※この作品はR-18です。

母のSNS   作:松田義和

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僕の探偵デビュー

その日が近づくにつれて、僕の頭の中はずっとそのことでいっぱいだった。

本当に会うのか。母さんが。あの男と。

それがただの挨拶や世間話だけで終わるわけがない──

そんな予感が、胸の奥でずっと警告を鳴らしていた。

 

そして当日の朝。

僕は最後の一線を越えた。

 

母さんが支度をしているあいだに、こっそりカバンの中に超小型のボイスレコーダーを忍ばせた。

USBスティックくらいのサイズで、無音で長時間録音ができるやつ。

前日に買っておいた。

 

最低なのは分かってる。

そんなことをするなんて、自分でも引く。

でも、どうしても知りたかった。

 

母さんが、あの男と会って、どんな言葉を交わすのか。

どんな声で、どんなテンポで話すのか。

それが全部、僕には“必要だった”。

 

「ちょっと出かけてくるね」

 

そう言って、母さんはいつもより少し丁寧にメイクをして、ワンピース姿で家を出ていった。

香水の香りがふっと鼻をかすめたとき、胸がギュッと締め付けられた。

 

僕は数分後に家を出て、尾行を始めた。

 

電車で向かったのは、あのメッセージに書かれていた駅。

母さんは時間ぴったりに喫茶店に入っていった。

僕はその向かいのカフェに入り、窓越しに中の様子を観察した。

 

しばらくして、Aさんが現れた。

年は母さんより少し上くらい。スーツ姿で、物腰は穏やかそうだった。

 

ふたりは向かい合って座り、何か話していた。

母さんはときどき笑っていて、その笑顔が、僕の知っている“家の中の母さん”とはどこか違って見えた。

 

正直、見ているのがつらかった。

それでも目をそらせなかった。

 

30分ほどしてふたりは店を出た。

僕は当然、あとを追った。

 

駅に戻るかと思ったふたりは、そのまま並んで歩き出し──

しばらくして、僕の足が止まった。

 

ビジネスホテルの前で、ふたりが立ち止まったからだ。

 

(え……うそだろ)

 

一瞬、現実感がなくなった。

でも目の前で、Aさんが先にフロントに入っていき、それを追うように母さんも中へ入った。

 

自動ドアが、音もなく閉まる。

 

僕は、しばらく動けなかった。

 

足がガクガクして、息が詰まりそうだったのに、

その裏側で、頭のどこかが異様なほど冷静に「本当に入ったな」と記録していた。

 

僕はその場で立ち尽くしたまま、

自動ドアが閉まる“シュウ…”という音を、妙に鮮明に覚えていた。

 

(本当に……入ったんだ)

 

まるで頭に霧がかかったようにぼうっとして、現実感が薄れていく。

なのに心臓だけがやけに騒がしくて、全身に血が回るのがわかる。

 

そこから先の時間が、おかしかった。

 

母さんとAさんが何をしてるかなんて、本当は知りたくなかったはずなのに──

勝手に頭が“その先”を想像し始めてた。

 

ふたりが部屋に入って、ドアが閉まって、

母さんがカバンを置いて、ソファに座って、

Aさんが近づいてきて──

 

(やめろ)

 

そう思っても、想像は止まらなかった。

あの男の声、母さんの返事、笑い声、服の擦れる音。

レコーダーに録れているかもしれない、現実の“音”。

 

頭の中でその全部が勝手に映像になって動き出してた。

 

僕が知らない母さん。

僕の母さんじゃない“誰か”になっていく母さん。

 

そんなこと考えたくないのに、思考は勝手に踏み込んでいく。

胸の奥がギリギリと音を立てるように痛んだ。

 

──それでも、帰れなかった。

 

僕はホテルの向かい側の建物の陰に身を隠しながら、

スマホを握りしめたまま、じっとエントランスを見ていた。

 

出てくるかもしれない。

何事もなかったように、何か買い物のついでだったような顔で。

 

でも、10分、20分、30分……

時間が過ぎても、自動ドアは開かなかった。

 

何度も時間を確認して、何度もため息をついた。

喉が渇いてるのに、飲み物を買う気にもならなかった。

スマホの通知が鳴っても、指一本動かせなかった。

 

目の前のドアだけが、世界のすべてになっていた。

 

もし母さんが、笑顔で出てきたら?

それとも、髪を整えながら俯いて出てきたら?

それを見て、僕はどうすればいい?

 

(……まだ、出てこない)

 

時計の針が、まるでわざと遅く動いているようだった。

汗ばんだ手のひらの中で、スマホだけがやけに冷たく感じた。

 

どれくらい待っただろう。

僕はもう何度目かもわからないくらい、時計と自動ドアを交互に見ていた。

 

──そして、ようやくそのときが来た。

 

「……!」

 

静かに、自動ドアが開いた。

 

(出てきた──)

 

最初に出てきたのは男だった。

Aさん。あのメッセージの送り主だ。

シンプルなシャツにジャケットを羽織っていて、どこか満足げな顔に見えた。

 

そのすぐ後ろ──

母さんが続いた。

 

僕は思わず息を止めた。

 

髪が少し乱れていた。

手で軽く整えているけれど、さっき見たときよりも、なんとなく柔らかくほぐれた感じがした。

顔は……どこかぼんやりしていた。

 

笑っていない。けど、沈んでもいない。

何かを終えたあとの、空っぽな静けさ──そんなふうに見えた。

 

(……ほんとに、いたんだ。中に)

 

歩きながら、母さんはバッグのストラップを直し、うつむき気味に歩いていた。

男とはほとんど距離がなかったけど、触れ合うわけでもなく、会話も交わさない。

 

ただ、確かに「ふたり」で、ホテルから出てきた。

 

その一瞬一瞬が、僕の中に焼きついていく。

母さんが、自分の知らない時間を過ごしてきたという事実が、静かに重くのしかかる。

 

僕は急いで身を引いた。

建物の角に身を隠し、ふたりが見えなくなるまで動かなかった。

 

(……帰る)

 

もうこれ以上見ていられない。

でも、ちゃんと見届けた。

だからこそ、足は震えていた。

 

まるで盗み見た罪を抱えたまま逃げるように、僕は来た道を戻っていった。

 

母さんより先に家に帰らなきゃ──

鉢合わせなんて絶対にしたくなかった。

 

駅まで走って、電車に飛び乗って、

息を切らしながら家に戻った。

テレビをつけて、エアコンを入れて、ソファに座ってスマホをいじるふり。

平常運転の“僕”を演じる準備は整った。

 

カチャッ。

 

玄関のドアが開いた。

 

「ただいま」

 

母さんの声はいつも通りだった。

それが逆に、胸にきた。

 

「おかえり」

僕も平然を装って返した。

 

キッチンで水を飲む母さんの背中。

髪も服も、乱れてはいない。

けれど、そこにはどこか“終わったあとの静けさ”みたいなものが漂っていた。

 

「暑かったでしょ」

 

「うん、ちょっとね」

 

たったそれだけの会話。

だけど、その沈黙のほうがよっぽど多くを語っていた。

 

僕は、何も見ていないふりをしていた。

何も聞いていないふりもしていた。

でも、心の奥ではずっと、閉まるあの自動ドアの音が鳴り続けていた。

 

 

その夜、母さんはいつも通りに夕飯を作り、僕に「今日は冷やし中華にしたよ」と言った。

表情も声も、どこにも不自然さはなかった。

むしろ、何か吹っ切れたような明るささえ感じた。

 

僕は「うん、美味しい」とだけ答えた。

ちゃんと食べて、ちゃんと皿を下げて、ちゃんと「ごちそうさま」と言った。

でも、心は全然そこになかった。

 

夕飯が終わると、母さんは洗濯物を畳みながらテレビを見ていて、

僕は自分の部屋にこもった。

 

机の引き出しを開けて、あのレコーダーを取り出す。

手に持った瞬間、掌にじわりと汗がにじんだ。

 

 

 

 

 

 

 

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