※この作品はR-18です。

母のSNS   作:松田義和

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僕の気持ち、母さんの気持ち

次の日からも、僕は変わらず母さんのスマホをチェックしていた。

もちろん、盗み見なんて最低なことだってわかってる。でも、やめられなかった。

気づかれないように、タイミングを見計らって……まるで習慣みたいに。

 

でも、そこに“あの男”の名前はもうなかった。

メッセージのやりとりはすっかり減っていて、最後に送られたものには既読すらついていない。

既に何日も経っていた。

 

たぶん、もう会っていないんだと思う。

……いや、確実に、関係は切れている。

 

それに気づいて、少しホッとしたはずなのに、胸のどこかが空虚になった。

安心と物足りなさ、そのどちらとも言えない気持ちが胸の奥で絡まって、うまく整理がつかなかった。

 

朝、母さんはいつも通りキッチンに立ち、静かに味噌汁をかき混ぜていた。

でも、どこかぼんやりしていた。

窓の外を見つめて、湯気の向こうでふと目を細める、その横顔には言いようのない“距離”を感じた。

僕と目が合うと、慌てて笑う。

「今日も暑くなるみたいね」と、当たり障りのないことを言って

 

――それが、逆に痛かった。

 

 

母さんと目が合ったとき、僕は一瞬だけ息を止めた。

その笑顔が、どうしようもなく嘘っぽく見えたからだ。

「今日も暑くなるみたいね」

そう言って、味噌汁をお椀によそう母さんの手は、わずかに震えていた。

湯気の向こうに見えたその横顔は、どこか疲れているようにも見えて――でも、それを僕は見なかったふりをした。

 

テーブルに並べられた朝食は、いつもと変わらない。

味も、見た目も、母さんらしい丁寧さで整えられていた。

なのに、僕の中には、ずっと消えないざらつきが残っていた。

 

あの男と何があったのか。

なぜ、あんなふうに終わったのか。

母さんは、それでよかったのか。

本当は、まだ心のどこかであの男を――

 

……いや、違う。違ってほしい。

 

食卓の向こうで母さんが笑う。

僕も笑い返す。

でもその間にある“見えない何か”が、言葉にできない重さで、二人の間に横たわっている。

 

母さんのスマホに、もう通知は来ない。

既読のつかないメッセージがひとつだけ残っているのを、僕は知っている。

だけど、もう僕はあれを開けようとは思わない。

見ても、なにも変わらない。

むしろ、あの画面を見るたびに、自分の中の何かが崩れていく気がする。

 

それでも、どこかで願ってしまう自分がいる。

――もしまた、あんなことがあったら。

――もし母さんが、誰かとそういう関係になったら。

僕はまた、知りたいと思ってしまうのかもしれない。

 

母親としての母さんじゃなく、

女としての母さんを――。

 

それがどれほどおかしくて、壊れていて、どうしようもなく歪んでいるのだとしても。

 

僕は、母さんの“本当の気持ち”を、

まだ、聞けないでいる。

 

聞けば戻れない気がして。

でも、聞かずにいれば、このまま何も知らないまま、二人とも演じ続けるだけだから。

 

――母さん。

本当は、何を思ってたの?

 

心の中で、そう呼びかけてみたけれど、母さんはただ微笑んで、僕の湯呑みにお茶を注いでいた。

 

その音がやけに静かで、

僕はその沈黙に、何も言えなかった。

 

 

 

やっぱり、あの男は母さんの体が目当てだったんだろうか。

……そうだよな。

僕が他人だったとしても、母さんみたいな人がいたら、そうなると思う。

 

じゃあ、母さんのほうは……?

あの関係に、何を求めていたんだろう。

 

もう一度会いたいと、思ってる?

それとも、ほんの一時の欲望――性欲の解消だった?

 

そんなふうに、淡々と割り切れるものなのか。

“母親”が。

僕の大切な“母さん”が。

 

信じたくなかった。

でも、考えれば考えるほど、“女”としての母さんが浮かび上がってくる。

 

感じていた母さんの声、僕は忘れられない。

 

僕は混乱していた。

母さんにも性欲があるという事実が、頭ではわかっていても、どうしても心が拒絶していた。

 

いや、違う。

拒絶してたんじゃない。

――恐れてたんだ。

その現実に、自分が飲み込まれていくのが。

 

でも、それでも、また機会があれば……

 

 

僕はたぶん、また母さんの“浮気現場”を録音したい。いや、できるならこの目で見たい。

 

それがどんなに卑しくて情けないことでも。

 

……本気で、そう思っている自分が、ここにいる。

 

 

 

 




スマホを見なくなったのは、いつからだっただろう。
あの人からのメッセージが、ぱったりと止んだ。
送ろうと思えば送れた。
でも、送らなかった。……いや、送れなかったのかもしれない。

息子には、気づかれていないと思ってる。
でも最近、なんとなく視線を感じることがある。
それは、勘なのか、罪悪感なのか……よくわからない。

朝、キッチンに立ちながら味噌汁をかき混ぜる手が、ふと止まる。
窓の外には、夏の陽射し。
ぼんやりとその向こうを見つめながら、あの人と最後に会った日のことを思い出していた。

あれは……なんだったんだろう。
恋? まさか。
愛情なんて、最初から期待していなかった。
ただ、褒められるのが嬉しかった。
見つめられることが、くすぐったくて、でも確かに心が熱くなった。

あの夜、帰宅しても、体の奥がまだじんじんしていた。
鏡に映った自分を見て、「誰?」と思った。
――母でも妻でもない、知らない女がそこにいた。

その女に、もう一度なりたいと思ったのは事実。
でも、もういい。もう、終わりでいい。
あの人が私を求めたのは、きっと“それだけ”だった。
わかってた。最初から。

けれど、自分の中にも、確かに欲があったことを否定できない。
こんな歳になっても、欲なんてあるんだって、自分に驚いた。
女としての自分が、まだどこかで眠っていたなんて――気づかなければよかった。

息子が、ふとリビングに入ってきた。
目が合って、思わず笑ってしまう。
「今日も暑くなるみたいね」なんて、どうでもいいことを口にして。
本当は聞きたかった。「何か言いたいこと、あるんじゃない?」って。
でも、怖くて聞けなかった。

彼の目の奥にある静かな苛立ちと困惑に、私は気づいている。
だけど、気づいていないふりをしている。
母親として、そうするしかないと思ってる。

もう一度会いたいとは思わない。
でも、あの夜のことは、時々思い出してしまう。
欲とか、愛とか、そういうものじゃなくて――ただ、「女だった自分」を。

それを忘れるために、毎日を淡々と繰り返している。
母親として、妻として、また元の場所に戻るために。

だけど、ふと気づくと、スマホを手にしていることがある。
何も通知のない画面を、ただ、見つめている。

それが――
未練なのか、後悔なのか、それとも……。


あの日の夜のことを、時々ふと思い出す。

始まりは、ほんのささいなやりとりだった。
最初は何も考えていなかった。相手の言葉に軽く笑って返すだけ。
でも、褒められるたびに、くすぐったいような、ちょっとした高揚感が心のどこかに灯っていくのがわかった。

「綺麗ですね」
「そうは見えませんよ、そんなに若く見える」

そんな言葉、何度聞いてきただろう。
でも――あのときは違った。
なぜだろう。心が、わずかに傾いた。

その夜、待ち合わせの場所に向かう自分を、今でもはっきり覚えている。
鏡の前で何度も髪を整えた。
新しく買ったリップをそっと唇にのせた。
我ながら、滑稽だったと思う。
でもそのときは、胸の奥に小さな火が灯っていて、それが私を動かしていた。

ホテルの部屋に入ったとき、心臓の音が自分の耳に聞こえるほど高鳴っていた。
緊張して、喉が渇いて、何度も水を飲んだ。
あの人の手が私の頬に触れたとき、息を呑んだ。
それは乱暴でも、優しさでもなかった。ただ、求められる手だった。

キスをされたとき、すべての理性が一瞬だけ途切れた。
何も考えたくなかった。
“母”でも“妻”でもない、ただの女でいたかった。
そう、私は……ただ、抱きしめられたかったんだ。

服を脱がされるとき、少しだけためらいがあった。
でも、それはあっという間に消えた。
自分でも驚くほど、私は素直にその腕の中に沈んでいった。

行為の途中で、一瞬だけ天井を見上げた。
その白い天井の模様を、今も覚えている。
あれは、現実だったのだと――
誰に見せることもない、私の記憶。

終わった後、しばらく無言で横に並んでいた。

「また会いましょうね」と言ったのは、あの人のほうだった。
私は、ただうなずいただけだった。

帰り道、街灯の下を歩きながら、自分の体が少し冷えていることに気づいた。
さっきまであんなに熱かったのに、今は空っぽみたいに感じる。


私は母親だ。
息子を育ててきた。
家を守ってきた。
なのに――
たった一晩で、そんな自分がどこかへ行ってしまったような気がした。

あの日のことは、誰にも言えない。
話せるはずがない。
でも、あれが私の中の“もうひとりの私”だったことも、確かだ。

もう会うことはない。
でも、あの日に戻りたいかと問われたら……
ほんの少し、迷ってしまう自分がいる。

女としての私は、あの夜、確かに生きていた。


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