机の引き出しを開けて、あのレコーダーを取り出す。
手に持った瞬間、掌にじわりと汗がにじんだ。
本当に、再生するのか?
あの中には、“聞かなくていいもの”が詰まってるかもしれない。
いや──“聞いちゃいけないもの”だ。
でも、もうここまで来てしまった。
ここまで知ってしまって、ここまで追いかけておいて、
いまさら「知らないふり」なんてできなかった。
僕はゆっくりとイヤホンを差し込み、レコーダーの再生ボタンを押した。
──雑音。
カフェの食器が触れる音、氷の溶ける小さな音が聞こえる。
そして──母さんの声。
「こちらこそ……いろいろ迷ったけど、来てよかったです」
柔らかい、少し緊張を帯びた声。
でも嬉しそうにも聞こえた。
Aさんの声も入ってくる。
「玲子さんって、思ってたよりずっと話しやすいです」
「……嬉しいけど、それって褒められてるのかな?」
くすっと笑う声。
僕が知ってる“母さんの笑い声”より、少しだけ高くて優しい。
知らない人といると、こんなふうに笑うんだ。
「正直、信じられないです。こんな綺麗な人が」
「……そう言われるのが、一番慣れてなくて、困ります」
(……母さん)
Aさんは母さんの名前を何度も呼び、さりげなく距離を詰めていた。
でも強引ではなく、静かに、穏やかに。
録音された声だけなのに、その空気感が伝わってきて、胸の奥がチクリと痛んだ。
「……少し、歩きませんか?」
「はい……」
場所が変わる。
環境音が屋外に切り替わり、車の音、歩く足音、風の音が混じる。
「時間、大丈夫ですか?」
「大丈夫。今日は、夕方まで空けてあります」
その言葉を聞いた瞬間、鼓動がドクンと跳ねた。
(……最初から、覚悟してた?)
自分でも信じたくない想像が、音だけの世界から浮かび上がってくる。
しばらく無言のまま歩いていたふたりの会話が、またぽつりと続く。
「……どこか、静かに話せる場所に行きませんか?」
沈黙。
続いて、母さんの声が小さく入った。
「……うん」
そしてAさんが言った。
「ホテルがすぐそこにあります」
その瞬間、僕の手が少し震えた。
母さんの返事は、なかった。
でもレコーダーは、すべてを記録していた。
ふたりの足音が止まり、数秒の無音のあと、母さんの息遣いがマイクに拾われた。
「……うん。ちょっとだけ、ね」
それは、はっきりと聞き取れた。
目の前がぐらりと揺れた気がした。
(母さん……)
その声が、自分の母親のものだってわかってるのに、
どこか他人のようにも感じた。
女の声だった。
誰かに受け入れられようとしてる、人間としての声だった。
「ありがとう」
Aさんの声と、ふたりの足音。
やがて録音はホテルのロビー音へと変わり、そこで一度区切れた。
僕はイヤホンを外し、しばらく動けなかった。
何を求めてこの録音を聴いたのか、自分でもわからなくなっていた。
でも、もう知ってしまった。
母さんが、あのドアの向こうに進むまでに、どんな言葉を交わし、
どんな気持ちで、一歩を踏み出したのか。
全部、耳に焼き付いたままだった。