※この作品はR-18です。

裏 母の写真   作:松田義和

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最後の一枚

朝。

いつもより少し遅く目が覚めた。

目元に残るのは、眠気ではなく、

夜の間に燃え尽きずに残った、熱の残骸だった。

 

スマホのアラームは鳴らなかった。

昨夜、アラームを切っていたことを思い出す。

写真を撮ったあと、通知音すら煩わしく思えた自分がいた。

 

起き上がり、寝間着のままリビングへ向かうと、

すでにあの子が、テーブルに座っていた。

珍しく早起きしていた彼は、黙ってスマホを触っていた。

 

そのスマホが――

私のものだった。

 

一瞬、息が止まった。

 

「それ……」

 

声が自然に出たのか、意図せず漏れたのか、わからない。

彼が顔を上げて、目が合った。

 

驚いてはいなかった。

ただ、少しだけ、目を伏せるようにしてスマホを置いた。

 

「……画面、開きっぱなしだったから。アラーム鳴ってたし」

そう言った彼の言葉は、ごく自然だった。

でも、私はその中に**“嘘と本音の間”**を感じ取ってしまった。

 

画面は――写真アプリのままだった。

しかも、あの一枚が、うっすらと表示されていた。

 

肩が落ちた薄いカーディガン。

わざとらしくない化粧。

静かに何かを待っているような目線。

 

自分で撮ったときには、“見せるためではなかった”はずだった。

でもその一方で、“見つかってしまうかもしれない”という願いを、

私は確かに、どこかで抱いていた。

 

それが今――

現実になった。

 

「あの……」

 

彼の声は、消え入りそうだった。

言葉を継ごうとして、やめたようだった。

私は微笑むでも、叱るでもなく、

ただ、小さく息を吐いた。

 

「……もう、見たのね」

 

自分でそう口にしたとき、

不思議と、怖さはなかった。

あるのは、むしろ受け入れる静けさだった。

 

彼は、それ以上何も言わなかった。

でも、目を逸らすこともしなかった。

 

スマホをテーブルの上に戻し、

コップの水を飲んだ彼の喉の動きが、

やけに生々しく見えた。

 

そして私は、その姿を見ながら思っていた。

あの一枚が、彼の目に届いたことで、

今夜の答えは――もう、出てしまったのだと。

 

自分の中で決めていた“最後の一線”。

それは、「見られた瞬間」から、

もう越えられていたのかもしれない。

 

 

夜の空気は、妙に軽かった。

 

昼間のあの出来事――

「最後の写真」が、ついに彼の目に触れてしまったこと。

そして、それに対して私がもう拒まなかったこと。

 

あの沈黙の中で、何かがはっきりと“決まってしまった”気がしていた。

 

私は今までずっと、受け取られる側でいようとしていた。

見られること、気づかれること。

それだけで、自分が保たれるような気がしていた。

 

けれど――もう違っていた。

 

私は今、選ばせようとしている。

「来るか、来ないか」。

その選択を、あの子に委ねようとしている。

 

だから、私は動いた。

 

夜の十時をすぎて、家の明かりがすべて落ちた頃。

私は寝室のドアを、わざと少しだけ開けておいた。

鍵はかけず、隙間から柔らかな常夜灯の光が漏れるように。

 

布団の上に座り、髪をほどく。

いつもならまとめて寝てしまうのに、今夜はそれをしなかった。

 

肩のラインを隠さない薄手のインナー。

何も飾らない、でも自然に“肌が見える”部屋着。

香水もつけない。

ただ、風呂あがりの素肌の匂いだけを残す。

 

私は、ベッドサイドのスマホを確認する。

通知はなかった。

でも、そんなものは必要なかった。

 

部屋の外にあるもうひとつの気配――

その足音が、近づいてくるかもしれない。

あるいは、遠ざかってしまうかもしれない。

それを、私はただ待つ側で受け入れようとしていた。

 

たった数センチの“開かれたドア”。

それが、私から差し出す機会だった。

 

何も言わない。

何も求めない。

 

でも、そこに確かに意志はある。

 

ベッドに背を預け、照明を落とす。

扉の隙間から入り込む光が、天井に細い筋を描いていた。

 

私は目を閉じた。

眠るわけではない。

呼吸を整えながら、胸の鼓動をゆっくり数える。

 

――来るなら、今夜だと思った。

 

そう思いながら、

私はその夜、何もせずに、ただ静かに、

その気配だけを待っていた。

 

自分の中で、すでに“与える側”になってしまったことを――

どこかで、恐れながらも、否定はしていなかった。

 

 

気づいたのは、息を潜めたような足音だった。

 

最初は気のせいかと思った。

でもそれは、明らかにこちらへ向かってくる音だった。

畳を踏みしめる、ゆっくりとした、迷いの混じった歩調。

 

私は目を閉じたまま、呼吸を浅くして耳を澄ませる。

息子の足音は、廊下の途中で一度止まった。

そして――再び、静かに進み始めた。

 

扉のすぐ手前。

たった数歩のところまで、来ていた。

 

部屋のドアは、わずかに開いている。

中の空気が、廊下に漏れているのが分かる。

あの子も、きっとそれを感じているはずだった。

 

私は、何も言わなかった。

呼吸を止めるようにして、布団の中で身を横たえたまま、

ただ、待っていた。

 

その気配が、扉の前で止まる。

ノックの音はない。

声もない。

けれど、そこにいると分かる。

 

たとえ目を閉じていても。

たとえ振り返らなくても。

感じ取れてしまう距離。

 

扉は開かれなかった。

でも、閉じられる音もしなかった。

 

私は、あえて声をかけなかった。

 

「どうしたの?」とも言わず、

「入っておいで」とも言わず。

ただ、その沈黙を受け入れた。

 

その時間が、どれくらい続いたのか分からない。

でも、私はそのあいだ、一度もまぶたを開けなかった。

 

緊張ではなく、覚悟のための沈黙だった。

もし、あの子がそのまま扉を押し開けるなら――

私は、それを受け入れるだろうと、そう思っていた。

 

でもその夜、扉は最後まで開かなかった。

 

足音が、そっと後ろに下がった。

廊下を戻っていく気配。

一歩ずつ、静かに、遠ざかっていく。

 

私はようやく、長く止めていた呼吸を吐いた。

 

安堵なのか、落胆なのか、自分でも分からなかった。

ただ、ひとつだけ確かなことがあった。

 

私は、もう“待つ”ことに慣れてしまっている。

 

そして、あの子が今夜は来なかったとしても――

またいつか来る日があることを、

私はもう、信じてしまっていた。

 

 

 

 

 

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