僕は、机に突っ伏したまま、しばらく動けなかった。
(もう、やめよう……)
そう思っていた。
これ以上は聞いちゃいけない。これ以上は知らなくていい。
頭では何度もそう繰り返していたのに──
手が、勝手にレコーダーに伸びていた。
指が震えながらも、「再生」ボタンを押す。
カチ、と小さな音。
また、部屋の空気が流れ出す。
──最初は、ホテルのロビーらしい環境音。
フロントスタッフの声、エレベーターの案内音。
人の気配はあるのに、どこか静まり返っていて、音ひとつひとつがやけに鮮明に耳に入ってきた。
そして、部屋に入る音。
ドアが閉まり、鍵がかかる「カチリ」という音。
それが妙に静かで、重かった。
数秒の沈黙のあと、母さんの声が入ってきた。
「広いですね……」
少し緊張したような声だった。
でも、その奥にどこか期待のようなものもにじんでいて、
その響きが僕の中にぐさりと刺さった。
「今日は来てくれて、本当に嬉しいです」
Aさんの声。落ち着いた低いトーンで、どこか慣れている響きがあった。
「こちらこそ……誘ってくださって、ありがとうございます」
母さんはやや小さめの声でそう返した。
姿は見えないのに、会釈しているような気配が伝わってきた。
僕は、思わず息をひそめて聞き入っていた。
「最初、どうしようか迷ってたんです。こういうの、慣れてないから」
母さんがぽつりとつぶやいた。
「緊張されてるんですか?」
「ちょっとだけ。でも……来てよかった、って思ってます。今は」
その言葉のあと、数秒の間。
静かにエアコンの音が流れ、部屋が落ち着いていくようだった。
(やめろ……)
もう一度、再生を止めたくなった。
でも指は動かなかった。
「お子さんは……大丈夫ですか?」
Aさんの問いに、母さんは少し笑うように答えた。
「うん。上の子はバイトで帰りが遅いし、下の子も部活がある日だから。今日は大丈夫です」
(……僕のことだ)
自分の名前が出たわけじゃないのに、急に息が詰まりそうになった。
会話の中に“いないもの”として扱われていることが、やけに冷たく感じた。
それからしばらく、ふたりは穏やかに会話を続けていた。
趣味の話──音楽、映画、好きな作家の名前。
母さんが高校の頃にバンドをやっていた話でAさんが驚くと、母さんはくすくす笑った。
「ベース担当だったんです。でも、全然モテませんでしたよ」なんて、軽口まで飛び出した。
笑い声が交じるたび、僕の中で少しずつ“母親”というラベルが剥がれていく感覚があった。
そこにいたのは、ただの“玲子”という名前の、ひとりの女性だった。
そして──録音の空気が、変わった。
ソファがきしむ音。
誰かが近づく気配。
そして、母さんの息が、ほんの少しだけ乱れた。
「……手、つないでもいいですか?」
数秒の沈黙。
そのあと、少し息を吸うような気配の後、母さんが答えた。
「……うん、どうぞ。……あ、でも……」
「無理はしません。玲子さんが嫌じゃなければ」
「……ううん。嫌じゃない……から」
その声を聞いた瞬間、僕はイヤホンを外して、机に突っ伏した。
心臓がバクバクとうるさかった。
息が荒くて、手が震えていた。
何をしてるんだ、僕は。
なにを聞いてしまったんだ。
だけど──
再生を止めたレコーダーは、まだ母さんの声を飲み込んだまま、僕の目の前にあった。
僕は、机に突っ伏したまま、しばらく動けなかった。
(もう、やめよう……)
そう思っていた。
これ以上は聞いちゃいけない。これ以上は知らなくていい。
頭では何度もそう繰り返していたのに──
手が、勝手にレコーダーに伸びていた。
「再生」ボタンを押す。
母さんとAさんの声は、すでにもっと近づいていた。
「……あ、すごい、手が温かいですね」
母さんの声が、少しだけ弾んでいた。
「玲子さんの手も、柔らかくて……なんだか落ち着きます」
「そんな……もう、恥ずかしいですよ」
笑っている。
小さな笑い声。
どこか戸惑いながらも、拒んでいない声だった。
その後、少しだけ沈黙。
動く衣擦れの音と、ソファが沈むような微かなきしみ。
「近くで見ると……やっぱり綺麗です」
Aさんの声が少しだけ低く、慎重になっていた。
「え……そんなこと、ないです。ほんとに」
「……本当に思ってますよ。玲子さん、すごく綺麗です」
「……そんなふうに言われたの、久しぶり……」
言葉の語尾が、震えていた。
嬉しさなのか、戸惑いなのか、それとも──期待なのか。
そのすべてが、母さんの声に滲んでいた。
再び沈黙。
でも、呼吸の音だけが少しずつ近づいてくる。
息遣いが交じりはじめたとき──
「……キス、してもいいですか?」
Aさんのその声に、僕の指がまた止まりかけた。
だけど、母さんの返事は、それよりも先に響いた。
「……はい……」
その一言が、小さく、でもはっきりと録音されていた。
そして──
「……チュ……」
「ん……」
音が、はっきりと入っていた。
(……やめろ)
心の中で叫んでも、耳は離れなかった。
母さんの声。息。わずかな吐息。
微かに唇を重ねる音。静かに、でも確かに響く。
「……ごめんなさい、こんな……」
「謝らないで。僕のほうこそ、嬉しいです」
「……うそ……ほんとに……嬉しい……」
息が詰まる。
イヤホンを外しても、耳の奥に音が残っていた。
録音はまだ続いている。
でも、今の僕にはこれ以上再生する勇気がなかった。
テーブルの上に置かれた小さなレコーダー。
その中にある“母さんの時間”。
僕が知らなかった、母さんの表情、声、感情。
見てはいけない、聞いてはいけないものが、確かにそこにあった。
だけど──
僕は、もう元には戻れない気がしていた。