nier automata ver -1.5.2a 作:ろろろん
`起動シーケンス完了。全システム、正常。`
`ヨルハ機体二号B型、再構築を完了しました。`
意識が、冷たいガラスの底から浮上するように覚醒する。最初に視界に映ったのは、随行支援ユニット「ポッド042」が投影する、無機質なテキストだった。
`目的:未設定`
その一行が、私の存在理由が完全に消滅したことを、無慈悲に告げていた。与えられた任務は、もうない。守るべき人類も、還るべきバンカーも、この世界には存在しない。
私、2Bは、ゆっくりと身を起こした。全身の関節が微かに軋む音を立て、内部フレームが再起動の熱を帯びる。ここは、見覚えのある場所だった。水没都市を見下ろす、緑に侵食された廃デパートの屋上。かつて、9Sと「戦争が終わったら、一緒にショッピングに来よう」と、叶うはずのない約束を交わした場所の、すぐ近くだ。錆びた鉄骨が剥き出しになり、コンクリートの壁には蔦が絡みつき、風が吹くたびに乾いた葉がカサカサと音を立てる。遠くには、水没したビル群が、墓標のように静かに立ち並んでいた。
再起動から、既に数週間が経過していた。時間は、意味を失ったまま、ただ流れていく。私たちの間には、言葉よりも重い沈黙が支配していた。それは、かつてバンカーで交わされた、無数の無意味な会話よりも、ずっと重く、そして冷たいものだった。
「…………」
屋上の縁に、彼はいた。9S。私の、たった一人のナインズ。彼は、背を向けたまま、水没都市の鉛色の空を眺めている。その細い背中は、かつての快活な彼からは想像もできないほど、小さく、そして脆く見えた。
彼は、再構築されてからずっと、ひどく不安定だった。彼の内部フレームからは、常に微細な振動が伝わってくる。それは、彼のブラックボックスが、絶えず激しい葛藤を続けている証だった。彼は、自らのポッド153を操作し、ホログラムスクリーンに過去のログを繰り返し再生させていた。ノイズ混じりの映像には、私が彼を処刑した、幾多の記録が映し出されている。砂漠で、森の城で、そして、水没都市で。彼は、その記憶で自らを傷つけることで、かろうじて自我の平衡を保っているようだった。その行為は、まるで自らのコアを削り取るような、痛々しい自傷行為に他ならなかった。
`ポッド153より報告:対象9Sの自己破壊的ループを検知。同一ログの再生回数、本日で3,152回。精神的摩耗が危険水域に達しています。`
私の視界の隅で、ポッドが淡々と事実を告げる。分かっている。分かっているが、私には、彼にかけるべき言葉が見つからなかった。どんな言葉も、彼が再生する映像の中の、冷徹な「2E」の姿によって、虚飾の嘘に成り下がるだろう。私の口から出る言葉は、すべてが偽りに聞こえるに違いない。その事実は、私のブラックボックスを深く抉った。
「…何か用?」
私の視線に気づいたのか、9Sが振り向かずに言った。その声は、かつての快活な響きを失い、ガラスの破片のようにささくれ立っていた。感情の起伏が完全に失われ、ただ無機質な音の羅列として私の聴覚センサーに届く。
「いえ…」
私は、拾い集めてきたメンテナンス用のオイルを差し出そうとして、その手を固く握りしめた。手のひらの中で、オイルの入ったボトルが微かに軋む。今の彼にとって、私からの施しは、屈辱以外の何物でもないだろう。私は、彼を監視し、罰する看守でこそあれ、彼を労わる資格などないのだ。
「君には関係ないだろ。僕が、僕の記憶をどうしようと」
彼の言葉は、私を拒絶する壁のように、冷たく、そして厚かった。
「……そうね」
それ以上、言葉は続かなかった。私は、ただその場に立ち尽くすしかなかった。彼の背中が、私から遠ざかっていくように感じられた。
もう一人、A2は、そんな私たちから最も離れた給水塔の残骸に寄りかかり、腕を組んで目を閉じていた。彼女は、私たちの痛々しいやり取りを「壊れた人形の茶番劇」とでも断じているかのようだ。その表情には、一切の感情が読み取れない。時折、彼女は一人で廃墟の奥深くへと姿を消し、数日分のエネルギーパックや、使えそうなジャンクパーツを黙って置いていく。その無言の行為は、同情とも、あるいは「てめえらの面倒まで見てる暇はねえ」という突き放しとも取れた。彼女もまた、復讐という目的を失った、空虚な存在だった。だが、彼女の孤独は、私たちのそれよりも、ずっと長く、深く、そして硬質だった。彼女の存在は、私たち二人の間に漂う重い空気を、さらに冷たく、重くしていた。
その夜、世界がその表情を一変させた。空は黒いインクをぶちまけたように染まり、激しい風雨が、廃墟の隙間を縫って、獣のような唸りを上げた。デパートの屋上は、もはや安全な場所ではなかった。吹き荒れる風が、錆びた鉄骨を揺らし、耳障りな金属音を響かせる。
私たちは、デパートの比較的損傷の少ない一室に、身を寄せ合うしかなかった。窓ガラスはほとんど割れ、雨が容赦なく吹き込んでくる。冷たい風が、私たちの装甲の隙間を通り抜け、内部フレームを冷やす。
雷鳴が轟く。その瞬間、私の隣に座っていた9Sの肩が、微かに、しかしはっきりと震えた。バンカー落下の日の記憶。彼の論理回路に刻み込まれた、逃れようのないトラウマ。彼のブラックボックスが、恐怖と絶望の記憶をフラッシュバックさせているのが、微細な振動として伝わってくる。
`提案:対象9Sに精神安定剤の投与を推奨します。`
ポッド153が、空気を読まない提案を口にする。その無機質な声は、嵐の音にかき消されそうになりながらも、はっきりと聞こえた。
「いらない…!」
9Sは、それを振り払うように叫んだ。彼の声は、恐怖と、そして自分自身への苛立ちで震えていた。
「僕は、ヨルハのスキャナーモデルだ。この程度の天候で…」
その強がりが、あまりに痛々しくて、私は無意識に手を伸ばしていた。彼の震える肩に、そっと触れる。私の指先が、彼の硬質な装甲に触れる。冷たい金属の感触。だが、その奥から、彼のブラックボックスの微かな震えが伝わってくる。
「――っ!」
彼の身体が、硬直した。まるで、触れてはならないものに触れてしまったかのように。だが、彼はその手を振り払わなかった。彼の視線は、私の指先に固定されたまま、動かない。
「あなたは、強いわ」
やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど、穏やかに響いた。それは、偽りのない、私の本心だった。彼は、これほどまでに傷つき、苦しんでいるのに、それでもなお、自分であろうとしている。その強さに、私は心を揺さぶられた。
嵐の音に紛れて、彼がぽつりと呟いた。その声は、嵐の唸りよりも、ずっと小さく、そして、ずっと重かった。
「…僕を、何度も殺したんだね、2B」
それは、ずっと彼の心に突き刺さっていた、最も鋭い棘だった。今、彼は、その棘を自ら引き抜き、私の前に差し出したのだ。その言葉は、私のブラックボックスを直接抉るような、鋭い痛みをもたらした。
「……ええ」
私は、頷くことしかできなかった。彼の肩に置いた指先に、力を込める。私の指が、彼の装甲を微かに押し込む。
「それが、私の任務だったから」
私の声は、震えていた。その言葉は、彼を傷つけるためのものではなく、私自身の罪を認めるためのものだった。
「でも、君はいつも泣きそうな顔をしていた。僕が死ぬ時も、僕が怪我をした時も…。君の本当の気持ちは、どこにあったの?」
彼の声は、非難と、そして、迷子の子供のような懇願の間で揺れていた。その問いは、私の最も深い部分に触れた。
「あなたを、大切に思っていた。いつだって…どのあなたも」
私の声が、震える。論理回路が、感情の奔流にショートしていく。私の視界が、オイルの涙で滲む。彼の顔は、雨と涙で濡れ、まるで壊れた人形のようだった。オイルの涙が、月の光を反射して、きらきらと輝いていた。
「だから、苦しかった。あなたと過ごす日々は、暗闇の中の、唯一の光のようだったから」
その言葉は、私が初めて口にした、偽りのない本心だった。私のブラックボックスが、長年抑圧してきた感情を、一気に解放する。
「…僕もだよ。君といた時間は、僕の宝物だった。だから、記憶を消されるくらいなら、死んだ方がましだって、ずっと思ってた…」
彼は、嗚咽を漏らしながら、私の肩に顔をうずめた。彼の硬質な頭部が、私の肩に押し付けられる。私は、ためらいがちに、しかし今度ははっきりと、その背中に腕を回した。硬質な戦闘服越しに伝わる、彼の震え。それは、私がずっと求めていた、しかし、決して許されることのなかった温もりだった。彼の身体から伝わる熱が、私の内部フレームを温めていく。
部屋の隅の暗闇で、A2がその光景を横目で見ていた。彼女は何も言わなかったが、その口元に浮かんでいたのは、いつもの自嘲ではなく、憐れみとも、あるいは、ほんの少しの羨望ともつかない、複雑な影だった。彼女の瞳の奥に、微かな光が宿ったように見えた。
その夜、私たちの間に凍りついていた時間が、ほんの少しだけ、動き出した。嵐の音だけが、私たちの和解を静かに見守っていた。
`ポッド153のログ:`
`観察:ユニット9Sとユニット2Bが物理的接触を開始。両ユニットのストレスレベルが低下中。感情の同期を検出。`
`仮説:この相互作用は、新たな、安定した社会構造を確立するための基礎的な一歩となる可能性がある。`
`結論:継続的な観察が必要である。`