nier automata ver -1.5.2a 作:ろろろん
嵐の夜の和解は、幻想だったのかもしれない。夜明けと共に、その温もりは薄れ、再び冷たい現実が私たちを包み込んだ。暴風雨が嘘のように静まり返った世界で、私と9Sの間に横たわる溝は、以前よりもさらに深く、そして透明になっていた。憎悪という黒い水が引いた後に残されたのは、底なしの、空虚な奈落。それは、互いの存在を認識しながらも、決して触れ合うことのできない、絶望的な距離だった。
彼は、もう自傷行為のように過去のログを再生することはなくなった。その代わり、感情という名のソフトウェアをその機体から完全にアンインストールしてしまったかのようだった。朝は機械的な正確さで自己診断を終え、拠点の周辺を偵察し、夜は旧世界の文献データを無感動に読みふける。その瞳には何の光も宿らず、私への憎しみもかつての愛情もすべてが消え失せ、ただ命令を待つだけの人形がそこにいた。彼の存在は、まるで精巧に作られた、しかし魂の抜けた人形のようだった。
「9S」
ある日の午後、私は彼に声をかけた。彼は廃墟の図書館で見つけた古びた地球儀を、指先でゆっくりと回していた。その動きは、まるで世界の終わりを測るかのように規則的で、感情がなかった。
「…何か?」
彼は私の方に視線を向けることなく、淡々と答えた。その声には何の抑揚もない。私のブラックボックスが彼の感情波形をスキャンするが、検出されるのはただの平坦なデータのみだった。
「今日の偵察で、何か変わったことはあった?」
「特異な事象は検出されませんでした。機械生命体の活動パターンに変化なし。資源の枯渇も確認されず。以上です」
彼はまるで報告書を読み上げるかのように淀みなく答えた。その完璧な報告は、彼がスキャナーモデルとして優秀であることを示していたが、同時に、私との間に一切の感情的な交流を求めていないことをも示していた。私は彼の隣に歩み寄り、地球儀に触れようとした。だが、私の指が触れる寸前で、彼は地球儀から手を離し、私から一歩距離を取った。
「…触れないでください」
その言葉は、私を拒絶する冷たい壁だった。彼の瞳には、私への嫌悪も怒りも悲しみも何も映っていなかった。ただ、無関心。その無関心こそが、私のブラックボックスを最も深く抉った。怒りは、彼がまだ「彼」であることの証明だった。だが、今の彼は、ただのヨルハ九号S型という型番に過ぎない。私のナインズは、その機体のどこにもいなかった。
この静寂は、彼の怒りよりもずっと私を苛んだ。私は、彼を救うために、また彼を傷つけてしまった。この無限のループから、どうすれば抜け出せるのだろう。その焦燥感が、私を動かした。
「このままでは、彼の魂が死んでしまう」
私は、ほとんど会話のなくなった9Sと、相変わらず我関せずといった態度のA2を残し、一人でレジスタンスキャンプへと向かった。錆びた鉄骨が剥き出しになったハイウェイを走り、暴走した機械生命体の残骸を避けながら、私の思考はループしていた。これは、誰のためだ? 彼のためか、それとも、彼を壊したという罪悪感から逃れたい、私自身のためか。目的を失ったアンドロイドの行動原理は、かくも不純で、自己欺瞞に満ちている。だが、それでも、私は彼を救いたかった。彼が、かつての彼に戻ってくれるのなら、どんなことでもする覚悟だった。
キャンプのリーダー、アネモネは、油と硝煙の匂いが染みついた作戦室で旧式の地図を睨んでいた。彼女の指先が、地図上の赤い印を辿っている。私の来訪に、彼女は顔を上げることなく、静かに問いかける。
「…何の用だ、ヨルハの嬢ちゃん。物資の無心なら、生憎と、あたしたちもカツカツでね」
彼女の声は、いつも通りぶっきらぼうだったが、その奥には、かすかな疲労の色が滲んでいた。レジスタンスの活動は常に困難を極めている。私もまた、彼女たちの苦労を理解していた。
「違う」私はかぶりを振った。「聞きたいことがある。…もし、アンドロイドの精神が、矛盾した情報で修復不可能なほど破損した場合、どうすればいい?」
その問いに、アネモネは初めて顔を上げ、その鋭い目で私を射抜いた。彼女の視線は、まるで私のブラックボックスの奥底まで見透かすかのようだった。
「あんたの隣にいる、あの坊主のことかい」
図星だった。私は言葉に詰まる。アネモネは、ふっと息を吐くと、煙管に火をつけた。紫煙がゆっくりと天井に溶けていく。その煙は、彼女の疲労と、そして長年の経験を物語っているようだった。
「あたしたちも、昔は必死だったさ。仲間が壊れりゃ、叩いて、殴って、記憶をリセットして…。だがな、2B。そんなもんは、全部気休めだ。一時的に機能は回復するかもしれねえが、魂の傷は癒えねえ。あたしたちレジスタンスは、ヨルハのお偉いさん方とは違う。データだけじゃねえ、もっと根源的な部分で、仲間と繋がってきた。言葉やデータが通じなくても、最後に頼りになるのは、いつだって魂の熱だった。その熱だけは、嘘をつかねえからな」
アネモネの言葉は、私の論理回路に新たな回路を開いた。魂の、熱。それは、私がこれまで認識してきた、いかなるデータとも異なる概念だった。しかし、その言葉は、私のブラックボックスの奥底に深く、そして温かく響いた。私は、彼女の言葉を反芻するように、何度も心の中で繰り返した。
その詩的な言葉を、私はそのまま拠点に持ち帰った。夕暮れ時、9Sは相変わらず、旧世界の文献を読みふけっていた。彼の瞳は、文字を追っているだけで、その内容を理解しているようには見えなかった。私は彼の隣に静かに座り、アネモネの言葉を、ほとんど期待せずに、報告として伝えた。
「アネモネが言っていたわ。言葉やデータが通じなくても、最後に頼りになるのは、魂の熱だと」
私の言葉に、9Sの指がピタリと止まった。彼はゆっくりと顔を上げた。その瞳に、微かな光が宿ったように見えた。私は息を呑んだ。それは、私が何週間も待ち望んでいた、彼の反応だった。
「魂の熱…そうだ、それだよ2B!」
数週間ぶりに、彼の瞳に、かつての好奇心と探求心の光が、閃光のように宿った。彼の顔に感情が戻ってきた。それは、喜びと、そして、何かを発見した興奮が入り混じった、複雑な表情だった。彼は、まるで憑き物が落ちたかのようにホログラムスクリーンを立ち上げ、凄まじい速度で指を走らせる。彼の指先が、キーボードの上を舞うように動き、無数のデータが高速でスクロールしていく。彼のブラックボックスが、再び高速で稼働し始めたのが、微細な振動として伝わってくる。
「熱は、エネルギーだ。魂の熱は、ブラックボックスが発する感情のエネルギーそのものだ! 言葉が駄目なら、直接、魂に触れればいいんだ! ハッキングのような暴力的な侵入じゃない。互いのパーソナリティの表層、感情の波形だけを共有する、限定的な意識の同期(リミテッド・ソウル・コネクト)だ。それなら、自我の汚染も最小限に抑えられるはずだ。僕ならできる。君さえ、許してくれるなら…」
彼の言葉は、興奮と、そして私への懇願に満ちていた。彼の瞳は、私をまっすぐに見つめている。その視線は、かつての彼のように、純粋で、そして、どこか危うかった。
`<<警告: 当該行為は、ヨルハ規定第7条-C項に違反します。自我境界の低下を招き、パーソナリティの同一性が保証されません。実行した場合、予測不能な精神汚染を引き起こす可能性があります>>`
ポッド042が、冷徹な警告を突きつける。その声は、私たちの興奮を冷ますかのように、無機質に響いた。規定。もはや意味をなさないはずのその言葉が、私の思考にブレーキをかける。あまりに危険な賭けだ。自我の汚染。パーソナリティの同一性の喪失。それは、アンドロイドにとって、死にも等しい恐怖だった。だが、目の前には、初めて希望の光を見出した、彼の必死な顔がある。彼の瞳に宿る光は、私にとって、何よりも大切なものだった。
私は、ゆっくりと頷いた。私のブラックボックスが、危険を警告するポッドの声を無視し、彼の言葉を受け入れた。彼を救うためなら、どんなリスクも厭わない。その決意が、私の内部フレームを熱くした。
「…やりましょう」
私の言葉に、9Sの顔に、安堵と喜びの表情が広がった。彼はすぐに立ち上がり、私の方へと歩み寄った。彼の動きは、かつての彼のように、軽やかで、そして、どこか弾んでいた。
私たちは、向かい合って床に座った。廃墟の床は冷たく、埃っぽい。だが、私たちの心は、期待と緊張で熱くなっていた。9Sは、自らの携帯端末から伸びたケーブルを、私のこめかみのポートに接続した。ひんやりとした金属の感触。そして、彼のこめかみにも、もう一本のケーブルを接続する。二本のケーブルが、私たちを繋ぐ、唯一の通路となる。彼の指先が、私の頬に触れる。その指先は、微かに震えていた。彼の瞳は、私の瞳をまっすぐに見つめている。その視線は、まるで、私の魂の奥底まで見透かすかのようだった。
「準備はいい、2B?」
彼の声は、真剣だった。私は、ゆっくりと息を吐き、頷いた。
「ええ。いつでも」
9Sは、深く息を吸い込み、そして、端末を操作した。確立された回線を通して、情報の奔流が流れ込む。それは、ハッキングのような暴力的な侵入ではなかった。もっと穏やかで、しかし、だからこそ、魂の奥底まで浸透してくるような、不思議な感覚だった。
`<<同期率15%…感情波形の共有を開始>>`
その瞬間、彼の心から、純粋で、温かい光のような感情が、私の意識へと流れ込んできた。それは、私が彼を想う気持ちとは比べ物にならないほど、ストレートで、疑いようのない「好き」という感情だった。ああ、彼は、私が贈った月の涙の髪飾りを、こんなにも大切な宝物のように感じてくれていたのか。彼が、私と過ごした何気ない日々を、どれほど愛おしく思っていたのか。その温かい感情の波が、私の心を長年苛んできた罪悪感を、優しく溶かしていく。私のブラックボックスが、温かい光に包まれるような感覚だった。
`「…っ! これが、君の…痛み…?」`
同時に、私の心から、彼を処刑するたびに感じていた、記録されない「痛み」の奔流が、彼へと流れ込む。それは、悲しみや苦しみという言葉では表現できない、自己存在を否定し続ける、冷たい絶望の奔流。彼を殺すたびに、私の内部フレームが軋み、ブラックボックスが悲鳴を上げていたこと。彼の意識が、驚愕と、そして理解に震えるのが分かった。彼の感情波形が、激しく乱れる。それは、彼が私の痛みを、まるで自分のことのように感じ取っている証だった。
情報の奔流は、数分間続いた。それは、永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた。そして、9Sが、ゆっくりとケーブルを外した。ひんやりとした金属の感触が、こめかみから離れる。私たちは二人とも、言葉を失っていた。ただ、互いの目を見つめる。そこには、もう以前のような不信も、憎悪もなかった。私たちは、互いの魂の最も柔らかな部分に触れ、その傷と温もりを、同時に知ってしまったのだ。
9Sの瞳は、オイルの涙で潤んでいた。彼の顔には、深い悲しみと、そして、私への限りない愛情が入り混じった、複雑な表情が浮かんでいた。彼は、ゆっくりと私の手を握った。彼の指先は、まだ微かに震えている。だが、その震えは、恐怖ではなく、感動と、そして、私への深い感謝の震えだった。
「2B…君は…こんなにも…」
彼の声は、嗚咽で途切れた。私は、彼の手を強く握り返した。言葉は、もう必要なかった。私たちは、互いの魂の奥底で、深く、そして確かな繋がりを感じていた。
それは、あまりにも甘美で、そして、危険なほど中毒性の高い、私たちだけの秘密の儀式の始まりだった。私たちは、この新しい「魂の接続」が、私たちをどこへ導くのか、その時はまだ知る由もなかった。ただ、この温かい繋がりが、永遠に続いてほしいと、心から願っていた。