滝沢が最初に彼女を見つけたのは、梅雨の合間の薄暮れ時だった。
アパートの共用廊下、二〇一号室のドアの前。膝を抱えてうずくまる小さな背中。濡れた髪が頬に張り付き、薄い肩が小刻みに震えていた。
滝沢は二十二歳になったばかりで、配属されて半年の平社員だった。隣の二〇二号室に住み始めて三ヶ月。毎朝六時半に出て、夜は十時を過ぎて帰る。隣の部屋のことはよく知らなかった。時折、激しい男の怒鳴り声が壁越しに聞こえる程度だった。
「君、大丈夫?」
少女は顔を上げなかった。ただ、小さく頷いた。毛布もなく、玄関マットの上に座り込んでいる。冷たいコンクリートの床。六月とはいえ、夕立の後は肌寒い。
滝沢は自分の部屋に戻り、タオルケットを持ってきた。少女の肩にかけると、ようやく顔が見えた。八歳ほどだろうか。目が大きく、頬がこけ、唇は乾いてひび割れていた。睨むような目つきだったが、その奥には何もなかった。怒りでも、恐怖でもない。ただ空洞。
「お腹、空いてない?」
少女は答えなかった。けれど、小さな手が腹のあたりを押さえた。
滝沢はコンビニへ走った。おにぎり二つ、温かいお茶、卵焼き。戻ると少女は同じ姿勢でいた。差し出したおにぎりを、少女は最初じっと見つめた。奪うように受け取り、急かすように頬張った。噛まずに飲み込んでいる。嗚咽のような音が喉から漏れた。
それが、始まりだった。
滝沢の日常は単調だった。
朝起きて、コーヒーを一杯淹れ、出勤。帰りは十一時近い。疲労で思考が濁る。給料は安く、未来の見えない仕事。それでも辞めなかった。辞める理由もなかったから。
ただ、帰路のコンビニで立ち寄る時間だけが、彼の日々に小さな皺を作った。
少女は、いつもいた。
二〇一号室の前。膝を抱え、ドアに背を預けて。季節が変わっても、彼女の位置は変わらなかった。夏の日差しの下でも、秋の冷たい風の中でも。時折、腫れた目をしていることがあった。時折、腕にあざがあった。滝沢は何も聞かなかった。
おにぎりを差し出すと、少女は無言で受け取った。
最初の頃は目も合わせなかった。
食べ終わると、空の包み紙を滝沢の方へ押し返し、また膝に顔を埋めた。ありがとうも、おはようもない。ただ、食べた。生き延びるために。
滝沢はそれでよかった。
彼自身、人と深く関わるのが苦手だった。実家を出たきり、親には年賀状すら出さない。会社でも、必要最低限しか喋らない。空気のように過ごす。それが楽だった。
だから少女に対しても、特別な感情はなかった。ただ、隣にいる子供が腹を空かせている。それだけ。見て見ぬふりをするほど、滝沢はまだ冷たくなかった。
三ヶ月ほど経って、少女が初めて口を開いた。
「……なんで」
おにぎりを渡そうとした時だった。滝沢は手を止めた。
「なんで、くれるの」
掠れた声だった。小さく、蚊の鳴くような声。けれど滝沢には届いた。
「……腹、空いてるだろ」
少女は沈黙した。それから、ゆっくりとおにぎりを受け取った。いつもより少しだけ丁寧に。包み紙を開ける指先に、ためらいがあった。
その夜、滝沢は部屋に戻ってから天井を見つめていた。心臓のあたりがむず痒い。大したことじゃない、と自分に言った。ただの親切だ。誰だって、腹を空かせた子供に食べ物を渡す。
けれど、壁の向こうからまた怒鳴り声が聞こえた。ガラスが割れる音。少女の悲鳴。滝沢は布団を被った。警察に通報しようか。何度も考えた。けれど、隣の住人の家庭の事情に首を突っ込むのが恐かった。自分の生活を壊したくなかった。
翌朝、少女の目の下に鬱血があった。唇も切れていた。滝沢は何も言わず、温かいお茶を渡した。少女は両手で包むように持って、少しずつ飲んだ。
「あったかい」
その一言が、滝沢の胸の底に沈んだ。
一年が過ぎた。
少女は少しだけ大きくなった。頬に肉がつき、髪にも艶が出た。まだ笑わない。けれど、滝沢が帰ってくると、顔を上げるようになった。おにぎりを受け取る時、指先が触れる。冷たい指だった。
「名前、あるの?」
ある冬の夜、滝沢は聞いた。
少女はしばらく黙っていた。
「……美咲」
「滝沢だ。滝沢健一」
美咲はその名前を小さく繰り返した。「たきざわ」と。初めて聞く自分の名前のように、舌の上で転がすように。
それから、少しずつ変わった。
美咲が、時折話すようになった。一言、二言。短い言葉。表情は変わらないまま。けれど、滝沢が座り込んで隣にいると、体の力が抜けるのが分かった。肩が下がり、呼吸が深くなる。
「今日、何食べた?」
「学校の給食」
「何だった?」
「……カレー」
「うまかった?」
「……ふつう」
日常の会話。他愛のないやり取り。滝沢にとってはそれが、意外なほど心地よかった。会社では誰ともこんな話をしない。報告と指示と、形式的な挨拶。ここでは、言葉の意味よりも、声を交わすこと自体が意味を持っていた。
ある日、美咲が風邪をひいた。廊下で小さく咳き込んでいる。額に手を当てると、熱かった。滝沢は初めて美咲に触れた。手の甲を額に当てた、それだけ。数秒。
けれど美咲は目を閉じて、滝沢の手から熱を吸うように身じろぎした。
滝沢は慌てて手を引っ込めた。
「……熱いな。病院、行く?」
美咲は首を横に振った。
「じゃあ、薬買ってくる。ここ、動くなよ」
コンビニで風邪薬とゼリーを買って戻ると、美咲は同じ場所にいた。言われた通り、動かなかった。そのことが滝沢の胸を刺した。言われたことを守る、信じる、待つ。子供の、無防険な信頼。
薬を渡して、ゼリーを開けてやった。美咲は素直に食べた。熱で潤んだ目が、滝沢を真っ直ぐに見た。
「……滝沢さんは、優しい」
初めて聞く言葉だった。震える声で、確かめるように。滝沢は返事に詰まった。優しい。そんな風に言われたことがなかった。
「ただ、腹にものを詰め込んでるだけだ」
美咲は首を振った。
「違う」
それ以上、何も言わなかった。
美咲が十歳になった頃、状況が変わった。
二〇一号室の男がいなくなった。詳細は分からない。ある日突然、母親と美咲だけになった。母親は昼間働きに出て、夜は遅い。美咲は相変わらず廊下にいたが、少しだけ明るくなった。
中学に上がると、美咲は少しずつ変化を見せた。
制服を着た美咲が、廊下で本を読んでいることが増えた。図書館で借りたのだと言った。小説が好きだ、と。滝沢が「何を読んでる?」と聞くと、表紙を見せた。宮沢賢治。次が夏目漱石。次が太宰治。
「滝沢さん、本、読む?」
「あんまり読まない。漫画なら」
「漫画、どんなの?」
「……昔読んでたな。ドラゴンボールとか」
美咲はきょとんとした顔をした。それから、くしゃりと顔を歪めた。笑おうとして、止まったような顔。笑い方が分からない子供の表情。
滝沢はそれを見て、胸が痛んだ。同時に、温かいものが湧いた。
「……何?」
「ううん」
美咲は首を振った。それから、小さな声で言った。
「おもしろい人だなって」
高校生になった美咲は、滝沢の目の前で少しずつ花が開くように変わっていった。
身長が伸びた。髪が長くなり、背中まで届くようになった。制服のスカートの裾が短い。女子高生らしい、造作の整った顔立ち。廊下ですれ違う住人が、目で追うのを滝沢は見た。不快だった。
「滝沢さん」
ある日、美咲が珍しく切り出した。
「彼女、いないの?」
滝沢はコンビニ袋を持ち直した。
「いない」
「いたこと、ある?」
「……大学時代に、一度」
「何で別れたの?」
「仕事が忙しくて」
「ふうん」
美咲は足をぶらぶらさせた。廊下の手すりに腰を預け、夕暮れの空を見上げた。十六歳の横顔。まだ幼さが残る。けれど、もう少女ではなかった。
「私、バイト始めた」
「どこ?」
「本屋」
「いいな、本好きだもんな」
「……うん」
美咲は黙った。
それから、少しだけ声を落として言った。
「滝沢さんに、何か買ってあげたい」
滝沢は手を止めた。
「いいよ、そんなの」
「ダメ」
美咲は初めて、強い目をした。
「いつも、もらいっぱなし。おにぎり、お茶、薬。全部。何も返してない」
「返してもらうためにやってるんじゃない」
「分かってる。でも」
美咲は唇を噛んだ。言いかけて、止めた。
「……もう、ただの隣人じゃないから」
滝沢は言葉を失った。十六歳の美咲の目は、真剣だった。あの空洞だった瞳に、何かが宿っていた。灯りのようなもの。弱く、揺れて、けれど確かに燃えている。
滝沢は目を逸らした。
「……早く、部屋に入りな。暗くなるぞ」
美咲は少しだけ寂しそうな目をした。けれど、何も言わずに頷いた。ドアを開け、消えなかった灯りを背に、部屋に入った。
その夜、滝沢は眠れなかった。
十八歳の春、美咲は高校を卒業した。
卒業式の日、美咲は廊下で待っていた。ブレザーの襟に、小さな花の胸飾り。髪はまとめて、初めて滝沢が見る髪型だった。
「おめでとう」
滝沢は言った。何を買おうか考えた。ケーキか、花か。結局、いつものコンビニだったが、少しだけ奮発した。ショートケーキと、小さな花束。
美咲は花束を受け取って、しばらく見つめた。それから、胸に抱きしめた。震えていた。
「……滝沢さん」
「ん?」
「十周年だね」
「何のだ?」
「出会ってから」
滝沢は数えた。二十二歳から三十二歳。十歳から十八歳。十年。
「……そうだな」
「滝沢さんは、変わった?」
「太った」
美咲は笑った。初めて見た、と滝沢は思った。笑声。小さく、息を漏らすだけ。けれど、確かに笑った。目が細くなり、口角が上がった。十年で、初めて。
「……あんたこそ、変わったな」
「どこが?」
「笑えるようになった」
美咲は笑みを止めた。じっと滝沢を見た。真剣な目に戻った。十八歳の目。大人の女性の目。
「滝沢さん」
「ん?」
「……私、明日から正社員で働く」
「そうか。どこ?」
「町の印刷屋。近いから」
「よかったな」
「うん」
美咲は一歩、近づいた。花束を抱きしめたまま。滝沢の胸板のすぐ前に立った。身長差。見上げる形。夕暮れの光が廊下を橙色に染めた。
「……滝沢さんは、いつか私のこと、いらなくなる?」
「は?」
「もう子供じゃないし、腹も空かせてない。もう、おにぎり、いらないでしょ」
滝沢は息が止まった。十年分の時間が、胸の底からせり上がってきた。
「……馬鹿か。お前がいなくても、俺はコンビニに行く」
美咲は目を見開いた。
「……それって」
「……もう、ただの隣人じゃないだろ。十年も前から」
美咲の目が潤んだ。零れなかった。堪えた。
大人の顔で。
「……うん」
それは、突然の夜だった。
美咲が叩いたのは、滝沢の部屋のドアだった。十時過ぎ。帰宅した滝沢がシャワーを浴び終え、冷蔵庫のビールを開けた頃。
ドアを開けると、美咲が立っていた。部屋着。髪を下ろしている。化粧をしていない。素顔。
「……どうした?」
美咲は黙って、滝沢を見上げた。目が、泣いていた。笑って、泣いていた。
「……入っていい?」
「美咲?」
「お願い」
滝沢は黙って、道を開けた。
美咲は部屋に入った。初めて入った、滝沢の部屋。狭いワンルーム。整理はされているが、生活感が薄い。男の一人暮らし。壁に掛けたカレンダーの日付が、三日遅れている。
美咲は靴を脱いだ。揃えて置いた。それから、立ち止まった。振り返った。
「滝沢さん」
「ん?」
美咲は歩み寄った。一歩、二歩。腕を伸ばした。滝沢の胸に、額を押し付けた。手を、背中に回した。しがみついた。子供のするように。けれど、体は子供ではなかった。大人の体。女の体。
「……十年分、我慢してた」
美咲の声は震えていた。
「……ずっと、ずっと。滝沢さんだけ、見てた。滝沢さんだけ、待ってた。おにぎり、お茶、薬、全部。全部、覚えてる。あったかいって、言った。それ、忘れられない。ずっと」
「美咲、お前——」
「……分かってる。分かってるよ。でも」
美咲は顔を上げた。涙が頬を伝っていた。十八歳の顔。幼さと大人の影が同居した、不安定な顔。
「……私、大人になったよ。もう子供じゃない。おにぎり、いらない。薬も、いらない」
美咲の手が滝沢の胸を押した。掌で、心臓の上を押した。
「……滝沢さんが、欲しい」
滝沢は、動けなかった。
十年の時間が、網膜の裏に走った。膝を抱えた少女。空洞の目。ひび割れた唇。冷たい指。「あったかい」。笑わない子供。笑えるようになった少女。花束を抱きしめた十八歳。
滝沢の手が、勝手に動いた。
美咲の背中に腕を回した。小さな背中。けれど、もう肩骨はしっかりしていた。髪の匂いがした。シャンプーの香り。子供の頃の、無臭ではない。女の匂い。
「……俺も」
滝沢の声は掠れた。
「……ずっと、我慢してた。お前が子供だから。だから——」
「……抱いて」
美咲は言った。囁きだった。呼吸のような。けれど、確かに聞こえた。
-
滝沢は美咲を抱き上げた。ベッドまで、三歩。狭い部屋。美咲は滝沢の首に腕を巻きつけた。目を閉じていた。唇が、微かに震えていた。
唇が触れた。柔らかい。冷たい。熱い。十年間、触れたことのない唇。最初は擦れるだけ。美咲が唇を開いた。舌が触れた。滝沢は息が止まった。背筋に電流が走った。
欲望が、堰を切った。
十年分の自制が、音を立てて崩れた。理性の堤防が決壊した。滝沢は美咲をベッドに押し倒した。荒っぽくはなかった。最初は。丁寧に、優しく。髪を撫で、頬に触れ、首筋に唇を寄せた。
美咲が息を漏らした。
「……ん」
滝沢の手が、部屋着の裾から滑り込んだ。肌に触れた。熱い。滑らかな肌。十年来、指一本触れなかった肌。背中を撫で、腰に手を添えた。美咲の体が弓なりに反った。
「……滝沢さん、好き。大好き」
美咲の声が、夜の空気に溶けた。
滝沢はもう、止まれなかった。
滝沢は美咲を抱き上げた。ベッドまで、三歩。狭い部屋。美咲は滝沢の首に腕を巻きつけた。目を閉じていた。唇が、微かに震えていた。
唇が触れた。柔らかい。冷たい。熱い。十年間、触れたことのない唇。最初は擦れるだけ。恐る恐る、確かめるように。美咲が唇を開いた。舌先が触れた。滝沢は息が止まった。背筋に電流が走った。唾液が混じり、音が変わった。ねっとりと、湿った音。美咲の舌が滝沢のそれを追いかけた。不器用に。けれど貪るように。
「ん……っ」
美咲の喉から漏れた声が、滝沢の理性を削った。
キスだけで、滝沢は硬くなっていた。十年の禁欲。勃起がズボンの生地を押し上げていた。美咲の腹に、その硬さが当たっていた。美咲は気づいていた。逃げなかった。むしろ、体を押し付けた。
欲望が、堰を切った。
十年分の自制が、音を立てて崩れた。理性の堤防が決壊した。滝沢は美咲をベッドに押し倒した。荒っぽくはなかった。最初は。丁寧に、優しく。髪を撫で、頬に触れ、首筋に唇を寄せた。鎖骨の窪みに舌を這わせた。塩味がした。汗の味。美咲の体が弓なりに反った。
「ん……っ、滝沢さん……」
滝沢の手が、部屋着の裾から滑り込んだ。肌に触れた。熱い。滑らかな肌。十年来、指一本触れなかった肌。脇腹を撫で上げた。肋骨の一本一本が指に当たった。細い体。けれど、もう骨ばかりではない。柔らかい肉の層。女の体。
部屋着を脱がせた。美咲は両腕を上げ、素直に抜いた。ブラジャーが露わになった。白い、シンプルな下着。滝沢は少し躊躇った。けれど、背中のホックに指をかけた。外した。ブラジャーが滑り落ちた。
胸が露わになった。
小さかった。けれど形は整っていた。薄い桜色の先端が、固く立ち上がっていた。滝沢は息を呑んだ。十年間、少女だった美咲の体。それが今、目の前に裸で横たわっている。
滝沢は胸に手を添えた。柔らかい。掌に収まる大きさ。指で先端を摘んだ。美咲が息を詰めた。
「あ……っ」
舌で転がした。先端を口に含み、舌先で円を描くように舔った。美咲の体が跳ねた。ベッドのシーツを握りしめた。爪が白くなった。
「や……っ、滝沢さ、ん……っ」
滝沢はもう、止まれなかった。
初めは、互いに不器用だった。
滝沢は長い間、誰とも肌を触れ合わせていなかった。最後の相手は、七年前に別れた大学時代の恋人。体の動かし方を、忘れていた。
美咲は当然初めてだった。
滝沢は美咲のズボンを下ろした。パンティーの上から、手のひらを当てた。熱かった。湿っていた。布越しに、ぬめりが伝わった。美咲が膝を閉じようとした。滝沢は優しく膝を開いた。
「大丈夫。見るから」
美咲は目を閉じて、ゆっくりと脚を開いた。
パンティーをずらした。露わになった。淡い毛が薄く生えている。割れ目が濡れて光っていた。滝沢は指で触れた。美咲がびくりと震えた。
「あっ……!」
指を滑らせた。濡れていた。指が沈むほどに。クリトリスを指先で撫でた。美咲の腰が浮いた。
「や、あ、そこ……っ」
滝沢は指を一本、中に入れた。狭かった。指を締め付けるような熱。美咲が息を止めた。眉を寄せた。痛みの顔。けれど、爪が滝沢の腕に食い込んだ。離すなという無言の合図。
「ごめん、痛いか?」
「ううん。大丈夫」
嘘だった。滝沢には分かった。指を動かすと、美咲の顔が歪んだ。けれど少しずつ、表情が変わった。痛みだけだった顔に、別の色が混じった。息が荒くなった。腰が、滝沢の指に合わせて動き始めた。
「あ、なんか、変……っ、変なの……っ」
滝沢は指を二本に増やした。開いた。中の壁を擦った。美咲が声を上げた。初めて、快楽の声を。
「あっ、あ、あ……っ」
滝沢は指を動かしながら、クリトリスを舌で転がした。同時に。美咲の体が反り上がった。シーツを握りしめる手が震えていた。
「い、いや、滝沢さ、何か、来る……っ、来ちゃう……っ」
美咲の体が硬直した。腹が波打った。内壁が滝沢の指を激しく締め付けた。痙攣した。息を止めて、体を震わせた。そして、長い息を吐いた。
初めて、達した。
美咲は涙目で滝沢を見た。頬が紅潮していた。
「……滝沢さん、私、何か……」
「大丈夫だ」
滝沢はズボンを脱いだ。下着も。勃起が露わになった。美咲は初めて見る男の体。目を見開いた。少し恐かったようだ。けれど、手を伸ばした。触れた。指先で、確かめるように。
「……硬い」
滝沢は笑えなかった。快楽で、笑える余裕がなかった。
「……入れるぞ。痛かったら、言え」
美咲は頷いた。脚を開いた。滝沢は先端をあてがった。濡れている。けれど狭い。先端だけ入れた。美咲が息を止めた。眉が歪んだ。
「……大丈夫か?」
「……うん。来て」
滝沢は腰を進めた。ゆっくり。少しずつ。美咲の体が締め付ける。狭い。熱い。壁が押し返してくるような感覚。十年の禁欲。溜まりに溜まった衝動。理性が焼り切れた。
ついに、奥まで入った。美咲が息を吐き出した。滝沢の胸に額を押し付けた。
「……滝沢さんの中に、いる。滝沢さんが、私の中に」
その言葉が、滝沢の理性をさらに削った。
動いた。ゆっくり最初は。引き抜いて、戻す。引き抜いて、戻す。粘りつくような感覚。内壁が滝沢を追いかけた。離すまいとするように。
けれどすぐに速度が上がった。欲望のままに。獣のように。腰を打ち付ける。音がした。肌と肌がぶつかる濡れた音。ベッドのスプリングが軋んだ。美咲の体が跳ねた。揺れる胸が、滝沢の目の前で揺れた。
「あっ、あっ、あっ、滝沢さ、ん……っ!」
美咲が滝沢の名前を呼んだ。「たきざわさん」ではなく、「けんいち」と。初めて、下の名前で。
「けんいち、けんいち……っ!」
それが滝沢の理性を完全に飛ばした。
一度目は、早かった。長い間の禁欲が、浅い刺激で弾けた。美咲の中で膨張し、脈打ち、吐き出した。深く、奥で。逃げなかった。中に。欲望のままに。熱い液体が美咲の中に注がれた。美咲は体を強張らせて、滝沢を受け入れた。目を見開いて、滝沢の背中に爪を立てて、震えた。
「あ……っ、熱い……っ。中に、出てる……っ」
滝沢は奥まで押し込んだ。最後の一滴まで、絞り出すように。美咲の体が痙攣した。滝沢の精液を受け入れた。子宮が、脈打つように収縮した。
二人はそのまま、動かずにいた。滝沢の重みが美咲の上に乗っていた。心臓の音が互いの胸を通して伝わった。汗が混じった。
二度目は、時間がかかった。
滝沢は一度抜いた。精液が美咲の割れ目から溢れた。白い粘液がシーツに滲んだ。美咲はそれを見て、頬を赤くした。
「……出た。いっぱい」
「……ごめん。避妊——」
「いい。中で、って。私が、そうしてほしかったから」
滝沢は言葉に詰まった。美咲の目は真剣だった。
二度目は、体位を変えた。美咲を四つん這いにさせた。尻を向けさせた。後ろから、入った。深く。この角度は、より深く入った。美咲が声を詰まらせた。
「う、あっ、深い……っ!」
滝沢は美咲の腰を掴んで、腰を打ち付けた。激しく。肉がぶつかる音が部屋に響いた。美咲の背中が反った。肩甲骨が浮いた。汗が背中を伝って、腰の窪みに溜まった。
滝沢は美咲の髪を掴んだ。引いた。首が反った。美咲の喉が露わになった。白い首。滝沢はそこに唇を寄せた。噛んだ。跡がついた。赤い跡。
「あっ、あ、い、いや……っ、でも、いい……っ、いい……っ!」
美咲が初めて、快感に目を細めた。声が変わった。痛みの声から、別の声へ。甘い、掠れた声。滝沢はそれを聞いて、また理性が飛んだ。深く、激しく。突くたびに、美咲の体が前に滑った。腕が震えた。支えきれなくなった。顔が枕に埋まった。尻だけ高く上げられた。滝沢は腰を掴み直し、さらに深く突いた。
「けんいち、そこ、そこ、いい……っ!」
滝沢は手を伸ばして、前からクリトリスを指で弄った。中と外、同時に。美咲が悲鳴に近い声を上げた。
「あ、あ、あっ、だめ、だめ、また、来る……っ!」
美咲の内壁が激しく収縮した。滝沢を締め付ける。絞り取るように。滝沢は耐えられなかった。二度目も、中に吐き出した。美咲が達した。体が弓なりに反って、崩れた。滝沢の上に倒れ込んだ。背中合わせ。汗で張り付いた肌。
「……けんいち……」
美咲の声は掠れていた。
「……私、幸せ」
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三度目は貪欲だった。
滝沢は休む間もなく、美咲の体を仰向けに戻した。精液が太腿を伝っていた。粘液が糸を引いた。美咲は虚ろな目で滝沢を見た。潤んだ目。とろんとした目。快楽に溶けた顔。
滝沢は美咲の脚を開かせた。肩に乗せた。M字に開いた。割れ目が露わになった。赤く腫れた粘膜。精液が混じった白い濁った液。滝沢はそれを見て、さらに硬くなった。
入れた。三度目。まだ、硬度は衰えていなかった。むしろ、前より硬かった。欲望が、尽きなかった。
美咲が息を漏らした。
「あ……っ、また……っ」
滝沢は正常位で、顔を見ながら、動いた。ゆっくり。深く。引き抜かずに、腰を回す。美咲の顔が歪む。快楽の顔。舌が唇から覗く。
「……けんいち、見てる……?」
「見てる」
「私の顔、見て。……達く時、見てて」
滝沢は美咲の目を見た。潤んだ目。涙が溢れていた。快感の涙。痛みの涙。十年の想いの涙。
滝沢は速度を上げた。激しく。突き上げた。奥を突くたびに、美咲の体が跳ねた。声が高い。喘ぎが激しくなる。壁が薄い。隣に聞こえるかもしれない。そんなことは、もうどうでもよかった。
「あっ、あっ、あっ、あっ、けんいち、けんいち、けんいち……っ!」
美咲は滝沢の背中に脚を絡めた。深く入れさせるために。腰を浮かせて、滝沢に合わせた。自分から、求めた。
「中に、また、中に出して……っ!」
滝沢は突き上げた。最深部で、膨張した。三度目。中に。欲望のままに。十年間指一本触れなかった体を欲望のままに弄んだ。胸を吸い、腰を掴み、太腿を開かせ、奥を突いた。美咲の体が揺れた。スプリングが軋んだ。枕が落ちた。
美咲の肌は薄い桜色に染まり汗が光った。胸の先端が滝沢の胸に擦れて赤くなっていた。首の跡が赤紫に変色していた。太腿には指の跡が残っていた。
美咲はもう声を堪えなかった。滝沢の名前を繰り返し呼んだ。喘ぎ、叫び、泣いた。快感と、愛おしさと、十年の想いが混じった声で。
三度目の放出は、長かった。滝沢は美咲の中で、最後の欲望を絞り出した。美咲は達した。体を硬直させ、震え、そして溶けるように力を失った。
明け方、滝沢は目を覚ました。
薄暗い部屋。雨が降り始めていた。窓ガラスを叩く音がした。
隣に、美咲がいた。眠っていた。横を向いて、膝を曲げて。シーツが腰までしかかっていなかった。白い背中が、闇に浮かんだ。肩甲骨が、小さな翼のように見えた。背中には、昨夜の爪の跡が赤い線になって残っていた。首には噛んだ跡。薄い紫色。
滝沢は天井を見た。
胸の底から、重いものが湧いていた。罪悪感。鈍く、広がる。胃のあたりが重い。吐き気が混じった。
——俺は、何をした。
十八歳の美咲。十年間、、おにぎりを渡して、お茶を渡して、薬を渡して。指一本、触れなかった。その俺が。
昨夜の記憶が、断片的に蘇った。美咲の肌の熱。声。涙。爪の跡。中に吐き出した瞬間の、快楽と、喪失。三度。自分の欲望のままに。止まらなかった。止めようとしなかった。むしろ、貪った。飽くことなく。美咲の体を、欲望のままに、もて遊んだ。
——彼女は、俺の優しさを求めていたのに
美咲が求めたのは心だった。十年の想い。ずっと見ていた。ずっと待っていた。そう言った。その想いに俺はどう応えた。
体で、応えた。欲望で、応えた。三発、中出し。避妊もしなかった。理性が、完全に消えた。獣だった。十年の禁欲を、一気に解き放った。美咲の体を、性処理の道具のように扱った。
——俺は彼女の体を弄んだ
その言葉が、胸に刺さった。鋭く、深く。
美咲が求めたのは、そんなことではなかったはずだ。温もりを、求めた。信頼を、求めた。俺に、触れたかっただけだ。十年間、触れられなかった人に、やっと触れた。その温もりを、確かめたかった。
それを、俺は——
昨夜の自分の姿が、客観的に浮かんだ。腰を打ち付ける音。喘ぎ声。精液。爪の跡。噛み跡。中に出せと懇願する美咲に、応えた自分。欲望のままに、突き続けた自分。美咲の体をあらゆる角度で味わった自分。胸を吸い、腰を握り、太腿を開かせた自分。
——俺は、彼女を汚した
十年かけて、おにぎりとお茶で築いたもの。指一本触れないという誠実さで築いたもの。それを、一晩で壊した。
——彼女は俺を信じていた。十年間、ずっと。
なのに、俺は——
滝沢は手で顔を覆った。目が熱かった。涙が出た。三十歳を過ぎて、泣いたのは何年ぶりだろう。
美咲が身じろぎした。薄目を開けた。滝沢を見た。
「……起きてたの?」
「……ああ」
美咲は滝沢の顔を見て黙った。手を伸ばした。滝沢の手を顔からどけた。濡れた目が見えた。
「……泣いてるの?」
「馬鹿か。お前が、変なこと言うからだ」
美咲は少しだけ笑った。それから、滝沢の胸に額を押し付けた。いつもの、あの位置。
「……後悔してる?」
滝沢は答えなかった。答えられなかった。喉が詰まった。
「私は、後悔してない」
美咲の声は静かだった。確かめるような、静かな声。
「十年待った。ずっと滝沢さんだけ。やっと触れた。やっと触れてもらえた。私の全部、滝沢さんにあげた。それ、私が決めたこと」
「……美咲」
「私は、子供じゃない。自分で決めた。自分で、滝沢さんを誘った。だから——」
美咲は顔を上げた。泣いていた。けれど、笑っていた。
「——罪悪感なんて、持たないで。私、幸せだから」
滝沢は美咲を抱きしめた。強く。十年前、あの廊下で出会った時のように。けれど、あの時とは違った。あの時は、肩にタオルケットをかけただけ。今は、体温が、心臓の音が、直接伝わった。
「……ごめん」
「……何が?」
「……優しくできなかった。激しくて、荒っぽくて……。お前の体、傷だらけにして」
美咲は首を振った。
「優しかったよ」
嘘だと分かった。昨夜の俺は優しくなんかなかった。欲望の獣だった。十年の自制が一瞬で壊れた。自分のことしか考えていなかった。美咲が痛がっても、止まらなかった。中に出せと懇願する美咲の言葉に、抗えなかった。むしろ、その言葉に煽られた。欲望のままに、突き続けた。
——俺は、彼女の十年を、欲望で汚した
けれど美咲は、もう一度言った。
「優しかった。滝沢さんは、いつでも優しい」
滝沢は目を閉じた。涙が頬を伝った。
「……俺は、お前を傷つけたかもしれない」
「傷ついてない」
「嘘だ。お前、泣いてた」
「嬉しくて、泣いてたの。違うの」
美咲は滝沢の涙を指で拭った。指先が、滝沢の頬を伝った。温かい指。十年前、冷たかった指。
「……十年前、滝沢さんがおにぎりくれた時、私、生きようって思ったの。それまで、どうでもよかった。死んでもいいって、思ってた。でも、おにぎり温かくて、お茶温かくて。滝沢さんの手、大きくて。それで、生きようって」
滝沢は息が詰まった。
「だから、昨日もらったものは、全部、嬉しかった。痛いのも、激しいのも。滝沢さんが、私を見てくれた。私の中に、いた。それが、嬉しかった」
「美咲……」
「……私、滝沢さんのもの。十年前から。だから、罪悪感なんて、いらない」
雨が強くなった。窓ガラスを叩く音が部屋を満たした。
滝沢は美咲の髪を撫でた。十年前、一度もしなかったこと。冷たい指。今は、温かかった。
——十年前、俺はおにぎりを渡した。それが、何を生んだのか。
この温もり。この涙。この罪悪感。この幸福。この、拭えない後悔と、消えない愛おしさ。全部があの日のコンビニのおにぎりから始まった。
——俺は、彼女を愛している
それが分かった。罪悪感の底から、確かに浮かんだ感情。十年間、気づかないふりをしていた。指一本触れないことで、隠していた。けれど、昨夜、壊れた。隠せなくなった。
——愛している。けれど、俺は——
彼女を愛する資格があるのか。十年の信頼を、一晩の欲望で壊した俺に。
美咲は滝沢の胸に耳を当てた。心臓の音を聞いている。
「……滝沢さんの心臓、早い」
「……お前のせいだ」
「ふふ」
美咲は目を閉じた。
「……このまま、朝まで。こうしてていい?」
滝沢は頷いた。美咲の体を強く抱きしめた。離さないように。二度と、あの廊下でうずくまらせないように。
雨が、少しずつ弱くなっていた。
翌朝、滝沢はいつもより早く目を覚ました。
六時。雨は上がっていた。窓の外に、薄い陽の光が差していた。
美咲はまだ眠っていた。安らかな顔だった。十年前のあの空洞はもうなかった。眉間の力が抜けていた。唇に薄い笑みが残っていた。首の跡は薄くなっていたが、まだ残っていた。シーツには昨夜の痕跡が残っていた。精液の染み。汗の匂い。
滝沢は起き上がりキッチンに立った。
コンビニはまだ開いていない。だから、冷蔵庫の中で、おにぎりを作った。握り方を知らなかった。適当に、ご飯を握った。海苔を巻いた。不格好な、温かいおにぎり。
二つ。一つは、美咲の分。
プレートに乗せて、ベッドサイドに置いた。メモを書いた。
『いつもの。おはよう』
滝沢はスーツに着替え出かけた。ドアの前で振り返った。美咲はまだ眠っていた。おにぎりの湯気が薄く立ち上っていた。
——また、帰りにコンビニに寄ろう。
滝沢はドアを閉めた。
廊下は静かだった。十年前と同じ廊下。同じコンクリートの床。同じ手すり。
けれど、何かが変わっていた。玄関先の灯りは、もう消えなかった。