他人になった妹は、俺の裏垢調教志願者でした 作:ドン・ドナシアン
美咲視点です。
なにもできなかった。なにも言えなかった。
見ることさえ拒んで、背中を向けた──。
ただ、それだけ……。
玄関のドアが、重たく閉まる音──。
それが、美咲の世界を音ごと断ち切った。
お兄ちゃんの背中が、家を出ていくのを見た──。けれど、追わなかった。
──追えなかった……。
『下着を盗んだなんて、あの子、本当に気味が悪いわ』
『恥を知れ。お前を引き取ったのは間違いだった』
母の声がやけに冷たかった。
父は罵倒を続けていた。
最初は冤罪だと抗っていたお兄ちゃんは、やがて沈黙してしまった。
両親は、それをお兄ちゃんが罪を認めたものとみなした。
最初から過ちを認められないような男はクズだ──。
ふたりのお兄ちゃんへの叱責の言葉はさらに強くなった。
お兄ちゃんがやってもいない下着泥棒で退学をさせられたとき、お兄ちゃんは十八歳。美咲は十六歳──。
事件は、お兄ちゃんの通っていた高校で起きた。
ある日、お兄ちゃんの鞄の中から女生徒の下着が見つかったのだという。
女生徒が最初に騒ぎ、次いで一部の男子生徒がお兄ちゃんの鞄からなくなった女生徒の下着を見つけ、その報告を受けた教師がすぐに騒ぎ立て、学校中に事態が知れ渡ったそうだ。
もともと、お兄ちゃんは日頃から教室で浮いていた。
無口で、目立たず、誰にも頼らず、目を合わせることも少なかったお兄ちゃんには、味方もいなかった……。
両親の視線はすぐに“疑い”に変わった。
いや、疑わなかった。お兄ちゃんは冤罪を主張していたが、両親はお兄ちゃんが犯した罪だと疑いもしなかった。
教師たちも、保護者も、誰もお兄ちゃんを庇おうとしなかった。
父は「家の恥だ」と言い放ち、母は泣きながら「しばらく離れていて」と口にした。
お兄ちゃんは退学になった。
父親は、お兄ちゃんにまとまったお金だけを渡して、縁を切ると家を追い出した。
あの騒動の中で、お兄ちゃんはなにも語らず、誰も責めず、ただ荷物をまとめて、静かに家を出ていった。
お兄ちゃんは、家を出てとき、美咲の目を一度だけ見た。
深くもない、軽くもない。ただ…… 一瞬、止まっただけの視線。
けれど、そのときの美咲には、それすら耐えられなかった。
見なかったふりをした。
美咲は、お兄ちゃんに背を向けた。
耳を塞ぎたかったが聞こえてしまった。
荷物を運び出す音──。
誰も止めない沈黙──。
そして、扉が閉じた音──。
行っちゃった……。
ただ、それだけが胸の奥にぽっかりと空いて──
時間が止まった。
お兄ちゃんがいない家は、こんなに寒いのか。
気づくまでに、どれだけの夜を重ねたかわからない。
家には温度がない。
母はテレビの音を上げ、父は無言のまま外へ出た。
──誰も、お兄ちゃんの話をしなくなった。
それがなにより怖かった。
美咲は、自室の机の引き出しを開けて、こっそりしまったノートを取り出した。
お兄ちゃんと交わした、小さなメモの切れ端。もらったお菓子の包み紙。お兄ちゃんから受けたものは、すべてそこにある。でも、それも小学生まで……。
中学校に入ってからは、お兄ちゃんとの思い出はない。
いわゆる思春期をいうものに入って、性を意識するようになり、お兄ちゃんに異性を感じるようになると、美咲がお兄ちゃんと距離をとるようになったからだ。
お兄ちゃんのことが、大好きだった。
ずっとそばにいたかった。
でもお兄ちゃんはお兄ちゃんで、美咲は妹で、それ以上にはなれないと、わかっていた。
実のお兄ちゃんと、結婚はできない。
恋人にもなれない。
手を繋ぐことも、抱きしめられることも──許されるのは、子どもの頃まで……。
だから、意識しないふりをした。
話しかけず、触れず、視線を逸らした。
お兄ちゃんが気づいていたかどうかは、わからない。
けれど、美咲の避け方は、あからさまだったと思う。
それでも、夜になると、気持ちは嘘をつけなかった。
部屋にひとりでいるとき、布団に潜り込んだとき、美咲はそっと目を閉じて、お兄ちゃんのことを思い浮かべた。
怒った顔──。
笑った顔──。
寂しそうな顔──。
不器用だけど、優しく手を伸ばしてくれたときのこと……。
自慰を覚えてからは、いつもお兄ちゃんを思い浮かべてオナニーをした。
誰にも言えない気持ちを、美咲は胸の奥に閉じ込めていた。
美咲にとって、異性とはお兄ちゃんだけ。
これでも、顔もスタイルにも自信はある。
告白は数限りなくされた。
しかし、他の誰かを思うことはできなかった。
誰とすれ違っても、誰と話しても、誰に好きだと言われても、心が動かなかった。
そして、夜になると、お兄ちゃんを思い浮かべながら、毎晩のように自慰をした。
高校に入ってからは、お兄ちゃんとの関係はさらに冷えた。
同じ家にいるのに、まるで存在しないかのような静けさだった。
言葉を交わすことは滅多になく、顔を合わせても目を逸らして終わった。
そして──お兄ちゃんが出ていった、あの日……。
疑いをかけられ、怒鳴られ、荷物を詰めて玄関へ向かうお兄ちゃんに、美咲は、なにひとつ言えなかった。
呼び止めたいと願っていた。
ごめんと謝りたかった。
信じてる、と、たった一言だけでも言いたかった。
でも、声は出なかった。
胸の奥で焼けつくような痛みだけが、ずっと消えずに残った。
お兄ちゃんは一度、美咲の方を見た。
それだけで、美咲は立っていられなくなった。
背中を向けて、ただ、黙って、動かなかった。
そのまま、扉の閉まる音がして──お兄ちゃんは、いなくなった。
──お兄ちゃんは、ざしきわらし。
やがて、そんなことを思うようになった。
ざしきわらしという妖怪は、東北の民間伝承に登場する子どもの姿をした神さまのような存在で、その家に棲みつくと繁栄をもたらし、去ると衰退が訪れる──。
そう語り継がれる存在だ。
──美咲の家が、まさにそうだった。
お兄ちゃんがいた頃、うちの家は、ずいぶんと景気がよかった。
父は小さな建設業を営んでいて、業績は右肩上がりだった。
下請けから元請けへと昇格し、会社は人を増やし、収入も倍増したと聞いた。
母も、自宅でネット販売の仕事をしていて、それも好調だった。
雑貨や手作りのアクセサリーがよく売れたらしい。
美咲も、学校の成績はいつも学年上位。
リレーではいつもアンカーを任されて、先生にも褒められた。
なにをやっても、うまくいった。
けれど、お兄ちゃんが家を出ていった途端、すべてが変わった。
父の会社は、急激に取引先を失い、資金繰りに追われはじめた。
母のネット販売も、突然まるで商品が売れなくなり、やがて閉じてしまった。
美咲の成績も、じわじわと下がっていった。
それまで解けていた問題が、なぜか頭に入らなくなった。
足も遅くなった。体調を崩すことも増えた。
家の中では、口論が絶えなくなった。
食卓は静まりかえり、テレビの音だけが響いていた。
まるで、お兄ちゃんがいなくなった日を境に、家そのものが“死んだ”ようだった。
ざしきわらし──。
お兄ちゃんは、そういう存在だったんじゃないかと思えてしまった。
美咲たちは、自分たちでその存在を追い出してしまった。
冤罪だと訴えていたお兄ちゃんの声を誰も聞こうとしなかった。
家族全員で、お兄ちゃんを追い詰め、切り捨てた。
だから、こうなった。
なにもかもうまくいかなくなったのは、罰だ。
お兄ちゃんを信じなかった美咲たちへの──取り返しのつかない罰……。
そして、お兄ちゃんの冤罪が明らかになった。
愕然とした。
凄まじい程の悔悟が襲った。
もう、遅すぎる。
お兄ちゃんは、なにも言わずに出ていった。
出て行かせてしまった。
赦しを求める声も、責める言葉も、なにひとつ残さなかった。
そして、美咲は、あのとき背を向けたまま……。
なにも言えず、なにもできず、ただ、見送ってしまった。
お兄ちゃんは、ざしきわらし……。
でも……本当にそうだったのかもしれない。
あの事件の真相がわかったのは、お兄ちゃんが出ていった数か月後だった。
あの下着は、お兄ちゃんを苛めていた一部の男子生徒が悪ふざけで鞄に忍ばせたものだったらしい。匿名のSNSで学校ではなく、県の教育委員会に証拠とともに、訴えがあったそうだ。
お兄ちゃんを一部の男子生徒が苛めていたという少なくない訴えがあり、再調査が行われて学校が追求すると、その男子生徒たちがあっさりと下着泥棒は嘘だったと認めたのだ。
お兄ちゃんの冤罪は、一部の生徒の中では噂されていて、お兄ちゃんが訴えたときには学校が調べなかったので、誰も口にしなかったが、今回本格的な再調査が実施されたことで、次々に新たな新情報が明らかになったのだ。
なんのことはない。
ほんのちょっと、お兄ちゃんを信じて、まともに調べさえすれば、おそらく、美咲でも真実に辿り着けただろう。
それに気がついたとき、美咲は自分自身への嫌悪感に嘔吐してしまった。
とにかく、つまりは、最初にお兄ちゃんの鞄の中から下着を見つけた男子生徒が結局、「犯人」だったということだ。
動機は悪ふざけ──。
お兄ちゃんは彼らから繰り返し揶揄われていて、苛められていたらしい。その延長で彼らは、女生徒の鞄から下着を盗んでお兄ちゃんの鞄に隠し、さもお兄ちゃんが犯人かのように騒ぎたてたのだ。
──全部、嘘だった。
お兄ちゃんが盗んだなんて、冗談だったって、笑いながら、加害者たちは言ったらしい。
停学くらいで済めばよかったのに、先生も親も本気にして──って。
美咲は、その話を耳にしたとき、耳を疑った。
でも、冗談じゃなかった。
本当に──お兄ちゃんは嵌められていた。
でも、お兄ちゃんが戻ってくることはなかった。学校にも、家にも……。
お兄ちゃんはすべてを失った。
いや、お兄ちゃんはすべてを捨てたのだ。
激しい悔悟が美咲を襲った。
最初は、お兄ちゃんもなにもやってない。冤罪だと必死に家族に訴えていたことを思い出した。
でも、いつしかなにも言わなくなったから、両親はそれをお兄ちゃんが罪を認めたのだとみなしたのだ。
だが、真実は違ったのだ。
あのとき、お兄ちゃんは諦めたのだ。
そして、見放した。
お兄ちゃん以外の家族がお兄ちゃんを見放したのと同時に、お兄ちゃんも家族を見放したのだ。
美咲も両親も、なにもしなかった。
違う──、なにもしなかったどころか……見捨てた。
家族みんなで……。
それを後になって知る。
この残酷さを、誰が想像できただろう。
あのとき口を開いていたら。
あのとき、お兄ちゃんの肩に手を置いていたら。
──こんなことには、ならなかった。
冤罪が証明されたって、学校は、お兄ちゃんを呼び戻してはくれなかった。
親は「もう終わった話」と言った。冤罪だったのに、簡単に認めたお兄ちゃんも悪いと、自己弁護のようなことまで語った。美咲は、それを白けた気持ちで聞いていた。
だけど、美咲に両親を批判する資格などない。
罪は同じだ。
美咲もまた、お兄ちゃんが家を出ていくとき、見送りすらしなかった。
後ろを向いたまま、黙って、震えながら耐えていただけ……。
ねえ……お兄ちゃん……。
胸の奥で何度も何度も呟いた。
そして、お兄ちゃんの冤罪が明らかになったのと同時に、もうひとつの「真実」を美咲は知ることになる。
お兄ちゃんが家を出てから、どうにかして彼を戻そうと、美咲なりに動いた。
学校に問い合わせ、担任を探し、父の知人にも連絡した。けれど、どこにも“黒崎直樹”という名前はなかった。
不審に思った美咲は、戸籍を調べた。
父に内緒で、家の戸籍を取り寄せたのだ。
そこにあったのは、信じられない光景だった。
お兄ちゃんの名前──“黒崎直樹”の上に、細い二重線が引かれていた。
備考欄には、「親子関係不存在確認判決により除籍」と記されている。
意味が、すぐには理解できなかった。
けれど、ひとつだけ分かった。
お兄ちゃんは、もうこの家の人間ではない──それだけは。
美咲は父を問い詰めた。
すると、拍子抜けするほどあっさりと事実を口にした。
──裁判で、親子関係を否定する手続きをした。
──もともと、あいつは俺の実子じゃない。
──前の妻が連れてきた子で、実の父親は別にいるらしい。
──戸籍上も、いまは妻の旧姓に戻っている。
そのとき、初めて知った。
お兄ちゃんが、もう“黒崎直樹”ではなく、別の姓──“影山”を名乗っているということを。
母も、黙って頷いた。
お兄ちゃんが……血の繋がらない人間だった──。
それは、雷のように、美咲の胸を打ち抜いた。
目の前の世界がぐらつくほどの衝撃だった。
美咲とお兄ちゃんは、家族じゃなかった。
お兄ちゃんは、美咲の“お兄ちゃん”じゃなかった。
それを知った瞬間、胸の奥で、なにかが音を立てて崩れた。
けれど、それと同時に、別の感情が堰を切ったように溢れ出した。
──美咲は、お兄ちゃんを……好きだった。
男として、ずっと、忘れたことなんてなかった。
どんなに否定しても、無理に忘れても、夜ごと心に浮かんできた顔……。
肌の温もり……。
声も……。
匂いも……。
だめだと思っていた──。
許されないことだと、ずっと、自分に言い聞かせてきた──。
だけど、いま──。
お兄ちゃんとは結婚できる。
恋人になれる。
身体を重ねても、誰にも責められない。
他人なのだ──。
その事実が、美咲を狂わせた。
涙が止まらなかった。
希望と絶望が、渦のように胸のなかで混ざり合っていた。
お兄ちゃんはもう、どこにもいない。
どこで生きているかも、わからない。
美咲の声なんて、きっと、もう届かない。
それでも──。
それでも、もし、もう一度会えたなら。
美咲は、すべてを捧げる。
過去の償いも、未来の罰も、その身体で全部受けとめる。
でも、もう遅い。
きっとお兄ちゃんは美咲を許さない。
でも……でも、だからこそ……罰を受けたかった。
お兄ちゃんにされるなら、なにをされてもいい。
罵られても、犯されても、壊されても……その痛みが、美咲にとっての救いになる。
そして、お兄ちゃんの隣にいたいと……願った。
そう思ったとき。美咲のなかで、なにかが音を立てて“壊れた”。
お兄ちゃんのSNS──。
裏垢──。
──お兄ちゃんを探す手がかりを思い出すののに、時間はかからなかった。
……というより、美咲は、もう知っていたのだ。
高校のころ、お兄ちゃんとほとんど口を利かなくなってからも──美咲は、自分の端末から、こっそりお兄ちゃんのスマホやパソコンにアクセスしていた。
ロックのパターンも、パスワードも、全部知っていた。
お兄ちゃんの使っていたSNSや裏垢の動きも、自室のノートPCから監視していた
寝ている隙を狙って、指紋をコピーし、画面ロックを解除した。
そこから先は、美咲の得意分野だった。
メールの履歴、SNSの連携、フォローリスト、裏垢の構成──。
お兄ちゃんが表では絶対に見せない、もうひとつの顔──。
その輪郭を、美咲は密かに追っていた。
家の中では無関心を装いながら、心のどこかで「繋がっていたい」と思っていたのかもしれない。
お兄ちゃんが家を出ていってから、しばらくは怖くて、なにも開けなかった。
スマホの中に残っていた痕跡を、ただ見ないふりをして放置していた。
けれど──。
お兄ちゃんが他人であると知ったとき、美咲は、狂ったように、しばらくのあいだ画面をスクロールしていた。
ページを、履歴を、検索ログを、片っ端から追いかけていた。
もしかしたら、まだ繋がっているかもしれない。
どこかに、“あの人”がいるかもしれない。
美咲が一度見逃した光を、もう一度拾い上げられるかもしれない。
指が震えていた。
呼吸が浅くなっていく。
……いた。
アイコンも、名前も変わっていた。
でも、わかった。
文章の癖。
使う語尾。
日付。投稿時刻。
どれも、お兄ちゃんのままだった。
美咲は、モニタの前で立ち尽くした。
頭の奥が熱を持ち、視界がじわじわ滲んでいく。
見つけた。
──お兄ちゃん……。
履歴。投稿内容。性的な指向。
……全部、見た。
嗤われてもいい。
美咲は、その“世界”のなかに入っていく。
見てて……お兄ちゃん。あたそ、変わるから……。
あの日、見捨てた罪を、美咲の身体で償うために。
──《WARASHIBE17》──。
最初にその名前を思いついたとき、どこかで笑っていた。
でも、それが「妹」ではない“美咲”としてお兄ちゃんに近づくための仮面だと思えば、呼吸ができる気がした。
美咲はお兄ちゃんの裏垢に潜った。
検索ワード。投稿時間。リプ欄。
──そして、DM──。
指が震えていた。
でも、美咲の中のなにかが、それを“興奮”だと告げた。
見つけて……お兄ちゃん。お願い、美咲を──。
その夜、アダルトグッズの通販サイトを何十ページも漁った。
お兄ちゃんの端末の中にあったSMプレイに関するものを必死に勉強した。
お兄ちゃんが捨てるために出した雑誌を密かに回収して隠していた女の人が裸で縛られたり、犯されたりしている雑誌やコミック……。
繰り返し読んだ。
“ドM”という単語も、そのときに覚えた。
お兄ちゃんが好きなM女になる──。
お兄ちゃんのドMになる──。
そうすれば、お兄ちゃんは、美咲を抱く──。
──美咲は、あの日の償いのために、自分を作り変えることを決めた。
どんな姿でもいい。
お兄ちゃんが望むなら、獣にだってなれる。
やがて、お兄ちゃんと繋がることができた。
《WARASHIBE17》として……。
美咲は狂喜した。
そうして、お兄ちゃんとのやりとりが始まった。
距離を詰めるのに、時間はかからなかった。
WARASHIBE17──その名前で、お兄ちゃんは美咲を受け入れてくれた。
お兄ちゃんは──SNSを通じて、美咲を、甘く、苛酷に、調教してくれた。
それが幸せだった。
罰でも、痛みでもなく、救いだった。
お兄ちゃんのそばにいられる……。
それだけで、美咲は……生き返った。
──だけど。
『あなた、黒崎家の娘でしょう? 知ってるのよ。あなたのお父様のところ、大変みたいね』
高校で噂が流れた。
親の会社が傾き、融資が受けられなくなったと。
美咲が家に戻ると、父は妙に優しかった。
嫌な予感がした。
数日後──母が言った。
『すこし年上だけど、誠実な御曹司よ。あなたのこと、すごく気に入ってるの』
なに、それ──?
耳を疑った。
『うちの会社を立て直すには、どうしても……あのご縁は大事なのよ』
そう言って差し出されたのは、婚約書のコピーだった。
名前も、年齢も、住所も── 一方的にすべてが書かれていた。
美咲の気持ちなんて、どこにもなかった。
なんで……なんで、美咲が──。
震える指で紙を破り捨てた。
母が悲鳴をあげた。
父が怒鳴った。
でも、もうなにも聞こえなかった。
それから数か月、美咲は頑なに拒み続けた。
話しかけられても返事をしなかった。
説得されても、返事は「いや」の一言だけだった。
けれど、両親は譲らなかった。
「家のため」、「会社のため」、「あの人は立派な方」──。
そんな言葉を、飽きもせず何度も繰り返した。
無理やり食事の場を設けられたこともあった。
「婚約者」だと紹介されたその男は、穏やかな顔で笑っていた。
けれど、美咲の目を値踏みするように見ていた。
顔も、髪も、身体も、目線で舐め回すように──。
『あなたと一緒になれるなら、いくらでも援助しますよ。その代わりに、あそこの毛を剃らせてもらえますか?』
そう言われて、背筋が凍った。
気持ち悪かった。吐き気がした。
その男に、強引に抱かれそうになったとき、美咲は逃げた。
でも、それすらも、あの男は嬉しそうだった。
そのことを両親に訴えた。
けれど、ふたりとも「あの人は誤解されやすいだけ」と言って、聞き入れなかった。
その瞬間──美咲の中で、なにかが壊れた。
お兄ちゃんのことを思い出した。
あのとき、お兄ちゃんはなにも言わずに家を出ていった。
美咲を一度だけ見て、それきり……背を向けて消えた。
いまなら、わかる。
お兄ちゃんがこの家を見限ったときの気持ちを……。
そして、美咲もまた、この家を見限ることにした。
それから、美咲は演じはじめた。
婚約を受け入れるふりをした。
都内の大学に進学して、寮で暮らすことを条件に……。
両親は、ようやく、美咲が納得したと喜んだ。
だけど──実際には、そんな寮の契約などしていなかった。
入学書類も、願書も、すべて別の大学の偽物を準備し…本物は自分で提出した。
校納金は一年分払わせたので、一年は誤魔化せる。
それから先のことは……そのときに考えようと思った。
もう、後戻りなんて、できなかった。
美咲は部屋に戻り、荷物をまとめ、通帳とスマホを鞄に詰めた。
──お兄ちゃんのところに行く。
もう、妹でも、《WARASHIBE17》でもいい。
ただ、お兄ちゃんのそばにいたい。
いまさらかもしれない。
でも、美咲は、すべてを捨ててでも、お兄ちゃんに償いたい。
いや、お兄ちゃんに拾ってもらう──。
どんなことをしても……。
お願い、お兄ちゃん……美咲を認めて……。
夜行バスで都心に着いた。
夜の街は、冷たかった。
でも、美咲の足は止まらなかった。
電車を乗り継いで、お兄ちゃんが暮らしている場所に向かう。
お兄ちゃんの住む一軒家。最寄りの駅からも随分と離れた場所にあった。
美咲は、歩き続けた。
キャリーのタイヤが、アスファルトを引きずる音だけが響いた。
この音がうるさいくらいじゃないと──美咲の心臓の音に、負けてしまいそうだった。
お兄ちゃんの住む家が見えたとき、呼吸が浅くなる。
おんぼろの一軒家──。
周りは畠と、明らかに空き家とわかる家ばかりだった。
でも、お兄ちゃんが暮らす場所だと思う家だけには生活臭があった。
お兄ちゃんはここにいる。
そう思っただけで、喉が焼ける。
心臓が跳ねて、苦しくなる。
怖いわけじゃない。
恋しいわけでも、もうない。
──美咲は、お兄ちゃんのものになりたい。
笑って欲しい。
怒って欲しい。
抱いて欲しい。
犯して欲しい。
憎んで、罵って、躊躇いもなく突き落として欲しい。
そのすべてに、美咲は応える。
どんな姿になってもいい。
這いつくばってでもいい。
肉の塊として扱われても、心の底から幸せでいれる……。
美咲は、その痛みに、生きる意味を見出すだろう。
お兄ちゃんが与えるなら──。
それが呪いであっても、心からの悦びを見出す……。
そして、辿り着いた。
古びた一軒家──。
ドアの前に立ち、拳を握った。
そして、静かにチャイムを押した。
──このドアの向こうにいる、たったひとりの人……。
あなたは知らない。
美咲が、どれほど狂って、どれほどあなただけを想ってきたかを──。
扉が開いた。
見覚えのある横顔──。
けれど、少しだけ痩せた頬。
髪も無精ひげも伸びていた。
小太りで贅肉で出ているお腹──。
それでも、その眼差しは変わらない。
まっすぐで、静かで、どこか遠い。
ほんの一瞬、お兄ちゃんの目が美咲を捉えた。
驚きとも、戸惑いとも言えない、感情の影が、そこにあった。
けれど、次の瞬間には、目を伏せられた。
美咲の心が、ぎゅっと締めつけられる。
覚えてる──。
この立ち姿、この手の大きさ、声にならなかったけれど……。
ずっと夢に見てきた。
一年半ぶりのお兄ちゃんは、たしかに、そこにいた。
「お兄ちゃん、久しぶりね」
美咲は、言った。