトを増やしていく。
将来の夢は「獣医さん」から「ペットシッター」に変わっていた。
獣医になるにはけっこうなお金が掛かる。働くようになって、今の家計状況では難しいことを痛感したから。
真一さんとの縁(えん)が、また一つ遠のいていく気がした。
バイト漬けの日々だったけど、このころ私には友だちが二人も増えた。
コハルが仲良くなった女の子と、その子の腐れ縁だという男の子。
「あ~、ゆーたでいいよ。俺もミクって呼ぶし」
勇太は、初めてできた男友だちだった。
同い年の男子にはどこか距離を置かれるか、突然告白されるかしかなかったから、気負わず接してくれる男の子は新鮮だった。
なんとなく余裕があって、女子ともよく分け隔てなく話してて、実際に話しやすかったから、人見知りな私はとても助かった。
「ミクさー、なんかいいバイト先知らねー? ミクんとこって募集してたりしないの」
「ゆーた、肉体労働だるいって言ってたよね。うちのカフェ、けっこうハードだけど」
「でも時給いいじゃん。なー、軽く紹介してもらえん?」
「……猫、好き?」
「あーあの店、猫愛にあふれてるもんなぁ。もちろん哺乳類の中では……一番好きだよ」
「じゃ、店長に聞いてみるね」
「……ああ、うん、助かるサンキュー」
勇太はすんなりと面接に受かり、学校でもバイト先でも一緒にいる時間が増えた。
でもコハルたちと四人で遊ぶ機会が減ることはなかった。バイトがなくて、家事の当番でもない日、学校終わりにみんなで話したり、ゲームセンターに行ったりするのはわりと楽しかった。
「ミク、勝負しねぇ?」
駅近くにあるアミューズメント施設で遊んでいるとき、勇太が真剣な顔で言ってきた。
屋内のバスケットコート。ゴールを見つめながら並んで立つ。
「三本先取な。勝ったほうが言うこときくってことで」
「……いいよ」
パシュと気持ちのいい音がして、私の三本目のシュートがゴールに吸い込まれた。勇太はすでに二本外しているので、私の勝ち。
「あー、やっぱ元バスケ部にはかなわねー。フォーム完璧じゃん」
「ゆーたって、中学ずっとサッカー部でしょ。どうしてバスケ挑んできたの」
「まあ、男のけじめっつーか、意地?」
「もし勝ったら、なにお願いするつもりだったの」
「ミクさ、俺と付き合ってくんないって」
「べつに、いいけど」
「……マジ、か。おお……あー、じゃあっ、よろしく……」
その場にへたり込んで、小さく拳を握っている男の子を見る。
べつに、勇太ならいいのかなと思った。
仲良くなって長いし、私も勇太のことは嫌いじゃない。
それに、私のことが好きらしいというのはコハルから何度も聞かされていたし、試しに付き合ってみるのもいいってよく言われていたから。
仲のいい人が喜んでくれるなら、べつに——。
彼氏と彼女になっても、私たちは友だち付き合いの延長みたいだった。
私が不器用で付き合うっていうのがいまいち分からなかったから、かもしれないけど。
それでも、なるべく彼女として応えようとしていたと思う。
「ミク、今日バイト入ってねーよな。ヒマなら放課後どっか行かね」
「夕飯作らないとだけど、それまでだったら」
「よっし、どこ行きたいとかある?」
「ケフィディシャは?」
「いや俺らのバイト先やん」
勇太がお笑い芸人みたいにツッコんでくる。
でも、私は真面目に提案したつもりだった。
「バイト割がきくから、お得でしょ」
「いやナシだろ」
「じゃあ、うち来る?」
「お母さん帰ってくんだろ、それだとほら、さすがに気まずすぎるって」
「……ゆーたは、どこ行きたいの」
「そりゃまー、ラブホとか?」
「お金なくなるよ」
「ミクさ、俺がなんのためにバイトしてると思ってんの」
「……わかんないけど」
「お前それさすがに鈍感すぎねぇ? まーいいや。じゃー今日はケフィディシャでいいや。ちゃんと夕飯の支度には間に合うように返すよ、それでいいんだろ」
「うん……いーよ」
「いや、つーかさ、はぁ……なんかすげー一方通行っつーか、ミクって俺の気持ち、ちゃんと伝わってんの?」
「どういう意味?」
「意味もなにも、そのまんまの意味だろ」
「私……そういうの苦手っていうか、言ってくれないとわかんない」
「まー、ミクだもんな。あーうん、ミクはそのままでいいよ。俺の問題だし」
勇太はため息をつくと、黙ってしまった。
やっぱり私は人付き合いが向いてない。
コハルのおかげで少しは慣れたと思っていたけど、友だち以上の関係となると途端に難しくなる。私は10歳の、あの頃とぜんぜん変わっていない。
「……あ~、そうだミクさ、土曜日ヒマだったよな? どっか遊びに行かね? ほら、あんまデートっぽいデートしたことなかったじゃん俺ら」
家事があるからヒマというわけではないけど、夕方までなら空けられると思う。
「いいよ」
「おっしゃ、じゃーミクの行きたいとこDMしといて。今度はケフィディシャ以外な」
土曜日の、曇り空。
私たちは近所の自然公園にいた。
木々が茂っていて、公園をつっきるように小川が流れている。吹き抜ける風が気持ちよくて、青々とした匂いのするところだった。
子どもの頃、お父さんとお母さんと何度か来たことがある場所。
「なんつーか、普通の公園だな。ここがミクの来たかったとこなんだ、すげー意外」
「ここ、嫌だった?」
「んなことねーよ、こういうデートもまーいいじゃん。それよりさ、俺ミクの私服って初めて見たかも」
「あー、うん、そうかな」
「……想像以上っつーか、破壊力やべー……」
「どういう意味?」
「いや、めっちゃ……あー、まあいいや、改めて言うのもハズいし」
勇太が口に手を当てて目を泳がせる。
何かを口にするのを、ためらっているように見えた。何を言いたいのか聞いても、多分はぐらかされて終わる。それが分かっているから、私も聞かない。
歩き出すと、勇太が少し後ろを付いてくる。
「ミャー」
ふと、草むらの奥から鳴き声がした。
「ミャー」
間違いない。これは子猫が……誰かを必死に呼ぶときの声。
「え、ミクどーした?」
草むらの側にしゃがみ込み、奥を覗き込む。そこには震えて縮こまっている灰色の子猫がいた。
「子猫がいる……ほら、おいでー」
優しく呼びかける。子猫はよたよたと、でもまっすぐ私の伸ばした手に近づいてきた。
「野良猫か」
「ううん、ちがう。野良はこんなに人懐っこくない」
「捨て猫ってことか? いやどー見ても野良猫だろ、土まみれで汚ねーし」
「野良の子はもっと痩せてるし、目に警戒心が宿ってるから。それに近くに親猫の姿も見当たらない。……多分、飼い主のとこから逃げて迷子になって、戻れなくなっちゃったんだと思う」
指をペロペロと舐めてきたので、ゆっくり、丁寧に胸の中へ抱え込む。子猫は寝返りを打つように体をこすりつけてきた。
すごく大切に育てられた子なのが分かる。でもだいぶ弱ってる。成猫ならまだしも、この子じゃ厳しい野良の世界を生き抜けない。
10歳の頃の私は、あの子に何もできなかった。
でも今の私なら、助けられる。
「このままだと、この子きっと死んじゃう。私ちょっと行くね。ゆーたはどうする?」
「は? 行くってどこ」
「コンビニ、猫のご飯売ってるとこあるから。一応、動物病院にも行こうと思う」
「いやいや、なにそれどういう展開? なんでミクが野良猫ひろって面倒みんの? 俺ら今デートしてんじゃん。今日夕方までなんだろ? 病院とか行ってたら時間なくなんだろ。いっつもこっちが時間気にしてやってんのにさ、意味わかんねーよ」
勇太が立ったまま見下ろしてきた。その目が私の胸元、子猫を睨みつける。
私は子猫を安心させるように優しく抱き締めると、立ち上がって勇太を見た。
「ゆーた、怒ってる?」
「はぁ? ミクこそなんで怒ってんだよ」
「……私、怒ってないし」
「あきらかに怒ってんだろ。てか俺といるときいっつも淡泊なくせに、猫なんかにムキになってよ、なんか早口だし。……俺ミクが怒ったとこ初めて見たわ、マジで何考えてるかわかんねー」
何考えてるかわからない。
これまで何度も言われてきた。私もよくわからない。勇太の考えてることだって、わからない。私は不器用で、それを相手にうまく伝えることもできない。
でも。
「……この子は、助けなきゃだから」
「あーわかったよ。ミクは言い出したらきかねーからな。俺は帰るわ、もう勝手にしろよ」
「うん、じゃあね」
勇太が頭をくしゃくしゃとかいて、背中を向けて去っていく。
その後ろ姿に、なんて声をかけていいのかも私にはわからない。でも呼び止めたいとは思わなかった。
空を覆っていた雲はいつのまにか低くなってて、ポツポツと中途半端な雨が降ってきた。
「あったよ、君のご飯。……チュールと鶏ささみでいい?」
二軒目のコンビニで猫の餌が売っていた。陳列棚を吟味しながら子猫に話しかける。
前髪から水滴が垂れ、子猫にポタリと落ちる。慌てて前髪をかき上げ、商品を取って立ち上がった。
「雨、冷たいよね……はやくあったかいとこ、行こ」
子猫の小さい耳にささやくと、トントンと肩を叩かれた。
「ねぇあのさ」という男の人の声。
はっとして振り向くと、見知らぬスーツ姿の人が立っていた。
「うわ、近くで見るとビジュやばいね~……え、猫!?」
「……」
「ああごめん、僕はこういう事務所の者なんだけど、お姉さんモデルとか興味ない? いやさっきコンビニ入ってくとこ見かけてね、スタイルいいなーと思ったんだけど、うん、君なら十分通用するよ。どう、話だけでも聞く気ない?」
「興味ないんで」
「あ、あー、いきなりだったしね、ごめんねー。一応名刺だけ渡しとくからさ、興味湧いたら連絡してよ」
名刺を手渡して、男の人は去っていった。
「……お腹、すいたね。今買うから」
ペロペロと腕を舐めてきた子猫を撫でながら、レジへ向かった。
動物病院で診てもらい、衰弱しているけど体に異常はないと聞いて安心した。捨て猫ではなく、やはり迷子猫だろうと獣医さんは言っていた。
世話をするつもりならまずは体を綺麗に洗ってあげて、あとは栄養のあるものをちょっとずつ与えるといいとアドバイスもしてくれた。獣医さんは、とてもいい人だった。
家に戻り、私も服を脱いで一緒にシャワーを浴びる。
「泥、すごい。たくさん旅してきたんだね、ひとりぼっちで」
洗面器の中でじっとしている子猫にシャワーをかけ、自分にもかける。
温かいお湯が体をつたっていく。
包まれるような感覚が、じんわり広がっていく。
「……」
さっき、コンビニで声をかけられたとき。
思わず頭に浮かんだのは勇太じゃなくて、別の人だった。
もう会えないと諦めたはずなのに、こうして目を閉じると抱っこされたときの浮遊感がよみがえってくる。
あの落ち着く匂いを、必死そうな息づかいを、はっきり思い出せてしまう。
「ん……」
お腹の奥がジンジンして目頭が熱くなってくる。にじんだ汗が、お湯と一緒に流れていく。鼓動が早くなって、小刻みな吐息が漏れる。
お風呂場の外から物音がした。
「……お母さん帰ってきた。ご飯作らなきゃだから、もー出ようか。……大丈夫、飼い主が見つかるまで私が、いてあげるから」
シャワーを止め、私は子猫を抱っこした。
お母さんは驚いていたけど、事情を話したら協力すると言ってくれた。
だけどうちのアパートはペット禁止で、下に住んでいる大家さんの説得には、お母さんも付いてくることになった。
大家さんも最初は渋い顔をしていたけど、私なりに根気強く訴えたら許してくれた。うるさくしない、部屋から出さない、置いておけるのは来月までという条件付きで。
去り際、お母さんが迷惑料だといって大家さんに封筒を渡していた。
「……ちゃんと返すから」
そう言うとお母さんは「いいのいいの」と笑っていた。だけど私はバイトのシフトをさらに増やすことにした。この子のことで、誰にも迷惑をかけたくない。拾った私が責任を持ちたかった。
「は? ミク今日もバイトかよ」
「あの子のぶんも稼がないとだから」
「はぁ……ガチりすぎだろ。ミクの時間ほとんどねーじゃん。とっとと保健所とか連れてったほうがよくね?」
学校の帰り道で、隣を歩く勇太が大きなため息をつく。
「保健所はだめ」
「あっそ。意味わかんねーけど」
「ゆーた、別れよっか」
「……突然すぎね?」
「そーかな」
「そうだろ! てかふざけっ……いや、まー多分俺にも原因……てかミクのことだからどーせ俺が何言っても、気持ち変わんないんだろ」
「うん、そうだね」
「だよな、はぁぁ……」
「連絡先、消す?」
「え、いや極端すぎね? べつに別れたって、今までみたいに友だち同士でいればいいだろっ! いきなり疎遠になるとかねーって」
「ゆーたが、それでいいなら」
私たちは彼氏と彼女から、もとの友だちに戻った。
「えぇっ、それで美玖たちあっさり別れちゃったんだ! うわぁ~、ゆーたもバカチンだなぁ~。だから美玖にはちゃんと言葉にしないと伝わらねーよって何度もアドバイスしてやったのに、ほんとどうしよーもねー」
ケフィディシャで、コハルがアイスティーをずずっと吸い上げた。空になったグラスの中で氷が音を立てる。
「ごめんコハル、いろいろしてくれたのに」
「いーのいーの、なんとなくゆーたのキャパじゃ無理そーとか思ってたし? 美玖の事情とかツンツンを華麗に受け止めるような男じゃないと、美玖には釣り合わないのよ」
「私、そんなにツンツンしてる?」
「だからそこはあきらめなって、それに一見ね、一見! 実は面倒見よくて優しくてめ~っちゃ甘えんぼさんなの、あたしは知ってるからさ」
「……ありがと」
「くっふぅ~っ、美玖のたまに見せる笑顔たまらんのよぉ~、はぁ~世の男どもに見せてやりたい、マジでみんな分かってねぇ~……いやでも見せたくねー!」
お代わりのグラスが運ばれてくると、コハルが肘をついてストローをくわえた。ちゅーっとアイスティーが上っていく。なんだかその仕草が猫っぽいと思った。
じっと眺めていると、彼女が「でさ」と目を合わせてきた。
「美玖にはもっとこう、包容力というか余裕があって、情緒が安定してて、ちゃんと思ってることを言葉にしてくれてさ、舌足らずな美玖の気持ちも察してくれて……あ、もちろんそれを分かってくれよ~って感じじゃなくて、それとなーくね。んで、困ったときはさりげなく助げてくれて、いつもキミを甘やかしてくれて、寂しがり屋の美玖が遠慮なく甘えられる……そんな大人の男の人が合ってるとあたしは思うわけよ!」
言い終えたコハルが、再びストローに吸い付く。
大人の、男の人。
あの人のことが脳裏に浮かび、トクと心臓が揺れた。
「あれ美玖っち、汗かいてる? え、めずらし~、ここそんな暑くないよね」
「うん、暑くないね」
ふうんとコハルが眉を上げる。次の瞬間には、思い出したようにスマホを取り出し、気になっているというアイシャドウの画像を見せてきた。
「ただいま」
バイトを終えて家に帰ると、お母さんの靴があった。おかえりーと居間のほうから声が返ってくる。
玄関先にビリビリになったティッシュが散らばっていた。それが台所へと続いている。ひっくり返ったゴミ箱の近くで、子猫がくしゃくしゃに丸まった紙を噛んでいた。
「散らかしちゃったね」
子猫の頭を撫で、紙を口から離す。ファックス用紙のようだった。
なんとなく広げてみて、呼吸が止まる。
プロフィールらしい紙の左上に、あの人の——真一さんの顔写真があった。
モノクロで映りも悪いけど、見間違えるはずない。
「乙原、真一」
名前の下に書かれている現住所を見ると、私たちと同じ街だった。
真一さんが、すぐ近くに住んでいる。忙(せわ)しなく視線を走らせると、空欄のところに筆で走り書きがあった。
『許嫁の件、検討よろしくお願いします』
急いで居間へ向かう。多分、私は泣きそうな顔をしていたと思う。お母さんが目を見開いて驚いていた。
「これ、真一さんって、なに?」
「え、ああそれね……本家の清江さんから送られてきたのよ。年頃の甥っ子の相手を探していて、佐原さんのところはどうかって」
うんざりしたような顔で、お母さんがため息をつく。
「いまどき許嫁って……それも年の離れた相手に、ねぇ、うちが分家筋だからって……田舎のしきたりだかなんだか知らないけど、どういう神経してるのかしら」
許嫁……しきたり。
そんな風習があるのだと初めて知った。でもそんなことはどうでもよくて、もう二度と会えないと思っていたあの人に、もう一度会えるかもしれない。そう思うと胸の奥が苦しくなった。
「美玖は気にしなくていいからね。私のほうからきっぱり断って——」
「話、聞いてみたい」
「えっ?」
「清江さんに、電話してもいい?」
それから一週間後の金曜日。
私は真一さんと会えることになった。
都合のいい待ち合わせ場所を聞かれたので、ケフィディシャを希望した。
学校終わり、早足でカフェに向かう。汗がでる。
スマホで撮った真一さんのプロフィールを何度も確認しながら、お店の中に入る。
奥の二人席に、後ろ姿があった。
襟付きのジャケットを着ていて昔とは雰囲気が違ったけど、すぐ分かった。
近づくと、ふわりと懐かしい匂いが漂ってくる。一度も忘れたことのない落ち着く匂い。
トクトクと心拍数が上がっていく。バイトの面接をするときだってこんなに緊張しなかった。
息を整えて、声を掛ける。
「……どうも」
思ったより低い声が出た。
真一さんは弾かれたように顔を上げ、キョロキョロとあたりを見回してから、私のほうに視線を戻した。
昔と変わってない。
記憶よりも少しくたびれた感じだけど、雰囲気も仕草も、あの頃と同じ。それがなんだか嬉しかった。
「えっと……俺?」
「乙原真一さん……っすよね」
「え、そうですけど……もしかして、佐原美玖……さん?」
真一さんに初めて名前を呼ばれ、心臓が勝手に跳ねる。
「そっす」
私は短く返事をするので精いっぱいだった。
※19時にもう1話更新します!