朝。
いつもより少し遅く目が覚めた。
目元に残るのは、眠気ではなく、
夜の間に燃え尽きずに残った、熱の残骸だった。
スマホのアラームは鳴らなかった。
昨夜、アラームを切っていたことを思い出す。
写真を撮ったあと、通知音すら煩わしく思えた自分がいた。
起き上がり、寝間着のままリビングへ向かうと、
すでにあの子が、テーブルに座っていた。
珍しく早起きしていた彼は、黙ってスマホを触っていた。
そのスマホが――
私のものだった。
一瞬、息が止まった。
「それ……」
声が自然に出たのか、意図せず漏れたのか、わからない。
彼が顔を上げて、目が合った。
驚いてはいなかった。
ただ、少しだけ、目を伏せるようにしてスマホを置いた。
「……画面、開きっぱなしだったから。アラーム鳴ってたし」
そう言った彼の言葉は、ごく自然だった。
でも、私はその中に**“嘘と本音の間”**を感じ取ってしまった。
画面は――写真アプリのままだった。
しかも、あの一枚が、うっすらと表示されていた。
肩が落ちた薄いカーディガン。
わざとらしくない化粧。
静かに何かを待っているような目線。
自分で撮ったときには、“見せるためではなかった”はずだった。
でもその一方で、“見つかってしまうかもしれない”という願いを、
私は確かに、どこかで抱いていた。
それが今――
現実になった。
「あの……」
彼の声は、消え入りそうだった。
言葉を継ごうとして、やめたようだった。
私は微笑むでも、叱るでもなく、
ただ、小さく息を吐いた。
「……もう、見たのね」
自分でそう口にしたとき、
不思議と、怖さはなかった。
あるのは、むしろ受け入れる静けさだった。
彼は、それ以上何も言わなかった。
でも、目を逸らすこともしなかった。
スマホをテーブルの上に戻し、
コップの水を飲んだ彼の喉の動きが、
やけに生々しく見えた。
そして私は、その姿を見ながら思っていた。
あの一枚が、彼の目に届いたことで、
今夜の答えは――もう、出てしまったのだと。
自分の中で決めていた“最後の一線”。
それは、「見られた瞬間」から、
もう越えられていたのかもしれない。
夜の空気は、妙に軽かった。
昼間のあの出来事――
「最後の写真」が、ついに彼の目に触れてしまったこと。
そして、それに対して私がもう拒まなかったこと。
あの沈黙の中で、何かがはっきりと“決まってしまった”気がしていた。
私は今までずっと、受け取られる側でいようとしていた。
見られること、気づかれること。
それだけで、自分が保たれるような気がしていた。
けれど――もう違っていた。
私は今、選ばせようとしている。
「来るか、来ないか」。
その選択を、あの子に委ねようとしている。
だから、私は動いた。
夜の十時をすぎて、家の明かりがすべて落ちた頃。
私は寝室のドアを、わざと少しだけ開けておいた。
鍵はかけず、隙間から柔らかな常夜灯の光が漏れるように。
布団の上に座り、髪をほどく。
いつもならまとめて寝てしまうのに、今夜はそれをしなかった。
肩のラインを隠さない薄手のインナー。
何も飾らない、でも自然に“肌が見える”部屋着。
香水もつけない。
ただ、風呂あがりの素肌の匂いだけを残す。
私は、ベッドサイドのスマホを確認する。
通知はなかった。
でも、そんなものは必要なかった。
部屋の外にあるもうひとつの気配――
その足音が、近づいてくるかもしれない。
あるいは、遠ざかってしまうかもしれない。
それを、私はただ待つ側で受け入れようとしていた。
たった数センチの“開かれたドア”。
それが、私から差し出す機会だった。
何も言わない。
何も求めない。
でも、そこに確かに意志はある。
ベッドに背を預け、照明を落とす。
扉の隙間から入り込む光が、天井に細い筋を描いていた。
私は目を閉じた。
眠るわけではない。
呼吸を整えながら、胸の鼓動をゆっくり数える。
――来るなら、今夜だと思った。
そう思いながら、
私はその夜、何もせずに、ただ静かに、
その気配だけを待っていた。
自分の中で、すでに“与える側”になってしまったことを――
どこかで、恐れながらも、否定はしていなかった。
気づいたのは、息を潜めたような足音だった。
最初は気のせいかと思った。
でもそれは、明らかにこちらへ向かってくる音だった。
畳を踏みしめる、ゆっくりとした、迷いの混じった歩調。
私は目を閉じたまま、呼吸を浅くして耳を澄ませる。
息子の足音は、廊下の途中で一度止まった。
そして――再び、静かに進み始めた。
扉のすぐ手前。
たった数歩のところまで、来ていた。
部屋のドアは、わずかに開いている。
中の空気が、廊下に漏れているのが分かる。
あの子も、きっとそれを感じているはずだった。
私は、何も言わなかった。
呼吸を止めるようにして、布団の中で身を横たえたまま、
ただ、待っていた。
その気配が、扉の前で止まる。
ノックの音はない。
声もない。
けれど、そこにいると分かる。
たとえ目を閉じていても。
たとえ振り返らなくても。
感じ取れてしまう距離。
扉は開かれなかった。
でも、閉じられる音もしなかった。
私は、あえて声をかけなかった。
「どうしたの?」とも言わず、
「入っておいで」とも言わず。
ただ、その沈黙を受け入れた。
その時間が、どれくらい続いたのか分からない。
でも、私はそのあいだ、一度もまぶたを開けなかった。
緊張ではなく、覚悟のための沈黙だった。
もし、あの子がそのまま扉を押し開けるなら――
私は、それを受け入れるだろうと、そう思っていた。
でもその夜、扉は最後まで開かなかった。
足音が、そっと後ろに下がった。
廊下を戻っていく気配。
一歩ずつ、静かに、遠ざかっていく。
私はようやく、長く止めていた呼吸を吐いた。
安堵なのか、落胆なのか、自分でも分からなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
私は、もう“待つ”ことに慣れてしまっている。
そして、あの子が今夜は来なかったとしても――
またいつか来る日があることを、
私はもう、信じてしまっていた。