その日が近づくにつれて、僕の頭の中はずっとそのことでいっぱいだった。
本当に会うのか。母さんが。あの男と。
それがただの挨拶や世間話だけで終わるわけがない──
そんな予感が、胸の奥でずっと警告を鳴らしていた。
そして当日の朝。
僕は最後の一線を越えた。
母さんが支度をしているあいだに、こっそりカバンの中に超小型のボイスレコーダーを忍ばせた。
USBスティックくらいのサイズで、無音で長時間録音ができるやつ。
前日に買っておいた。
最低なのは分かってる。
そんなことをするなんて、自分でも引く。
でも、どうしても知りたかった。
母さんが、あの男と会って、どんな言葉を交わすのか。
どんな声で、どんなテンポで話すのか。
それが全部、僕には“必要だった”。
「ちょっと出かけてくるね」
そう言って、母さんはいつもより少し丁寧にメイクをして、ワンピース姿で家を出ていった。
香水の香りがふっと鼻をかすめたとき、胸がギュッと締め付けられた。
僕は数分後に家を出て、尾行を始めた。
電車で向かったのは、あのメッセージに書かれていた駅。
母さんは時間ぴったりに喫茶店に入っていった。
僕はその向かいのカフェに入り、窓越しに中の様子を観察した。
しばらくして、Aさんが現れた。
年は母さんより少し上くらい。スーツ姿で、物腰は穏やかそうだった。
ふたりは向かい合って座り、何か話していた。
母さんはときどき笑っていて、その笑顔が、僕の知っている“家の中の母さん”とはどこか違って見えた。
正直、見ているのがつらかった。
それでも目をそらせなかった。
30分ほどしてふたりは店を出た。
僕は当然、あとを追った。
駅に戻るかと思ったふたりは、そのまま並んで歩き出し──
しばらくして、僕の足が止まった。
ビジネスホテルの前で、ふたりが立ち止まったからだ。
(え……うそだろ)
一瞬、現実感がなくなった。
でも目の前で、Aさんが先にフロントに入っていき、それを追うように母さんも中へ入った。
自動ドアが、音もなく閉まる。
僕は、しばらく動けなかった。
足がガクガクして、息が詰まりそうだったのに、
その裏側で、頭のどこかが異様なほど冷静に「本当に入ったな」と記録していた。
僕はその場で立ち尽くしたまま、
自動ドアが閉まる“シュウ…”という音を、妙に鮮明に覚えていた。
(本当に……入ったんだ)
まるで頭に霧がかかったようにぼうっとして、現実感が薄れていく。
なのに心臓だけがやけに騒がしくて、全身に血が回るのがわかる。
そこから先の時間が、おかしかった。
母さんとAさんが何をしてるかなんて、本当は知りたくなかったはずなのに──
勝手に頭が“その先”を想像し始めてた。
ふたりが部屋に入って、ドアが閉まって、
母さんがカバンを置いて、ソファに座って、
Aさんが近づいてきて──
(やめろ)
そう思っても、想像は止まらなかった。
あの男の声、母さんの返事、笑い声、服の擦れる音。
レコーダーに録れているかもしれない、現実の“音”。
頭の中でその全部が勝手に映像になって動き出してた。
僕が知らない母さん。
僕の母さんじゃない“誰か”になっていく母さん。
そんなこと考えたくないのに、思考は勝手に踏み込んでいく。
胸の奥がギリギリと音を立てるように痛んだ。
──それでも、帰れなかった。
僕はホテルの向かい側の建物の陰に身を隠しながら、
スマホを握りしめたまま、じっとエントランスを見ていた。
出てくるかもしれない。
何事もなかったように、何か買い物のついでだったような顔で。
でも、10分、20分、30分……
時間が過ぎても、自動ドアは開かなかった。
何度も時間を確認して、何度もため息をついた。
喉が渇いてるのに、飲み物を買う気にもならなかった。
スマホの通知が鳴っても、指一本動かせなかった。
目の前のドアだけが、世界のすべてになっていた。
もし母さんが、笑顔で出てきたら?
それとも、髪を整えながら俯いて出てきたら?
それを見て、僕はどうすればいい?
(……まだ、出てこない)
時計の針が、まるでわざと遅く動いているようだった。
汗ばんだ手のひらの中で、スマホだけがやけに冷たく感じた。
どれくらい待っただろう。
僕はもう何度目かもわからないくらい、時計と自動ドアを交互に見ていた。
──そして、ようやくそのときが来た。
「……!」
静かに、自動ドアが開いた。
(出てきた──)
最初に出てきたのは男だった。
Aさん。あのメッセージの送り主だ。
シンプルなシャツにジャケットを羽織っていて、どこか満足げな顔に見えた。
そのすぐ後ろ──
母さんが続いた。
僕は思わず息を止めた。
髪が少し乱れていた。
手で軽く整えているけれど、さっき見たときよりも、なんとなく柔らかくほぐれた感じがした。
顔は……どこかぼんやりしていた。
笑っていない。けど、沈んでもいない。
何かを終えたあとの、空っぽな静けさ──そんなふうに見えた。
(……ほんとに、いたんだ。中に)
歩きながら、母さんはバッグのストラップを直し、うつむき気味に歩いていた。
男とはほとんど距離がなかったけど、触れ合うわけでもなく、会話も交わさない。
ただ、確かに「ふたり」で、ホテルから出てきた。
その一瞬一瞬が、僕の中に焼きついていく。
母さんが、自分の知らない時間を過ごしてきたという事実が、静かに重くのしかかる。
僕は急いで身を引いた。
建物の角に身を隠し、ふたりが見えなくなるまで動かなかった。
(……帰る)
もうこれ以上見ていられない。
でも、ちゃんと見届けた。
だからこそ、足は震えていた。
まるで盗み見た罪を抱えたまま逃げるように、僕は来た道を戻っていった。
母さんより先に家に帰らなきゃ──
鉢合わせなんて絶対にしたくなかった。
駅まで走って、電車に飛び乗って、
息を切らしながら家に戻った。
テレビをつけて、エアコンを入れて、ソファに座ってスマホをいじるふり。
平常運転の“僕”を演じる準備は整った。
カチャッ。
玄関のドアが開いた。
「ただいま」
母さんの声はいつも通りだった。
それが逆に、胸にきた。
「おかえり」
僕も平然を装って返した。
キッチンで水を飲む母さんの背中。
髪も服も、乱れてはいない。
けれど、そこにはどこか“終わったあとの静けさ”みたいなものが漂っていた。
「暑かったでしょ」
「うん、ちょっとね」
たったそれだけの会話。
だけど、その沈黙のほうがよっぽど多くを語っていた。
僕は、何も見ていないふりをしていた。
何も聞いていないふりもしていた。
でも、心の奥ではずっと、閉まるあの自動ドアの音が鳴り続けていた。
その夜、母さんはいつも通りに夕飯を作り、僕に「今日は冷やし中華にしたよ」と言った。
表情も声も、どこにも不自然さはなかった。
むしろ、何か吹っ切れたような明るささえ感じた。
僕は「うん、美味しい」とだけ答えた。
ちゃんと食べて、ちゃんと皿を下げて、ちゃんと「ごちそうさま」と言った。
でも、心は全然そこになかった。
夕飯が終わると、母さんは洗濯物を畳みながらテレビを見ていて、
僕は自分の部屋にこもった。
机の引き出しを開けて、あのレコーダーを取り出す。
手に持った瞬間、掌にじわりと汗がにじんだ。