他人になった妹は、俺の裏垢調教志願者でした 作:ドン・ドナシアン
009 彼女のことが気になって仕方がない
教室の窓ガラスの向こうで、敷地内の桜はすっかり葉桜に変わっていた。
四月の終わり。前期の講義が本格的に回り始め、大学の時間の流れにもようやく慣れてきた頃だ。
前方のスクリーンでは、教授が淡々とスライドを送っている。リモコンを押す乾いた音と、チョークが黒板を擦る音が、一定の間隔で教室に落ちていた。
五十人ほどいる学生のうち、半分ほどはすでに舟をこいでいる。机に突っ伏している者、目を開けたまま意識をどこかへ飛ばしている者もいる。
涼介は中列付近の窓際に座っていた。
講義の内容を聞いているつもりはない。視線の先には、前方近くの窓際から二列内側に座っている小柄な女子学生の背中がある。可愛い顔をした彼女のことが気になって仕方がないのだ。
一年生──。
黒崎美咲──。
二年生になった涼介が新入生オリエンテーションの手伝いに駆り出されたとき、彼女の可愛さは群を抜いて目立っていた。
休憩に入ると自然に男子が集まり、声が途切れなかったのを覚えている。
それでも彼女は、陽気に応じながら、誘いに乗るような素振りは一切見せなかった。
涼介は、あのとき距離を詰めることができなかった。
少し離れた場所から、様子を眺めていただけだ。
気取ったところがない。
それでいて、男を遠ざける線だけははっきり引いている。
無垢で、男慣れしていない。
そんなふうに、勝手に解釈していた。
一、二年生共通の教養科目で偶然にも同じ授業を取っていると知ったときは、正直に嬉しかった。
勇気を振り絞って声をかけ、覚えているかと訊ねたとき、彼女の記憶に自分が残っていたことも。
もっとも、それ以上踏み込むことはできなかったが。
いま、美咲は窓際の席に座っている。
短めのプリーツスカートから、綺麗な脚のラインがそのまま見えていた。隠そうという意識が感じられないのに、下品には見えない。
白いカーディガンの下は、身体に沿った薄手のニットで、動くたびに背中の起伏がはっきりとわかる。
黒髪は低い位置でひとつに結ばれ、淡い色の細いリボンが背中で揺れていた。
それだけで、首筋から肩の線がやけに目につく。
涼介は視線を外そうとして、失敗した。
ときどき、彼女の動きに説明のつかない色気が混じる瞬間があるからだ。
ペンを持ち替える仕草。
椅子に浅く腰掛け直す動き。
しゃっくりをするようにびくんと震える肩。
熱を帯びた吐息と、ほんのり赤らんだうなじの肌。
可愛らしい外見にはそぐわない強い色香が、不意に滲み出ることがある。
それが涼介の視線を離させなかった。
新入生ながら、彼女が男子学生たちに注目されるのに時間はかからなかった。
学内のあちこちで声を掛けられているのを、涼介は何度も見ている。
それでも彼女は、誰にも触れさせない。
近づこうとする気配を感じ取ると、空気が変わる。
笑顔のまま、一線を越えさせない。
美咲の隣には、いつも同じ女子学生がいる。
同じ学科の一年生らしく、美咲とは対照的に、流行を意識した派手めの服装をしていることが多かった。
明るい色のトップスに目立つ小物。巻いた髪に、はっきりした化粧。いかにも大学生らしいお洒落だ。
ふたりはよく一緒にいる。
講義の席も、昼休みに学食へ向かう姿も何度か見かけた。
外見はまるで違うのに、並んでいるのが不思議と自然に見える。
昼食の時間になると、ふたりはよく男子学生に声を掛けられている。
軽い雰囲気の友人は誘いに乗りそうになることもあるが、美咲は足を止めない。友人が話をしだすと、声をかけて美咲だけ立ち去ってしまう。
歩く速度を緩めることもなく、曖昧に笑って受け流し、そのまま通り過ぎていくのだ。
友人も慣れているらしく、美咲を追い掛ける素振りの男子学生を引き留めるような対応もしたりする。
とにかく、あの美咲が誘いに応じているところを、涼介は一度も見たことがなかった。
サークルにも所属していないらしく、見学の誘いを断っている場面も何度か目にしている。
あれだけ目立つのに、どこにも属そうとしない。
それが涼介には少し不思議だった。
涼介は、ただ見ているだけだ。
自分から声を掛けることはない。踏み込んでいい場所ではないと感じている。
遠くから眺め、気づいたことを積み重ねていく方が、自分には合っている。
近づけないからこそ、よく見える。
黒崎美咲という存在は、涼介にとって、そんな距離にあった。
講義が終わり、教室のあちこちで椅子を引く音が重なった。
涼介は立ち上がりながら、前方の席を見ていた。
美咲が席を立つ。
涼介も立ちあがって、少しだけ距離を詰める。まだ誘う勇気はないが、挨拶をして一言か二言の言葉を交わす。それが涼介の最近の幸せだった。
そのときだった。
「あっ……」
美咲が一歩踏み出したところで、小さな声を発するとともに、ほんのわずかに足取りが乱れたのだ。
気のせいかと思うほど一瞬だった。
だが、美咲はその場で立ち止まり、すぐに何事もなかったように姿勢を整える。
「どうかした、美咲?」
声を掛けたのは、いつも一緒にいる友人だ。
美咲は小さく首を振る。
「ううん……なんでも……。あっ、ちょっと待って──」
美咲が慌てた様子でスマートフォンを取り出して、画面を覗き込む。
次の瞬間、彼女の表情がはっきりと変わった。
柔らかく、屈託のない満面の笑みを浮かべたのだ。
さっきまで感じていた張り詰めた気配が、嘘のように消えている。
一方で、涼介は昼食に急ぐ学生たちの喧噪に隠れて、少し離れてふたりの会話に耳を傾けている。
「ごめん。ちょっと用事できた。お昼、今日はパスで」
隣の女子学生にそう告げると、美咲は軽く手を振った。
「あっ、そう……。あれっ、美咲って、今日の午後は授業なしだっけ?」
「そう。じゃあ、また明日」
友人は慣れた様子で頷き、「りょーかい」と気軽に返している。
大きなトートバッグを抱えて、美咲はひとりで教室を出ていく。
涼介は少し遅れて廊下に出る。後を追うつもりはなかった。ただ、進む方向が同じだっただけだと、自分に言い聞かせる。
ところが、階段に差しかかったところで、美咲が急に足を止めた。
しかも、次の瞬間、身体を折るようにしてしゃがみ込んだのだ。
「……つっ」
小さく、喉を詰まらせるような声。
涼介は反射的に駆け寄った。
「だ、大丈夫……?」
涼介が思わず手を伸ばした、その瞬間だった。
「触らないで」
美咲が顔を上げ、怯えたような強く拒むような表情とともに、ぱんと手を払ったのだ。
なにも言えず、涼介は手を伸ばしたままの姿勢で立ち尽くしてしまった。
一方で、美咲は何も言わずに立ち上がり、俯いたまま、足早に階段を下りていった。ただ、手摺りを掴みながらであり、どことなく脚がふらついているようにも思えた。
涼介は、そのまま硬直したままでいた。
胸の奥に、言葉にできない違和感だけが残っていた。
さっきのあの笑顔と、たったいまの鋭い目──。
同じ人間のものとは思えなかった。
いつの間にか、階段の下の美咲の姿はもうなくなった。
涼介は、ただその方向を見下ろしていた。
かなりの時間が経ってから、涼介は我に返った。
階段を下りながらも、頭の奥には、さきほど見た美咲の表情が焼きついたままだった。
美咲には午後の講義はないようだったが、涼介には専門科目が二つ入っている。
南門を出て、学園に隣接する公園を横切り、いつものチェーン店で昼食を済ませるつもりでいた。
公園の小道に入ったとき、前方を横切る人影に目が留まった。
駅の方角へ向かう、見覚えのある後ろ姿だ。
大きなマスクに、丸縁のサングラスをしていたが、同じ服装だったから、涼介にはすぐに美咲だと分かった。
だが、顔を隠すような格好は、朝の彼女とはあまりにも違っていた。
しかも、様子が明らかにおかしい。
腰がわずかに屈み、歩幅が不揃いだ。
よろよろとした足取りで、ぎこちなく公園を進んでいる。
また、なぜか、両手は背中で不自然に合わせられ、親指同士が触れたまま離れない。
少し距離を置いて見ていると、身体が竦んだように伸び、次の瞬間、がくりと膝が折れる。
それを、何度も繰り返している。
そのとき、涼介は気づいた。
美咲のトートバッグを、後ろから少し離れて歩く男が持っていたのだ。
後ろ姿で距離もあるが、年配ではないものの、大学生には見えなかった。
小太りでぼさぼさの髪。下はジーパン、上はジャージ。足元はサンダル。
お世辞にも、お洒落とは言えない。
可愛らしく、学内でも注目される美咲とは、あまりにも釣り合わない。
どうして、その男が美咲の荷物を持っているのか……?
疑念が、はっきりと形を持ち始めた。
涼介は、男の顔を確かめようと、公園の中央を抜けて前に出ようとした。
そのときだった。
男がジーパンのポケットからスマートフォンを取り出すのが横目で見えた。
さらに、親指で忙しなく画面を操作する。
涼介は、違和感にまた立ち止まった。
次の瞬間、美咲が立ち止まり、膝を折った。
完全な中腰だ。短いスカートから黒っぽいものが奥に覗く。
両手は、やはり背中で合わせたままだ。
美咲が、男の方を振り返る。
表情はマスクとサングラスに隠れているが、必死に、なにかを訴えているように見えた。
「……」
男が短くなにかを喋り、再びスマートフォンを操作する。
中腰だった美咲の身体が、尻を後ろに突き出すように張りつめ、そのまま、完全にしゃがみ込んだ。
涼介は、はっとした。
あれは、ただの体調不良ではない。
美咲の身体が、しゃがんだまま、がくがくと震え始める。
周囲の人間はほとんど気づいていないが、涼介にはわかった。
あれは、意図的な操作だ──。
よくネットなどの映像でしか見たことのない、大人の玩具を使った遊びだ。
それを使って、あの男が美咲を弄んでいるとしか思えなかった──。
唖然とする。
どうして、美咲のような子が、こんなことを──。
涼介は足を止めたまま、近づくことができなかった。
だが、すぐに理解する。
おそらく、美咲は脅されている。
証拠は、背中に回された両手だ。
不自然な位置で固定されたまま、いまだに自由が利いていない。
目立たないが、なにかの手段で拘束されているのだと悟った。
涼介は、もう一度、ふたりに向かって足を進めた。
すると、男はスマートフォンを片手に持ったまま、美咲に近づいた。
肩を掴み、強引に引き起こす。
美咲は腰を震わせたまま、まともに立てない様子だった。
それでも抵抗する素振りはなく、男に身体を預けるようにして歩き出す。
涼介には、それが意図的にふたりが涼介から距離を保とうする動作に思えた。躊躇して足の歩みを緩める。
ふたりが向かったのは、すぐ横にあった生け垣と管理倉庫の壁に挟まれた狭い場所だ。
ちょうど、人の視線が切れる場所──その奥に──。
美咲と彼女の肩を抱くふたりの姿が、倉庫の陰に消える。
涼介は息を詰め、回り込むように距離を保ったまま走った。
植え込みの影に身を寄せ、そこから様子を窺う。
「……えっ」
思わず、声が漏れた。
ふたりは、涼介の横を見せたまま密着していた。
倉庫の壁を背に、美咲は両手を背中で組んだまま、男の胸元に身体を寄せている。
美咲が押さえつけられているようには見えなかった。
むしろ、美咲の方が爪先立ちになり、必死に顔を上げている。
男が顔を下に向けると、美咲が必死に顔をあげ、唇と唇が重なった。
昂奮するように美咲が舌から唇を男の唇に押しつけている。男の口の中に舌を差し込んでいるのは美咲の方だ。美咲の舌が男の口のなかで動き回っているのが、男の頬が内側から押し出されることで、それがはっきりとわかった。
重なる口の端から涎が流れるが、美咲は気にする様子もなく、一心不乱に男の口を貪っている。
男は受け入れるだけで、動いているのは美咲の方だった。
涼介は、とっさに身を引いた。
樹木の影に身体を完全に隠す。
そのとき、男が再びスマートフォンを操作するのが見えた。
ふたりはまだ離れていない。
そのまま、美咲の身体が強張ったように止まり、震え始める。
しばらく耐えるようにしていたが、男が指先だけで、さらに画面を操作すると、「……んっ」甘い声が、かすかに漏れた。
美咲はその場に崩れ落ち、男の足元に身を寄せる。
身体を折るようにして、震えが止まらない。
そして、身体を一瞬硬直させ、がくりと脱力した。
涼介は、息を呑んだ。
理解してしまったことを、強く後悔する。
そのとき、男が美咲になにかを話しかける。
美咲も言い返しているようだったが、さすがに声は届かない。
すると、男がゆっくりと美咲の顔からマスクとサングラスを外した。
美咲は、されるがままだった。
跪いた姿勢のまま、美咲が顔を上げる。
そして、横に顔を向けて、こちらを見る。
完全に、視線が合った。
火照った頬──。
汗で張り付いた前髪──。
涙を滲ませた目──。
なんという妖艶さ。
涼介は口に溜まった唾液を飲み込んだ。
その美咲がゆっくりと口角を上げる。
挑むように……。
「あっ」
涼介の喉から、小さな声が漏れた。
次の瞬間、涼介は背を向けていた。
考えるよりも先に、身体が逃げ出していた。
振り返ることはできなかった。
最後に視界に残ったのは……不敵に微笑む美咲と──どこか気の毒そうな表情を浮かべた、あの無精髭の男の顔だった。