※この作品はR-18です。

裏 母の写真   作:松田義和

1 / 15
自撮り写真

久しぶりにあの子が帰ってきた。

思っていた以上に、うれしかった。

いつの間にか背も高くなって、声も落ち着いていて……でも、やっぱり私にとっては、どこか子どものままだった。

 

唐揚げを揚げすぎて、少し焦がしてしまった。

「あらやだ、緊張しちゃった」なんて笑ってごまかしたけど、本当はちょっと舞い上がっていたのかもしれない。

夫も、いつになく饒舌だった。穏やかで、のんびりとした夏の一日。

それだけのはずだった。

……あれさえ、なければ。

 

――あれは、ほんの出来心だったの。

 

たしかにその写真は、私が撮った。

誰かに見せるためだったのか、自分を確かめたかっただけなのか……今でもわからない。

ただ、たまたま化粧のノリがよくて、新しく買った下着がちょっと気に入っていて。

鏡の前に立ったとき、衝動的にスマホを手に取ってしまった。

 

自分でも驚くくらい自然に、カメラを見て、微笑んでいた。

それを保存する前に、何度も迷った。でも、消せなかった。

……こんな写真、誰にも見られるはずがないと思っていた。

あの子にさえも。

 

それなのに。

その日はなぜかスマホのロックをかけ忘れていた。

たまたま? それとも――

いや、考えたくない。ただのうっかり。そうに決まってる。

 

お風呂から上がると、リビングは静かで、ソファの上にスマホがきちんと置かれていた。

何も変わらない風景。

でも、私の中には小さなざわめきがあった。

――見られたんじゃないか。

そんな予感。

 

「あんた、ごはんチンして食べなさいよ〜」

そう声をかけたときの自分の声が、どこか空々しく感じられた。

 

あの子は、何も言わなかった。

でも目を合わせようとはしなかった。

箸の動きがぎこちなかった。

笑わなかった。

 

もしかして――あの写真を見た?

考えた瞬間、心臓が一気に跳ね上がる。

鼓動が速くなる。汗がにじむ。手のひらがじっとりしてくる。

見ただけじゃなくて自分のスマホにコピーした?

 

……いや、違う。考えすぎ。

そう自分に言い聞かせたけど、落ち着くことはなかった。

あの子の視線の冷たさが、何かを確信させてしまった。

 

それから、数日。

ふと気づくと、あの子が私のノートパソコンを触っていた。

古いやつ。最近、久しぶりに引っ張り出してきて、少し整理していたけど……

 

何を探しているの?

 

息が詰まるような感覚。

怖い。

何より、自分自身が見られていたという事実が、怖かった。

 

「母」じゃなくて、「女」としての私。

一度しまい込んだはずの部分を、あの子が覗いたとしたら――

もう、前と同じには戻れない。

 

見られてしまったかもしれない。

それでも、私はいつも通りに振る舞った。

夕飯を作り、洗濯物をたたみ、笑顔で話しかける。

 

でも、あの子の中で、私という存在はきっと少し変わってしまったのだろう。

唐揚げの焦げたにおいの向こうに、見てはいけない何かを感じたに違いない。

 

数枚のほんの気の迷い。

……なのに、どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。

 

 

それから、数日が経った。

あの夜以来、私は意識的にスマホを枕元に置くようになった。ロックもかけなおした。

パソコンのフォルダも、削除できるものはすべて消した。

もう、誰にも見られないように。

……いや、本当は――もう見られている、という前提でしか動けなくなっていた。

 

あの子は、何も言わない。

いつも通りに食べ、風呂に入り、少し遅くまで起きている。

それなのに、空気の流れがどこか違う。

言葉の間に、小さな沈黙が挟まるようになった。

目が合いそうで合わない。

たとえ同じ空間にいても、同じ場所にはいないような感覚。

 

私の中にある「母親」としての顔が、少しずつ削られていく。

そのたびに、胸が痛くなる。

だけど、それと同時に――

どこかで、もう一人の“私”が顔を出す。

 

彼は、もう知ってしまった。

あの写真の中の私を。

“女”としての、私を。

 

だったら――

もう、隠す必要なんて、あるの?

 

そう思いかけて、慌てて頭を振った。

駄目。そんなことを考えちゃいけない。

私は母親で、家庭があって、夫がいて。

何もかも、壊してはいけない。

 

でも夜になると、布団の中でまぶたを閉じても、

あの子のポケットの中にある“私”の姿が浮かんでくる。

そして思ってしまう。

 

――今も、まだあの写真を持ってる?

――ときどき、見返したりしてる?

 

そんな想像が頭をよぎるたびに、

罪悪感と、別の何かが胸の奥でせめぎあう。

 

朝。キッチンに立つ私を、あの子が背後から一瞬だけ見た。

何も言わずに、視線を逸らす。

その視線に、拒絶と困惑、そして……好奇心のようなものが混ざっているように感じた。

 

私の服装も、少しずつ変わってきていた。

以前より、キャミソールの肩紐を気にしなくなった。

髪をまとめるとき、少しだけ後れ毛を残すようになった。

意識しているわけじゃない――たぶん。

でも、意識していないとも、言い切れなかった。

 

ふと、思う。

 

見つかった写真が“終わり”じゃなくて、“始まり”だったとしたら。

あの子の中で何かが目覚めてしまったとしたら。

私の中の“何か”も、もう止まらないのかもしれないとしたら――

 

怖い。

でも、もう目を逸らせない。

 

私は母親として生きてきた。

でも、その役割の外側にある自分を、

あの子が見つけてしまった今――

私も、その“自分”を認めてしまいそうになっていた。

 

そして、それを拒めずにいる自分が、一番怖かった。

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。