「ちょっと買い物行ってくるね」
そう言って母さんは、いつものように軽く手を振って玄関の扉を開けた。
その音がしてから、どれくらい時間が経っただろう。
時計の針はすでに夕方を指しているのに、母さんはまだ帰ってこない。
最初のうちは気にも留めていなかった。スーパーで知り合いと立ち話でもしてるんだろう、くらいに思っていた。
けれど、時間が過ぎるにつれ、胸の奥にざわざわとした不安が広がっていった。
スマホに連絡もない。LINEも既読がつかない。
――なにかあったんじゃないか?
そんな思いがふとよぎり、僕は窓の外を何度も見た。けれど、細い路地の向こうから母さんの姿が現れることはない。
まるで、このまま永遠に帰ってこないんじゃないか、そんな悪い想像が頭の中をちらつく。
僕は立ち上がり、部屋を出た。
探しに行こうか。
でも、どこへ?
あの「買い物」の行き先すら、僕はちゃんと聞いていなかった。
僕は玄関でサンダルをつっかけ、扉を開けた。
外はもう、少し肌寒くなってきていた。空には灰色の雲が広がり、昼間の暑さが嘘みたいに消えていた。
とりあえず――そう、母さんがよく行く、あのスーパーへ行ってみよう。
道は慣れたものだった。母さんと一緒に歩いた記憶も多い。けれど今日はひとり。なぜか歩幅が自然と速くなる。
途中すれ違う人の顔に、つい目を凝らす。母さんの後ろ姿じゃないかと何度も思って、でも違っていて、胸の奥がきゅっとなる。
スーパーが見えてきた。
自動ドアの前で立ち止まり、深呼吸。
中はいつもと同じ、淡々とした日常が広がっている。レジ前に並ぶ人たち、棚を見ながら歩く主婦、カートを押す子ども連れ――でも、どこにも母さんの姿はない。
一通り店内を回ってみた。
野菜売り場、精肉コーナー、日用品の棚、パンの前……でも、いない。
――どこ行ったんだよ、母さん。
スマホを取り出して、もう一度LINEを開いた。
「まだ?」と一言だけ送ってみる。でも、既読はつかない。
僕はスーパーの前に立ち尽くし、どうしようもない無力感を噛みしめていた。
まさか、とは思いたくないけれど――
何か、起きたんじゃないか。
僕は店を出て、ふと思い出した。
――ここでパートしてるの、マサユキの母さんじゃなかったか。
そうだ。ユキさん。品出しやレジ打ちをしているのを、前に見かけたことがある。
もしかしたら、何か知ってるかもしれない。
店の奥、青果コーナーの近くに目をやると、ちょうど彼女が段ボールを開けながら並べ替えをしていた。
「こんにちは」
少し緊張しながら声をかけると、彼女は振り返って優しく笑った。
「あら、ヨシカズくん。どうしたの?」
僕は迷ったが、正直に言った。
「……母さんが、買い物に行くって出て行ったんですけど、まだ帰ってこなくて。ここに来たのかなと思って……」
ユキさんは一瞬だけ手を止めて、僕の顔をじっと見つめた。
その目に、ほんのわずかな戸惑いがよぎったのを僕は見逃さなかった。
「そう……うーん、今日は確かにちょっと前に見かけたわよ。入口のほうで誰かと話してた気がするけど……」
「誰かと?」
「ええ、男性だったと思うけど……あ、ごめんなさい、ちゃんと顔は見てないの。でも知り合いっぽかったわ。親しげな雰囲気で」
胸の奥がずしりと重くなる。
誰だ、その男は。
なぜ母さんは、そんな人と話していた?
――そして今、どこへ?
「ありがとう、ユキさん」
「心配なら、もう少し探してみたら? 危ないことじゃないといいけど……」
その言葉に背中を押され、僕は再び歩き出した。
次は――どこを探せばいいんだろう。
「ねえ、さっき来てた人たちってテレビかなんか?」
その一言に、僕の足が止まった。
スーパーの出入口近くで立ち話をしている、年配の女性ふたり。
その何気ない会話が、なぜか耳にこびりつく。
「なんかカメラっぽいの持ってたし、女の人、すごく綺麗だったわよね」
「うん。白いシャツに、風になびく長いスカート。女優さんかと思ったくらい」
――白いシャツ、ロングスカート。
それは、母さんがたまに着ていた、お気に入りの服。
「それでさ、男の人に手を引かれてたのよ。まるでどこかに誘導されるみたいな感じで……」
「そうそう。そのまま駐車場の方に歩いて行ったの。私たち、しばらく見てたけど、戻ってこなかったわね」
手を引かれて――
駐車場へ。
僕の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
誰なんだ、その男は。
どうして母さんは、何も言わずに……?
スマホを取り出す。
メッセージは、まだ既読になっていない。
僕は黙って、駐車場の方へと歩き出した。
母さんの姿を求めて。
そして――その“男”の正体を確かめるために。
駐車場は夕方の光の中で静まり返っていた。
何台かの車がぽつぽつと停まっているが、人の姿は見えない。
僕は歩を進めながら、ぐるりと視線を巡らせた。
そのとき――
視界の端に、不自然な存在が映った。
一台の大きなボックス車。
他の乗用車よりひと回り以上大きく、まるで引っ越し業者か、撮影機材を積んだバンのようにも見える。
ナンバーは見覚えのない地名。
窓は黒くスモークがかかっていて、中はまったく見えない。
だけど、なぜだろう。
直感が告げてくる。
――あの中に、母さんがいる。
僕は気づかぬうちに、足を止めていた。
ボックス車の方をじっと見つめたまま、動けなくなっていた。
何かが、おかしい。
この場違いな車。
消えた母さん。
そして、“手を引かれていた”という言葉。
車の中で、何が起きている?
それとももう、母さんは乗ってどこかへ行ってしまったのか?
僕は、喉の奥がひどく乾くのを感じながら、一歩――車へ近づいた。
僕はゆっくりと車に近づいていった。
エンジンは止まっている。人の気配もない。
だが、どこか生臭い緊張感が漂っていた。
そっと車体の横に立ち、助手席側の窓に顔を近づける。
中を――覗いた。
……が、見えない。
濃いスモークガラスが、内部の様子を完全に遮っていた。
まるで中に何かあることを隠すために、わざとそうしているかのように。
僕は反対側に回り、後部の窓にも目を凝らしてみる。
だがやはり、黒い鏡のように自分の顔が映るばかりで、その奥は闇に閉ざされていた。
――どうしてこんなに念入りに中を隠す?
何かを積んでいるのか、それとも――誰かが?
スマホを取り出し、時間を確認する。
もう、母さんが出て行ってから2時間近くが経っていた。
まさか本当に……この車に?
そう思った瞬間、僕の心臓がドクンと鳴った。
そのとき――
カチ、と微かにドアの鍵が開くような音がした。
僕は息を呑んだ。
目の前のボックス車が、ゆっくりと揺れたように見えた。
カチッ――
確かに聞こえた、解錠の音。
僕が身をすくめた次の瞬間、スライドドアが音を立ててゆっくり開いた。
中から現れたのは、見知らぬ男が二人。
ひとりは黒いキャップを目深にかぶり、もう一人はカメラ用のショルダーバッグを肩から下げていた。
無言で降りてきた彼らは、ちらりと周囲を見回す。
その顔には焦りも戸惑いもなかった。
むしろ、どこか満足げな空気すら漂っていた。
「今日はいい素材が見つかったな」
そう言ったのは、背の高い男。声は低くて乾いている。
「これで来月の発売、なんとか間に合うな」
もう一人が答え、肩をすくめるように笑った。
僕の全身から、血の気が引いていくのがわかった。
――素材? 発売?
何の話だ?
彼らは、そのまま車の後方に回り、荷台の扉に手をかけた。
まさか……!
僕の喉の奥から、叫びがこみ上げそうになるのを、必死に飲み込んだ。
その“素材”の意味が、ひどく恐ろしいものに思えてならなかった。
「奥さん、ご協力ありがとうございました。助かりました」
低く落ち着いた声とともに、何かを手渡す音がした。
「こちら、報酬です」
そう言って、男は薄い封筒を母さんの手に押し込んだ。
僕は咄嗟に、隣の車の影に身を潜めた。
見つかるわけにはいかなかった。
今の自分には――見届けるしか、できなかった。
そして次の瞬間。
車の奥から、母さんがゆっくりと降りてきた。
よろけるように片足を下ろし、もう一方の足が地面に着くまでに少し時間がかかる。
その様子は明らかに、いつもの母さんじゃなかった。
フラフラと歩き出した背中。
肩まで伸びた髪は、無造作に乱れていて、首筋には赤く擦れたような痕が見えた。
手には、しっかりと封筒。
口は固く結ばれ、目はどこかぼんやりと宙を見つめている。
まるで――何かを終えて、すべての力が抜けたような。
僕は、その姿から目を逸らすことができなかった。
「じゃあ、また連絡しますんで」
男の声が遠ざかっていく。
車のドアが閉まり、エンジンがかかる音。
母さんはしばらくその場に立ち尽くしていた。
封筒を見つめたまま、動かない。
僕の心臓は、今にも破裂しそうだった。
――母さん、何があったんだよ……。
僕は駐車場を離れ、人目を避けるように裏道を使って家へと急いだ。
気づかれたくなかった。
あの場にいたことも、あの姿を見たことも――
今はまだ、口にできる気がしなかった。
走るたびに心臓が喉元までせり上がってきて、頭の中ではぐるぐると母さんの姿が繰り返される。
あの乱れた髪。
封筒を握った手。
そして、どこか虚ろな目。
玄関の鍵はまだ閉まったままだった。
僕は靴を脱ぎ、部屋に戻る。
何事もなかったように、テレビをつけ、テーブルの上にある雑誌をめくるフリをした。
……どれくらい時間が経っただろうか。
ガチャ――
玄関の扉がゆっくりと開く音がした。
「……ただいま」
母さんの声。
小さくて、かすれていた。
その声には、張りのあるいつもの調子がまるでなかった。
僕は雑誌をめくる手を止め、そっと顔を上げる。
母さんはそこにいた。
白いシャツはシワだらけで、スカートの裾には小さな汚れ。
乱れた髪は手ぐしで整えた形跡があるが、どこか落ち着かない印象だった。
なにより――顔。
疲れ切ったような表情。
どこか、遠くを見るような目。
「ちょっと、混んでたわ」
そう言って、無理に笑おうとしたその顔は、僕の知っている母さんとは少し違っていた。
けれど、僕は何も言わなかった。
ただ、黙って頷いた。
――その手に持っていた封筒が、隠すようにバッグの中へと押し込まれるのを、見逃さなかったとしても。
あの日――母さんが封筒をバッグにしまって「ただいま」と言った日から、何かを問うことはなかった。
いや、できなかった。
僕も、母さんも、何もなかったふりを続けた。
食卓に並ぶ料理はいつも通りで、洗濯物もきちんとたたまれていたし、母さんは時折笑顔すら見せていた。
でも、それはあくまで“表面”だった。
僕にはわかっていた。
あの日から、母さんは――少しだけ、変わった。
そして僕自身も、見てはいけないものを見たという記憶を、心の奥でずっと押し殺し続けていた。
そうして、何事もないままひと月が過ぎた。
季節は少しだけ進み、昼間の陽射しが秋めいてきたころ。
その日も変わらず静かな午後だった。
ポストの中をのぞいたとき、それは紛れもなく“違和感”として、僕の手に届いた。
厚みのある白い封筒。
宛名は達筆な手書き。
宛先:〇〇〇〇様(母さんのフルネーム)
差出人の記載はなかった。
だけど、どこかで見覚えのある、妙に整った字体。
それを見た瞬間、僕の胸の奥がざわりと波打った。
何かが――また、動き出そうとしている。
僕は封筒を持ったまま、家の中へ戻った。
母さんはキッチンで湯を沸かしていた。
背中に声をかけようとして、けれど、言葉が喉の奥で止まった。
手の中の封筒が、まるで熱を持ったように感じられた。
僕はその封筒をしばらく手の中で眺めていた。
名前は確かに、母さん宛。
けれど――どうしても、そのまま渡す気にはなれなかった。
封筒の紙は少し厚手で、微かに香水のような香りが染みついていた。
見れば見るほど、日常のものとは思えなかった。
僕は静かに階段を上り、自分の部屋へ向かった。
封筒を机の上に置いて、深呼吸を一つ。
これは――やってはいけないことかもしれない。
でも、もしこの中にあの日の続きを記録した何かが入っているのだとしたら。
知るべきだ。
いや、知りたいんだ――あのとき母さんに何があったのかを。
震える指で、慎重に糊付けされた封を切った。
中から出てきたのは、たったひとつ。
白いラベルのDVD。
何の印字もない。
無地のまま、ただ円盤だけが封筒の中に入っていた。
音も立てず、手のひらに収めたそのディスクが、妙に重たく感じられた。
僕はしばらく見つめたあと、ゆっくりと立ち上がり、パソコンにそれを挿入した。
静かに回転音が響く。
画面が一瞬ブラックアウトし、再生が始まる。
そこに映し出されたのは――
僕の知っている、けれど、知らなかった“母さん”だった。
映像が始まってすぐ、視界が少し揺れた。
固定されたカメラのようだが、微妙に焦点が合っておらず、まるで“隠し撮り”を思わせる映像だった。
その中央に座っているのは――間違いなかった。
母さんだ。
白いシャツにロングスカート。あの日と同じ服装。
でも、表情はどこか不安げで、落ち着かない様子で周囲を見渡していた。
「……あの、これは……なんですか?」
映像の外から、男の声が応じた。
「ちょっとした撮影ですよ。簡単なゲームです。安心してください」
「ゲーム?」
「はい。目隠しして、触ったものを当ててもらうだけ。正解したら、賞金が出ますから」
「……触る……?」
母さんの声がわずかに震えていた。
男は笑いながら、続けた。
「難しくないです。リラックスしてくださいね。目隠し、しますよ」
画面の中で、母さんが目元に黒い布を巻かれていく。
その動作は手慣れていて、躊躇いがなかった。
「え……ええと……これ、見えませんけど……?」
「大丈夫です。じゃあ、いきますよ。第1問」
その瞬間、僕の背筋に寒気が走った。
――これはただのゲームなんかじゃない。
この映像の空気、母さんの戸惑い、男たちのやり取りの異様な軽さ。
僕は、これから画面に映る“何か”を――本当に見てしまっていいのか、自分に問いかけた。
だが指は、再生を止めなかった。
「それでは、第1問」
画面の中で、目隠しをされた母さんの前に、小さな白い物体がそっと置かれた。
卵だった。
おそらく、生のままの、普通の鶏卵。
「触ってみてください」
男の声に促されて、母さんはおそるおそる両手を前に差し出した。
細くて白い指が、卵にそっと触れる。
「……これは……卵……ですね」
「正解です!」
どこか芝居がかった拍手の効果音が入る。
「では、あと4問です。賞金もどんどん上がりますからね」
母さんは小さく息を吐いた。
緊張しているのが伝わってくる。
けれど、まだそこには笑顔があった。
それが、逆に――怖かった。
「次、いきますよ」
映像の中で、カメラがわずかに揺れ、誰かの手が再び母さんの前に何かを置く。
画面のフレームに収まらないそれが、なんであるか――まだわからない。
でも、雰囲気が変わった。
何かが、少しずつ“ズレて”いっているような気がした。
男の声が、ゆっくりと響いた。
「第2問、どうぞ。触って、当ててください」
母さんの手が、また前へと伸びていく。
指先が、その“何か”に触れた瞬間――
彼女の表情が、ほんの少しだけ、曇った。
「ラスト1問です」
男の声がそう告げたあと、今までとは明らかに異なる“間”が訪れた。
置かれる物音がしない。
カメラも動かない。
ただ、母さんが不安そうに静止している。
その時――画面の右端から、男の影がゆっくりと入り込んできた。
物を置く代わりに、男はそのまま母さんの正面へと立つ。
距離はほとんどない。
母さんの顔の、ほんの数十センチ前。
彼女は何も見えない。
目隠しの下、わずかに眉が動く。
「……え?」
空気が変わったのを、彼女の肌が感じ取ったのだろう。
息を飲む気配が、マイクに拾われて微かに聞こえた。
「触ってください」
男の声は、今までよりも低く、囁くようだった。
母さんは、おそるおそる手を前に伸ばす。
だが――
それは、今までのように“テーブルの上”へ向かうのではなかった。
手は、空中をさまよい――
そして、男の身体のどこかに、触れた。
その瞬間、母さんの肩がピクリと震えた。
「……これ……?」
戸惑いが、はっきりと声に滲んでいた。
男は笑いながら言った。
「さあ、ラストの問題。これは何でしょう?」
画面の中の母さんは、返事をしなかった。
口をわずかに開いたまま、静かに、じっと立ち尽くしていた。
その指先に触れている“それ”が何であるか、彼女はすでに察していたのかもしれない。
僕はディスプレイを見つめながら、唇を噛みしめた。
これは、ゲームなんかじゃなかった。
最初から――そういう意図だったのだ。
「……これは……」
母さんの声は、小さく震えていた。
男は問いかけるように笑う。
「さて、なんでしょう?」
カメラは母さんの顔を正面から捉えていた。
目隠しで目は覆われているが、その眉が苦しげに寄っていた。
そして――
母さんは、ゆっくりとうつむいた。
その手はまだ、顔の前にある“それ”を握ったままだった。
指先は動かない。けれど、はっきりと“掴んで”いた。
沈黙が続く。
笑い声も効果音も、今はない。
ただ、映像の中で、母さんがそっと唇を結ぶ音だけが――妙にクリアに聞こえていた。
「答え……ませんか?」
男の声が、やさしげな響きで促す。
でも、その優しさの裏にある“何か”に、母さんは気づいている。
僕はただ、画面を見つめるしかなかった。
その手に握られているものが、何であるか――
母さんが、もう言葉にしなくてもわかっていることを、僕もまた、痛いほどわかってしまっていた。
「触っただけでは、わからないかな」
男の声は、今まで以上に柔らかく、誘うような響きを帯びていた。
母さんは返事をしない。
ただ、目隠しの奥で目を閉じているような気がした。
その顔はうつむいたまま、苦悩をこらえるようにわずかに歪んでいた。
「じゃあ――舐めてみましょうか」
その言葉に、僕の背中を冷たいものが這った。
「味でわかるかもしれません」
男が一歩近づく気配。
母さんの手の中にある“それ”は、依然として形を変えず、重く、沈黙のままそこにあった。
母さんは小さく肩を揺らした。
恐怖か、拒絶か、それとも――もう抗う気力が残っていないのか。
けれど、彼女はまだ手を離していなかった。
静かな時間が流れる。
映像の中の空気は、音すら呑み込むほどに張り詰めていた。
そして――
母さんの首が、ゆっくりと、わずかに動いた。
唇が、そっと前へ。
母さんの唇が、そっと前に伸びる。
だが、画面のこちら側からは、彼女が何に顔を近づけているのかははっきりと見えなかった。
あえてそう撮られているかのように、カメラの角度は正面からのまま――手の中の“それ”は画角の外にあった。
見えない。
なのに、伝わってくる。
母さんの表情、緊張、拒絶と混乱が混ざった微かな動き。
そのすべてが、言葉よりも雄弁に“真実”を語っていた。
そして――
映像が、唐突に切り替わった。
次のカットは横からのアングル。
別のカメラが、最初からそこに用意されていたのだ。
その瞬間――
僕は絶望した。
母さんの手が、確かに“男の下半身”を握っていた。
その事実が、強烈な現実として目の前に突きつけられた。
目隠しをされ、戸惑いながらも、彼女はそこに唇を近づけていた。
僕の中で何かが崩れ落ちた。
心の奥にあった最後の“日常”が、容赦なく壊された気がした。
だが同時に。
どうしようもない――言葉にできないほどの興奮が、身体の底から込み上げてくるのを感じてしまった。
最悪だ。
自分がこんなふうに反応してしまうことが、何よりも苦しかった。
画面の中で、母さんがわずかに口を開いた。
僕は――もう、目を逸らすことができなかった。