次の日からも、僕は変わらず母さんのスマホをチェックしていた。
もちろん、盗み見なんて最低なことだってわかってる。でも、やめられなかった。
気づかれないように、タイミングを見計らって……まるで習慣みたいに。
でも、そこに“あの男”の名前はもうなかった。
メッセージのやりとりはすっかり減っていて、最後に送られたものには既読すらついていない。
既に何日も経っていた。
たぶん、もう会っていないんだと思う。
……いや、確実に、関係は切れている。
それに気づいて、少しホッとしたはずなのに、胸のどこかが空虚になった。
安心と物足りなさ、そのどちらとも言えない気持ちが胸の奥で絡まって、うまく整理がつかなかった。
朝、母さんはいつも通りキッチンに立ち、静かに味噌汁をかき混ぜていた。
でも、どこかぼんやりしていた。
窓の外を見つめて、湯気の向こうでふと目を細める、その横顔には言いようのない“距離”を感じた。
僕と目が合うと、慌てて笑う。
「今日も暑くなるみたいね」と、当たり障りのないことを言って
――それが、逆に痛かった。
母さんと目が合ったとき、僕は一瞬だけ息を止めた。
その笑顔が、どうしようもなく嘘っぽく見えたからだ。
「今日も暑くなるみたいね」
そう言って、味噌汁をお椀によそう母さんの手は、わずかに震えていた。
湯気の向こうに見えたその横顔は、どこか疲れているようにも見えて――でも、それを僕は見なかったふりをした。
テーブルに並べられた朝食は、いつもと変わらない。
味も、見た目も、母さんらしい丁寧さで整えられていた。
なのに、僕の中には、ずっと消えないざらつきが残っていた。
あの男と何があったのか。
なぜ、あんなふうに終わったのか。
母さんは、それでよかったのか。
本当は、まだ心のどこかであの男を――
……いや、違う。違ってほしい。
食卓の向こうで母さんが笑う。
僕も笑い返す。
でもその間にある“見えない何か”が、言葉にできない重さで、二人の間に横たわっている。
母さんのスマホに、もう通知は来ない。
既読のつかないメッセージがひとつだけ残っているのを、僕は知っている。
だけど、もう僕はあれを開けようとは思わない。
見ても、なにも変わらない。
むしろ、あの画面を見るたびに、自分の中の何かが崩れていく気がする。
それでも、どこかで願ってしまう自分がいる。
――もしまた、あんなことがあったら。
――もし母さんが、誰かとそういう関係になったら。
僕はまた、知りたいと思ってしまうのかもしれない。
母親としての母さんじゃなく、
女としての母さんを――。
それがどれほどおかしくて、壊れていて、どうしようもなく歪んでいるのだとしても。
僕は、母さんの“本当の気持ち”を、
まだ、聞けないでいる。
聞けば戻れない気がして。
でも、聞かずにいれば、このまま何も知らないまま、二人とも演じ続けるだけだから。
――母さん。
本当は、何を思ってたの?
心の中で、そう呼びかけてみたけれど、母さんはただ微笑んで、僕の湯呑みにお茶を注いでいた。
その音がやけに静かで、
僕はその沈黙に、何も言えなかった。
やっぱり、あの男は母さんの体が目当てだったんだろうか。
……そうだよな。
僕が他人だったとしても、母さんみたいな人がいたら、そうなると思う。
じゃあ、母さんのほうは……?
あの関係に、何を求めていたんだろう。
もう一度会いたいと、思ってる?
それとも、ほんの一時の欲望――性欲の解消だった?
そんなふうに、淡々と割り切れるものなのか。
“母親”が。
僕の大切な“母さん”が。
信じたくなかった。
でも、考えれば考えるほど、“女”としての母さんが浮かび上がってくる。
感じていた母さんの声、僕は忘れられない。
僕は混乱していた。
母さんにも性欲があるという事実が、頭ではわかっていても、どうしても心が拒絶していた。
いや、違う。
拒絶してたんじゃない。
――恐れてたんだ。
その現実に、自分が飲み込まれていくのが。
でも、それでも、また機会があれば……
僕はたぶん、また母さんの“浮気現場”を録音したい。いや、できるならこの目で見たい。
それがどんなに卑しくて情けないことでも。
……本気で、そう思っている自分が、ここにいる。
スマホを見なくなったのは、いつからだっただろう。
あの人からのメッセージが、ぱったりと止んだ。
送ろうと思えば送れた。
でも、送らなかった。……いや、送れなかったのかもしれない。
息子には、気づかれていないと思ってる。
でも最近、なんとなく視線を感じることがある。
それは、勘なのか、罪悪感なのか……よくわからない。
朝、キッチンに立ちながら味噌汁をかき混ぜる手が、ふと止まる。
窓の外には、夏の陽射し。
ぼんやりとその向こうを見つめながら、あの人と最後に会った日のことを思い出していた。
あれは……なんだったんだろう。
恋? まさか。
愛情なんて、最初から期待していなかった。
ただ、褒められるのが嬉しかった。
見つめられることが、くすぐったくて、でも確かに心が熱くなった。
あの夜、帰宅しても、体の奥がまだじんじんしていた。
鏡に映った自分を見て、「誰?」と思った。
――母でも妻でもない、知らない女がそこにいた。
その女に、もう一度なりたいと思ったのは事実。
でも、もういい。もう、終わりでいい。
あの人が私を求めたのは、きっと“それだけ”だった。
わかってた。最初から。
けれど、自分の中にも、確かに欲があったことを否定できない。
こんな歳になっても、欲なんてあるんだって、自分に驚いた。
女としての自分が、まだどこかで眠っていたなんて――気づかなければよかった。
息子が、ふとリビングに入ってきた。
目が合って、思わず笑ってしまう。
「今日も暑くなるみたいね」なんて、どうでもいいことを口にして。
本当は聞きたかった。「何か言いたいこと、あるんじゃない?」って。
でも、怖くて聞けなかった。
彼の目の奥にある静かな苛立ちと困惑に、私は気づいている。
だけど、気づいていないふりをしている。
母親として、そうするしかないと思ってる。
もう一度会いたいとは思わない。
でも、あの夜のことは、時々思い出してしまう。
欲とか、愛とか、そういうものじゃなくて――ただ、「女だった自分」を。
それを忘れるために、毎日を淡々と繰り返している。
母親として、妻として、また元の場所に戻るために。
だけど、ふと気づくと、スマホを手にしていることがある。
何も通知のない画面を、ただ、見つめている。
それが――
未練なのか、後悔なのか、それとも……。
あの日の夜のことを、時々ふと思い出す。
始まりは、ほんのささいなやりとりだった。
最初は何も考えていなかった。相手の言葉に軽く笑って返すだけ。
でも、褒められるたびに、くすぐったいような、ちょっとした高揚感が心のどこかに灯っていくのがわかった。
「綺麗ですね」
「そうは見えませんよ、そんなに若く見える」
そんな言葉、何度聞いてきただろう。
でも――あのときは違った。
なぜだろう。心が、わずかに傾いた。
その夜、待ち合わせの場所に向かう自分を、今でもはっきり覚えている。
鏡の前で何度も髪を整えた。
新しく買ったリップをそっと唇にのせた。
我ながら、滑稽だったと思う。
でもそのときは、胸の奥に小さな火が灯っていて、それが私を動かしていた。
ホテルの部屋に入ったとき、心臓の音が自分の耳に聞こえるほど高鳴っていた。
緊張して、喉が渇いて、何度も水を飲んだ。
あの人の手が私の頬に触れたとき、息を呑んだ。
それは乱暴でも、優しさでもなかった。ただ、求められる手だった。
キスをされたとき、すべての理性が一瞬だけ途切れた。
何も考えたくなかった。
“母”でも“妻”でもない、ただの女でいたかった。
そう、私は……ただ、抱きしめられたかったんだ。
服を脱がされるとき、少しだけためらいがあった。
でも、それはあっという間に消えた。
自分でも驚くほど、私は素直にその腕の中に沈んでいった。
行為の途中で、一瞬だけ天井を見上げた。
その白い天井の模様を、今も覚えている。
あれは、現実だったのだと――
誰に見せることもない、私の記憶。
終わった後、しばらく無言で横に並んでいた。
「また会いましょうね」と言ったのは、あの人のほうだった。
私は、ただうなずいただけだった。
帰り道、街灯の下を歩きながら、自分の体が少し冷えていることに気づいた。
さっきまであんなに熱かったのに、今は空っぽみたいに感じる。
私は母親だ。
息子を育ててきた。
家を守ってきた。
なのに――
たった一晩で、そんな自分がどこかへ行ってしまったような気がした。
あの日のことは、誰にも言えない。
話せるはずがない。
でも、あれが私の中の“もうひとりの私”だったことも、確かだ。
もう会うことはない。
でも、あの日に戻りたいかと問われたら……
ほんの少し、迷ってしまう自分がいる。
女としての私は、あの夜、確かに生きていた。