久しぶりにあの子が帰ってきた。
思っていた以上に、うれしかった。
いつの間にか背も高くなって、声も落ち着いていて……でも、やっぱり私にとっては、どこか子どものままだった。
唐揚げを揚げすぎて、少し焦がしてしまった。
「あらやだ、緊張しちゃった」なんて笑ってごまかしたけど、本当はちょっと舞い上がっていたのかもしれない。
夫も、いつになく饒舌だった。穏やかで、のんびりとした夏の一日。
それだけのはずだった。
……あれさえ、なければ。
――あれは、ほんの出来心だったの。
たしかにその写真は、私が撮った。
誰かに見せるためだったのか、自分を確かめたかっただけなのか……今でもわからない。
ただ、たまたま化粧のノリがよくて、新しく買った下着がちょっと気に入っていて。
鏡の前に立ったとき、衝動的にスマホを手に取ってしまった。
自分でも驚くくらい自然に、カメラを見て、微笑んでいた。
それを保存する前に、何度も迷った。でも、消せなかった。
……こんな写真、誰にも見られるはずがないと思っていた。
あの子にさえも。
それなのに。
その日はなぜかスマホのロックをかけ忘れていた。
たまたま? それとも――
いや、考えたくない。ただのうっかり。そうに決まってる。
お風呂から上がると、リビングは静かで、ソファの上にスマホがきちんと置かれていた。
何も変わらない風景。
でも、私の中には小さなざわめきがあった。
――見られたんじゃないか。
そんな予感。
「あんた、ごはんチンして食べなさいよ〜」
そう声をかけたときの自分の声が、どこか空々しく感じられた。
あの子は、何も言わなかった。
でも目を合わせようとはしなかった。
箸の動きがぎこちなかった。
笑わなかった。
もしかして――あの写真を見た?
考えた瞬間、心臓が一気に跳ね上がる。
鼓動が速くなる。汗がにじむ。手のひらがじっとりしてくる。
見ただけじゃなくて自分のスマホにコピーした?
……いや、違う。考えすぎ。
そう自分に言い聞かせたけど、落ち着くことはなかった。
あの子の視線の冷たさが、何かを確信させてしまった。
それから、数日。
ふと気づくと、あの子が私のノートパソコンを触っていた。
古いやつ。最近、久しぶりに引っ張り出してきて、少し整理していたけど……
何を探しているの?
息が詰まるような感覚。
怖い。
何より、自分自身が見られていたという事実が、怖かった。
「母」じゃなくて、「女」としての私。
一度しまい込んだはずの部分を、あの子が覗いたとしたら――
もう、前と同じには戻れない。
見られてしまったかもしれない。
それでも、私はいつも通りに振る舞った。
夕飯を作り、洗濯物をたたみ、笑顔で話しかける。
でも、あの子の中で、私という存在はきっと少し変わってしまったのだろう。
唐揚げの焦げたにおいの向こうに、見てはいけない何かを感じたに違いない。
数枚のほんの気の迷い。
……なのに、どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。
それから、数日が経った。
あの夜以来、私は意識的にスマホを枕元に置くようになった。ロックもかけなおした。
パソコンのフォルダも、削除できるものはすべて消した。
もう、誰にも見られないように。
……いや、本当は――もう見られている、という前提でしか動けなくなっていた。
あの子は、何も言わない。
いつも通りに食べ、風呂に入り、少し遅くまで起きている。
それなのに、空気の流れがどこか違う。
言葉の間に、小さな沈黙が挟まるようになった。
目が合いそうで合わない。
たとえ同じ空間にいても、同じ場所にはいないような感覚。
私の中にある「母親」としての顔が、少しずつ削られていく。
そのたびに、胸が痛くなる。
だけど、それと同時に――
どこかで、もう一人の“私”が顔を出す。
彼は、もう知ってしまった。
あの写真の中の私を。
“女”としての、私を。
だったら――
もう、隠す必要なんて、あるの?
そう思いかけて、慌てて頭を振った。
駄目。そんなことを考えちゃいけない。
私は母親で、家庭があって、夫がいて。
何もかも、壊してはいけない。
でも夜になると、布団の中でまぶたを閉じても、
あの子のポケットの中にある“私”の姿が浮かんでくる。
そして思ってしまう。
――今も、まだあの写真を持ってる?
――ときどき、見返したりしてる?
そんな想像が頭をよぎるたびに、
罪悪感と、別の何かが胸の奥でせめぎあう。
朝。キッチンに立つ私を、あの子が背後から一瞬だけ見た。
何も言わずに、視線を逸らす。
その視線に、拒絶と困惑、そして……好奇心のようなものが混ざっているように感じた。
私の服装も、少しずつ変わってきていた。
以前より、キャミソールの肩紐を気にしなくなった。
髪をまとめるとき、少しだけ後れ毛を残すようになった。
意識しているわけじゃない――たぶん。
でも、意識していないとも、言い切れなかった。
ふと、思う。
見つかった写真が“終わり”じゃなくて、“始まり”だったとしたら。
あの子の中で何かが目覚めてしまったとしたら。
私の中の“何か”も、もう止まらないのかもしれないとしたら――
怖い。
でも、もう目を逸らせない。
私は母親として生きてきた。
でも、その役割の外側にある自分を、
あの子が見つけてしまった今――
私も、その“自分”を認めてしまいそうになっていた。
そして、それを拒めずにいる自分が、一番怖かった。