※この作品はR-18です。

母のSNS   作:松田義和

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母さんの声

僕は、机に突っ伏したまま、しばらく動けなかった。

 

(もう、やめよう……)

 

そう思っていた。

これ以上は聞いちゃいけない。これ以上は知らなくていい。

頭では何度もそう繰り返していたのに──

 

手が、勝手にレコーダーに伸びていた。

 

指が震えながらも、「再生」ボタンを押す。

 

カチ、と小さな音。

また、部屋の空気が流れ出す。

 

 

──最初は、ホテルのロビーらしい環境音。

フロントスタッフの声、エレベーターの案内音。

人の気配はあるのに、どこか静まり返っていて、音ひとつひとつがやけに鮮明に耳に入ってきた。

 

そして、部屋に入る音。

ドアが閉まり、鍵がかかる「カチリ」という音。

それが妙に静かで、重かった。

 

数秒の沈黙のあと、母さんの声が入ってきた。

 

「広いですね……」

 

少し緊張したような声だった。

でも、その奥にどこか期待のようなものもにじんでいて、

その響きが僕の中にぐさりと刺さった。

 

「今日は来てくれて、本当に嬉しいです」

Aさんの声。落ち着いた低いトーンで、どこか慣れている響きがあった。

 

「こちらこそ……誘ってくださって、ありがとうございます」

母さんはやや小さめの声でそう返した。

姿は見えないのに、会釈しているような気配が伝わってきた。

 

僕は、思わず息をひそめて聞き入っていた。

 

「最初、どうしようか迷ってたんです。こういうの、慣れてないから」

母さんがぽつりとつぶやいた。

 

「緊張されてるんですか?」

 

「ちょっとだけ。でも……来てよかった、って思ってます。今は」

 

その言葉のあと、数秒の間。

静かにエアコンの音が流れ、部屋が落ち着いていくようだった。

 

(やめろ……)

 

もう一度、再生を止めたくなった。

でも指は動かなかった。

 

「お子さんは……大丈夫ですか?」

 

Aさんの問いに、母さんは少し笑うように答えた。

 

「うん。上の子はバイトで帰りが遅いし、下の子も部活がある日だから。今日は大丈夫です」

 

(……僕のことだ)

 

自分の名前が出たわけじゃないのに、急に息が詰まりそうになった。

会話の中に“いないもの”として扱われていることが、やけに冷たく感じた。

 

それからしばらく、ふたりは穏やかに会話を続けていた。

趣味の話──音楽、映画、好きな作家の名前。

母さんが高校の頃にバンドをやっていた話でAさんが驚くと、母さんはくすくす笑った。

「ベース担当だったんです。でも、全然モテませんでしたよ」なんて、軽口まで飛び出した。

 

笑い声が交じるたび、僕の中で少しずつ“母親”というラベルが剥がれていく感覚があった。

そこにいたのは、ただの“玲子”という名前の、ひとりの女性だった。

 

そして──録音の空気が、変わった。

 

ソファがきしむ音。

誰かが近づく気配。

そして、母さんの息が、ほんの少しだけ乱れた。

 

「……手、つないでもいいですか?」

 

数秒の沈黙。

そのあと、少し息を吸うような気配の後、母さんが答えた。

 

「……うん、どうぞ。……あ、でも……」

 

「無理はしません。玲子さんが嫌じゃなければ」

 

「……ううん。嫌じゃない……から」

 

その声を聞いた瞬間、僕はイヤホンを外して、机に突っ伏した。

 

心臓がバクバクとうるさかった。

息が荒くて、手が震えていた。

 

何をしてるんだ、僕は。

なにを聞いてしまったんだ。

 

だけど──

 

再生を止めたレコーダーは、まだ母さんの声を飲み込んだまま、僕の目の前にあった。

 

 

僕は、机に突っ伏したまま、しばらく動けなかった。

 

(もう、やめよう……)

 

そう思っていた。

これ以上は聞いちゃいけない。これ以上は知らなくていい。

頭では何度もそう繰り返していたのに──

 

手が、勝手にレコーダーに伸びていた。

 

「再生」ボタンを押す。

 

 

母さんとAさんの声は、すでにもっと近づいていた。

 

「……あ、すごい、手が温かいですね」

母さんの声が、少しだけ弾んでいた。

 

「玲子さんの手も、柔らかくて……なんだか落ち着きます」

 

「そんな……もう、恥ずかしいですよ」

 

笑っている。

小さな笑い声。

どこか戸惑いながらも、拒んでいない声だった。

 

その後、少しだけ沈黙。

動く衣擦れの音と、ソファが沈むような微かなきしみ。

 

「近くで見ると……やっぱり綺麗です」

Aさんの声が少しだけ低く、慎重になっていた。

 

「え……そんなこと、ないです。ほんとに」

 

「……本当に思ってますよ。玲子さん、すごく綺麗です」

 

「……そんなふうに言われたの、久しぶり……」

 

言葉の語尾が、震えていた。

嬉しさなのか、戸惑いなのか、それとも──期待なのか。

そのすべてが、母さんの声に滲んでいた。

 

再び沈黙。

でも、呼吸の音だけが少しずつ近づいてくる。

息遣いが交じりはじめたとき──

 

「……キス、してもいいですか?」

 

Aさんのその声に、僕の指がまた止まりかけた。

 

だけど、母さんの返事は、それよりも先に響いた。

 

「……はい……」

 

その一言が、小さく、でもはっきりと録音されていた。

 

そして──

「……チュ……」

「ん……」

 

音が、はっきりと入っていた。

 

(……やめろ)

 

心の中で叫んでも、耳は離れなかった。

母さんの声。息。わずかな吐息。

微かに唇を重ねる音。静かに、でも確かに響く。

 

「……ごめんなさい、こんな……」

 

「謝らないで。僕のほうこそ、嬉しいです」

 

「……うそ……ほんとに……嬉しい……」

 

息が詰まる。

イヤホンを外しても、耳の奥に音が残っていた。

 

録音はまだ続いている。

でも、今の僕にはこれ以上再生する勇気がなかった。

 

テーブルの上に置かれた小さなレコーダー。

その中にある“母さんの時間”。

僕が知らなかった、母さんの表情、声、感情。

 

見てはいけない、聞いてはいけないものが、確かにそこにあった。

 

だけど──

僕は、もう元には戻れない気がしていた。

 

 

 

 

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